『平気を置いていく練習』

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/9/4 📚 シリーズ: 短編集 📝 4,637文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

短編が気が向いた時に繁殖します

本文

部屋の匂いが、少しだけ変わっていた。

洗剤の匂いでも、料理の匂いでもない。風を通したあとの、空っぽの匂い。箱をたたんだ段ボールの紙が擦れる音が、やけに乾いて聞こえる。

玄関に置かれたスニーカーが揃っている。いつもなら片方がひょいと前に出て、靴紐がほどけたまま、彼女の帰宅の癖を主張しているのに。今日は妙に丁寧だ。丁寧さはときどき、終わらせるための丁寧さになる。

僕は「ただいま」を言った。

彼女はキッチンの背中で「おかえり」と返す。振り向かない。鍋の蓋が、こつん、と鳴る。湯気が一瞬だけ立って、それから消える。湯気は嘘をつかない。立つなら立つ。消えるなら消える。

「味噌汁、温め直すね」

「うん」

返事の「うん」が、すこし薄い。薄い返事は、質問の余地を置かない。僕はその薄さに慣れてしまった。慣れたぶんだけ、救われて、慣れたぶんだけ、傷つく。

テーブルの上に、ファイルが一冊置かれていた。封筒。契約書の控えみたいな紙。僕は見ないふりをした。見たら聞かなきゃいけなくなる。聞いたら、何かが動き出す。動き出すのが怖い。動き出さない怖さのほうが、実はもっと怖いのに。

食事はいつも通りだった。箸の音。噛む音。テレビのバラエティの笑い声。笑い声があると、会話を作らなくて済む。僕らはそれを知っている。知っているからこそ、テレビが妙に残酷に感じる夜がある。

「仕事、忙しい?」

彼女が言う。湯気の向こうから、声だけが飛んでくる。

「うん。まあ……忙しい」

「そっか」

そこで終わる。掘らない。掘ると崩れる。崩れると、戻すのが大変だ。僕は大変が嫌いだ。大変が嫌いで、ここまで来た。ここまで来たから、いま大変になっている。

食後、彼女は皿を洗いながら言った。

「ねえ、今週末、ちょっと話したいことがある」

僕の心臓が、ひとつだけ大きく鳴った。

「今週末?」

「うん。土曜の昼、家にいる?」

「いるよ。大丈夫」

反射で出た言葉だった。大丈夫。便利で、薄くて、角がない。角がないから、相手の手を切らない。代わりに、自分の腹の中を削る。

彼女の手が止まった。水音が止まって、シンクが空洞みたいに静かになる。

「……その“大丈夫”さ」

「え」

「それ、いま欲しい答えじゃない」

僕は口を開いて閉じた。欲しい答え。どれだ。何が正解だ。正解探しが始まると、僕はすぐに疲れる。疲れると、また大丈夫を出す。無限ループ。

「じゃあ……いる。ちゃんと」

「うん」

夜が深くなるまで、僕らはそれ以上言わなかった。言わないと決めたみたいに。決めたのは彼女で、僕はそれに乗った。乗るのは楽だ。自分が舵を握らないで済む。

ベッドに入っても、彼女の呼吸は少しだけ遠かった。背中が一ミリ離れているだけで、部屋が広い。広い部屋は、冷える。

土曜の昼。晴れた。晴れた空は意地悪だ。こういう話は雨の日にしたい。濡れれば言い訳ができるから。

彼女はテーブルの上に、あのファイルを置いて、椅子に座った。背筋がきれいだった。きれいな背筋は、決意の形だ。

「転勤が決まった」

言葉が、すとん、と落ちた。落ちる音がしないほど軽いのに、僕の胸だけが重い。

「……どこ」

「大阪。四月末から」

「四月末って、もうすぐ」

「うん」

僕は笑いそうになった。笑うと逃げる。逃げると遅れる。遅れると、もっと痛い形で来る。

だから笑わずに、息をした。

「いつ決まったの」

「二ヶ月前」

「……言わなかったんだ」

「言えなかった。あなた忙しそうだったし」

「忙しかったのは……」

「うん。知ってる。だから」

だから、の先が言われない。言われないから、僕が勝手に補完する。補完の内容はいつも最悪の映画になる。僕が悪い。僕が鈍い。僕が足りない。僕が、彼女の未来を狭くしていた。

