『軽口の練習』

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/29 📚 シリーズ: 短編集 📝 4,723文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

短編が気が向いた時に繁殖します

本文

僕の特技は、燃えかけた場を消すことだ。

会議室で誰かの声が尖った瞬間、空気の角を見つけて、そこに滑り込む。冗談を一滴落として温度を下げる。責任の置き場所を少しだけずらして、爆発を「なかったこと」にする。そうやって僕は、社会人としては優等生みたいに生きてきた。

代償も、ちゃんとある。

火を消し続けると、いつの間にか自分の中の火も冷める。冷めたことに気づかないくらい、手際よく。

入社して三年目あたりから、僕は「立ち回りが上手い」と言われるようになった。褒め言葉の顔をした、便利の札だ。

失敗しそうな案件が回ってくる。

誰かが言いにくいことを、僕が“角の立たない言葉”にして言う。

飲み会の席で、先輩の失言を笑いに変えて場を救う。

救ったあとは、なぜか僕が後片づけ担当になっている。救う役は、だいたい掃除も兼務らしい。

しかも僕は、変なところで計算が早い。

誰が今どんな顔をして、誰が次に怒るか、どこで謝ったら火が小さくなるか。相手の呼吸の揺れで分かってしまう。分かるから、やってしまう。やってしまうから、頼られる。頼られるから、さらに分かる。

上手く回る循環は、いちばん抜けにくい。

その朝、部長の田淵が、いつもの穏やかな顔で言った。

「この件、君が前に出て。先方の機嫌、取っておいて」

穏やかな顔。声も柔らかい。なのに内容は、刺さる。しかも刺した自覚がないやつだ。

「僕が、ですか」

「君、得意だろ。そういうの。ほら、角が立たない感じ」

角が立たない感じ。

言葉が軽いぶん、重い。角を立てないために、僕は何回、自分を削ったっけ。削った粉はどこに行くんだろう。掃除してない部屋の隅みたいに、見えないところに溜まっている気がした。

席に戻ると、隣のデスクの葵がモニターを睨んでいた。睨んでいるのに、目がやさしい。矛盾を持った目だ。

「……また、田淵さん?」

葵は、僕の顔だけで察する。察してしまう人は、たいてい悩みも増える。

「うん。例の“角が立たないやつ”」

「角が立たないの、すごいね」

「すごくない。癖」

「癖って、直せるの?」

「……直したことないから、知らない」

言った瞬間、葵の眉が少しだけ動いた。驚きと、なぜか安心の混ざった動き。

昼。先方の担当は、怒っていた。怒っているというより、困っている顔で怒っていた。困っている人は、怒りの使い方が荒い。だから刺さる。

「で? 結局、御社は何をしてくれるんですか」

僕は資料を揃えながら、心の中でいつもの手順を開いた。

呼吸、笑顔、短い謝罪、相手の言葉を復唱、落としどころを二つ、最後は相手に選ばせる。

完璧な火消しの流れ。

……その流れが、急に味気なく思えた。

僕が上手くやればやるほど、田淵の穏やかな顔は守られる。守られる代わりに、誰かが毎回「前に出る係」を背負う。背負う係が僕だと、皆が楽をする。楽をするのは悪じゃない。けど、楽のツケがいつも同じ場所に溜まるのは、さすがに偏っている。