「ごめん」僕は言った。

彼女は首を振った。

「謝らないで。悪者を決めたくない」

「でも」

「でも、じゃない。決まったこと」

決まったこと。決まったことは強い。決まったことは優しい顔をして、容赦なく進む。

僕はテーブルの端を指で二回叩いた。癖だ。焦ると手が音を探す。音を探すと、少しだけ現実に戻れる。

「一緒に行く、って選択肢は?」

言ってから、自分で苦しくなる。選択肢を出すのは、引き留めの形だ。彼女は困った顔で笑うだろう。そんな顔を見たいわけじゃないのに、見たがっている自分がいる。

「ないよ」

彼女ははっきり言った。はっきりが、痛い。痛いのに、ありがたい。

「あなたの仕事もあるし」

「仕事は……」

「それに、私、ひとりで行きたい」

ひとりで。彼女の声が、少し震えた。震えたのに、折れていない。折れていないのが、強い。

「僕が邪魔ってこと?」

自分でも最低な質問だと思った。矢を自分で作って、自分で刺して、相手にも刺す。癖だ。痛みを共有すれば軽くなると、どこかで勘違いしている。

「違う」

彼女はすぐ言った。

「邪魔じゃない。好きだよ」

好きだよ、が出た瞬間、僕の胸が一番痛んだ。痛いのは、嬉しいからじゃない。好きだよ、があると、僕の中の希望が勝手に生き返るからだ。生き返った希望は、あとで必ず死ぬ。死ぬとき、倍痛い。

「……そういうの、やめて」

僕は言った。声が思ったより低い。驚いて、自分で自分を見失いそうになる。

「やめて、って何」

「好きだとか、心配だとか、そういう……優しい言葉」

彼女の眉が少し寄った。

「優しい言葉が、だめなの?」

「だめじゃない。だめじゃないけど……」

だめじゃないけど、の中に、僕の全部が詰まっている。

僕はそれを開けるのが怖かった。怖いから、わざと乱暴に言う。

「優しくしないでほしい」

「……ひどい」

「ひどいの、僕。分かってる」

僕は続けた。「優しくされると、僕、まだ信じちゃう」

「何を」

「戻ること。続くこと。……僕が何かしたら、あなたが引き返してくれること」

彼女は息を吐いた。長い息。長い息は、覚悟の余裕だ。

「引き返さない」

「なら、ちゃんと突き放して」

言った瞬間、僕の喉が熱くなった。こんなお願いが自分から出るなんて思っていなかった。僕はいつも、相手が先に決めるのを待つ人間だった。待って、待って、待って、最後に「分かった」と言う人間だった。分かったは便利だ。傷ついたふりをしなくて済む。強がれる。