「こちらで対応します。まず、今日のところは――」

口が勝手に動きかけて、止まった。

僕は、書類を一枚だけ閉じて言った。

「すみません。確認させてください。今回の原因、こちらのミスだけじゃありません」

担当の目が丸くなる。隣の同席の田淵(オンライン参加)が、画面の向こうで一瞬固まったのが見えた。

やってしまった、と思うより先に、息が深くなる。

怖い。でも、怖いまま言える。言えたことが、今日の自分を少しだけ好きにした。

「事実を整理しましょう。こちらの落ち度はここ。先方の条件変更がここ。どちらも直せます。直す順番を決めたいです」

言い切ったあと、沈黙が落ちた。沈黙は怖い。けど、沈黙の中で相手の肩が少し下がるのが見えた。怒りは、整理されると燃料に戻る。爆弾じゃなく。

結局、その場はまとまった。担当は「それなら」と言い、田淵は画面越しに「さすがだね」と笑った。

その「さすが」が、僕の胃に張り付いた。褒め言葉が、次の火消しの予約みたいに聞こえるからだ。

会議室を出たところで、同期の黒岩に捕まった。

「なあ、またお前が前に出たの?」

「出たよ」

「いいなあ。上手いよな、そういうの。俺、無理だもん」

黒岩は本気で言う。本気の羨ましさは、たまに刃になる。

「上手いって言うなよ」

「いや、上手い。俺さ、正直、ずるいと思う時ある」

ずるい。黒岩の口から出た瞬間、僕の胸の奥の粉がふわっと舞った。

「ずるいって」

「だってさ。上手くやると、損しないじゃん」

僕は笑いかけて、途中で止めた。上手くやるほど、損してる部分が見えなくなるだけだ、と言い返すのは簡単。でもそれは、黒岩の悩みを殴ることになる。

「損してないわけじゃないよ」

「え?」

「……うまく言えないけど」

言ったら、黒岩が妙に驚いた顔をして、次に笑った。

「お前でも“うまく言えない”とか言うんだ」

「言うよ。人間だし」

「そっか。じゃ、今日は俺がお前の分のコーヒー奢るわ。損の補填」

雑な優しさ。雑だから受け取れる。僕は黙って頷いた。

*

その夜、僕は会社の屋上にいた。街の光が薄い板みたいに広がって、風が強い。風が強いと、余計な考えが吹き飛ぶ。吹き飛ばしたい考えが多い人ほど、屋上に来る。

葵を呼び出したのは僕だ。理由は、決めたかったから。自分の線を。

葵がドアから出てきて、髪を押さえながら言った。

「こんなとこで何? 怖い話はやめてね」

「怖い話じゃない。……たぶん」

「たぶんが怖いんだよ」

僕は笑って、紙袋を差し出した。中身は、コンビニの小さなクッキーと、缶の炭酸。

「甘いやつと、酸っぱいやつ。どっちがいい?」

「選ばせてくれるの、珍しい」

「今日は、選ばせたい日」

葵は酸っぱいほうを取って、開けて一口飲んだ。顔がきゅっとなる。

「酸っぱ……」

「ほら、いま余計な言葉が減った」

「そういう使い方、ずるい」

風の音の間で、僕は言った。

「僕、会社辞める」

葵が、缶を持ったまま固まった。

「え」

「来月で。引き継ぎはする。揉めないように」

「……なんで」

「火消しが上手くなりすぎた」

「意味わかんない」

「わかんないでいい。僕も、半分わかってない」

葵はしばらく黙って、缶のふたを指でこつこつ叩いた。合図みたいに。

「じゃあ、どうするの」

「小さい会社で、企画をやる。火を消す仕事じゃなくて、火を起こすほう」

「火、怖くない?」

「怖いよ。だから、こっちのほうがいい」

「怖いのに、いい?」

「怖いのは、生きてる証拠だから」

葵が笑いかけて、途中で止めた。笑うと泣きそうな顔。

「そっか。……置いていくんだ」

「置いていかない。連絡先はある」

「それ、置いていく人の言い方」

「じゃあ言い直す。……困ったら呼んで。ちゃんと聞く。今度は、逃げないで」

「逃げないで、って言えるの偉いね」

「偉くない。練習」

「練習?」

僕はポケットから、ちいさなシールを出した。駅前の雑貨屋で買った、舌をちょこんと出した変な顔のシール。

「これ、僕の“軽口”の印」

「なにそれ」

「僕、さよならが下手なんだよ。重くしたくないのに、重くなる。だから先に、ふざける」

「ふざけるのは得意じゃん」

「得意だから、ちゃんと使う」

僕はシールを、葵の缶に貼った。目立つところじゃなく、側面のちょっと見えにくいところに。

「これを見たら、思い出して。悩みすぎても何も増えない日があるって」

「言い方、乱暴」

「乱暴は、たまに優しい」

葵は缶を見つめて、鼻で笑った。

「……じゃあ私も貼る」

葵はスマホケースの裏から、小さなメモを出した。いつも何かを挟んでいる人だ。

そこに書いたのは、たった一行。

《考えすぎたら、酸っぱいの》

「なにそれ」

「今日の手順。あなたがくれたやつ」

葵は顔を上げて言った。

「ねえ、辞める前に一個だけ」

「なに」

「田淵さんに、舌出していい?」

「物理的にはやめて」

「じゃあ心で」

「心なら、いくらでも」

僕らは笑った。風が強くて、笑い声がちぎれて飛んだ。ちぎれてもいい。残るものは、胸の奥の温度だ。

*

転職先の面接は、拍子抜けするほど小さかった。雑居ビルの二階、看板もない扉の向こうに、机が四つだけ並んでいる。

社長の坂口は、僕より少し年上で、Tシャツにジャケットという微妙な格好をしていた。堅くなりきれない人の服だ。

「うち、うまくいってないよ」

開口一番がそれで、僕は笑いそうになった。普通は隠す。普通は飾る。ここは最初から飾らないらしい。

「でも、うまくいってないって言える会社は、うまくいく余地がある」

僕が言うと、坂口が「お」と目を丸くした。

「君、口が回るね」

「回ります。でも、回りすぎて自分が迷子になります」

「いいじゃん。迷子、歓迎。うち、地図ないから」

坂口は笑って言った。笑いが軽い。軽いのに、逃げてない笑い。

「君は、何がしたい?」

さっきまでなら、僕は“角の立たない夢”を答えたと思う。社会貢献とか、成長とか、そういう正しい顔のやつ。

でも今日は、屋上の風の続きが胸にある。

「失敗しに行きたいです。ちゃんと」

「それ、面白いね」

「面白いって言ってくれるなら、行けます」

「じゃ、来なよ。うちは失敗、在庫ある」

面接は十分で終わった。終わったのに、心臓はまだ動いている。緊張のせいじゃない。久しぶりに火がついたせいだ。

*

退職の挨拶は、予想通り面倒だった。

「寂しくなるね」

「君がいないと困るよ」

「どうして急に」

みんな、やさしい顔で言う。やさしい顔の中に、便利な歯車が抜ける不安が混ざっている。混ざっているのを責める気はない。人間だ。

田淵だけは、最後まで穏やかな顔だった。

「君は賢いから、どこでもやっていけるよ」

賢い。賢いって言葉は、褒め言葉のふりをして逃げ道を塞ぐ。賢い人は頑張れるはず、という期待が混ざるからだ。

僕は笑って、でも目を逸らさずに言った。

「賢いなら、たまにはバカなこともします」

「バカ?」

「はい。ちゃんと失敗しに行きます」

田淵が一瞬だけ黙って、最後に笑った。初めて見る笑い方だった。穏やかな顔じゃなく、人間の笑い。

「……君らしいね」

「今さらです」

最後の日、僕はデスクの引き出しを全部空にして、代わりに一枚だけ置いた。

《困ったら、まず息》

誰宛てでもない。けど、誰かに当たる言葉。言葉は、宛名がなくても届く時がある。勝手に。

帰り際、葵がエレベーター前で待っていた。紙袋を持っている。

「はい。餞別」

「開けていい?」

「ここで開けると恥ずかしい。家で」

「じゃあ、いまは重さだけ受け取る」

僕が袋を受け取ると、中で小さく缶が鳴った。炭酸だ。きっと酸っぱいやつ。

「……わかってるね」

「考えすぎる人には、酸っぱいの」

葵は笑って、胸の前で手を振った。言葉の代わりの合図。

「じゃ。元気で、は言わない」

「言わないの?」

「言うと重いから。代わりに――」

葵は缶の側面を見せた。僕が貼ったシールが、そこにまだいる。

「これ見たら、思い出す。だから、またね」

「……またね」

僕はエレベーターの扉が閉まる直前、舌先をほんの少しだけ見せて笑った。挑発じゃない。合図だ。重くしないための、軽口の練習。

地上に降りると、空がやけに青かった。青いのに、胸が軽い。軽いのは、逃げたからじゃない。選んだからだ。

僕は歩きながら、袋の中の缶を指でこつんと叩いた。

今日の合図。

明日も、きっと合図で進む。

帰宅して紙袋を開けると、中には酸っぱい飴と、小さなメモ帳が入っていた。表紙に、雑な字で《軽口の練習》。

ページをめくると、最初の一行だけ書いてある。

《重くなったら、まず笑う。笑えなかったら、息》

僕は声を出さずに笑って、葵に短く送った。

『受け取った。次に沈んだら、遠慮なく呼べ。酸っぱいの用意しとく』

送信して、スマホを伏せる。胸の奥に、ちいさな火が残る。

明日、僕は新しいドアを押す。失敗の在庫がある場所へ。舌先で自分に合図して、行く。

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