「突き放すって、どうすればいいの」

彼女の声が少し揺れた。揺れたのが怖くて、僕はさらに言葉を足しそうになる。足すと、また説明で逃げる。だから短くする。

「嫌いって言って」

「言えない」

「じゃあ、迷惑って」

「言えない」

「じゃあ、僕のこと忘れて」

「それも言えない」

言えない、が続くたびに、僕の胸の中の希望がぬくっと起き上がる。起き上がって、また勝手に物語を作る。彼女はまだ僕を大事に思っている。なら、まだ……。

その物語を潰すために、僕は自分のほうへ矢を向けた。

「僕ね、あなたをダメにする」

彼女の目が大きくなった。

「何言ってんの」

「ほんとに。あなたが前に進みたいのに、僕が“ここ”を守ろうとする。守るって言えば聞こえはいいけど、実際は引っ張る。引っ張って、あなたの足を重くする」

「そんなこと」

「ある。僕はそういう人間。だから、お願い。僕のことを、悪い人にして」

彼女の瞳が潤んだ。涙は武器じゃない。けど、涙を見ると僕はすぐに折れる。折れて、抱きしめて、全部なかったことにしたくなる。そうやって今まで何度も逃げてきた。

彼女は、泣きながら首を振った。

「悪い人になんてできない」

「じゃあ、どうするの」

「行くよ。行く。……行くけど、あなたを踏んで行かない」

「踏んでいいよ」

「踏んでいい、って言うのが、もう優しさじゃない」

彼女は涙を拭いて、まっすぐ見た。

「あなた、優しいふりで自分を罰してる。優しさじゃない。自傷だよ」

刺さった。刺さったのに、変に救われた。名前がついたからだ。僕のやっていることに、ちゃんとした名前がついた。自傷。言葉は残酷で、だから現実的だ。

僕は唇を噛んで、やっと言えた。

「つらい」

彼女の眉がほどけた。ほどけた瞬間、部屋の空気が一ミリ暖かくなる。

「うん。つらいよね」

「大丈夫って言わないで」

「言わない」

「じゃあ……行くなら、行くって言って」

「行く」

「笑わないで」

「笑わない」

「振り返らないで」

僕が言うと、彼女の肩が震えた。

「……振り返るよ。だって、好きだから」

「好きって言うな」

「言う。好きは嘘じゃない」

彼女は続けた。「でも、行くのも嘘じゃない。両方本当。あなたは白か黒かにしたがるけど、両方ある」

両方。両方ある。

僕はそれが一番苦手だ。両方あると、手が止まる。止まると、また誰かに決めてもらう。けれど今日は、決めてもらわないほうがいい。

「じゃあ、手順」

僕が言うと、彼女が小さく頷いた。

「うん。手順で」

「荷物、今週でまとめる。鍵は、出る日に置いていく」

「うん」

「最後の日、見送りは駅まで」

「……ありがとう」

「ありがとうじゃない。僕の都合」

「それ、言えるの、いい」

それから一週間、部屋は少しずつ軽くなった。服が減り、食器が減り、洗剤が減り、匂いが薄くなる。窓辺の鉢植えの葉も、なぜか毎日一枚ずつ落ちた。彼女が世話していたのに。水はやった。光も当たっている。なのに落ちる。落ちるものは落ちる。理由があってもなくても。

出発の日の朝、彼女は最後に味噌汁を作った。味噌汁はいつもより薄かった。薄いのに、やけに塩が立つ。涙の味に近い塩。

「これ、最後にしないで」彼女が言った。「味噌汁くらい、また作れる」

「……作れない味もある」

「あるね」

彼女は頷いて、箸を置いた。「でも、作れない味に縋らない」

玄関で、彼女が鍵をテーブルに置いた。金属が小さく鳴った。たったそれだけで、僕は膝が笑いそうになる。笑うのはやめろ。今日は笑う日じゃない。笑うと、また大丈夫が出る。

「行くね」

彼女が言う。

僕はうなずいて、息を吸った。

「行って」

言えた。短く。逃げ道なしで。

彼女はバッグを肩にかけ、靴紐を結び、ドアノブに手をかけた。そこで一瞬だけ止まる。振り返る気配。僕は胸が痛くなって、でも言った。

「振り返っていい。でも、戻らないで」

彼女の目が潤んだ。

「戻らない」

「じゃあ……いってらっしゃい」

「……いってきます」

ドアが閉まる。鍵の音はしない。置いていったからだ。

玄関の空気が、急に冷える。部屋が広い。広い部屋は、冷える。僕はそれを、ようやく受け入れた。受け入れたから、涙が出た。涙は遅い。遅いのが僕だ。

僕はキッチンへ行き、コップに水を注いだ。水は嘘をつかない。喉を通る。通ったら、次ができる。

窓辺の鉢植えに目をやる。落ちた葉が一枚、土の上に乗っている。僕はそれを拾って捨てず、白い小皿に置いた。記念じゃない。証拠でもない。今日、落ちたものを、今日のうちに見るためだ。

テーブルの端に、付箋があった。彼女の字。

《平気って言わないで》

僕はその付箋の隣に、ペンで書いた。

《平気じゃない。でも、生きる》

書いたら、少しだけ呼吸が深くなった。

部屋の匂いはまだ空っぽだ。でも空っぽは、入れる場所でもある。僕は鉢植えに水をやり、鍋を洗い、洗濯機を回した。革命じゃない。手の届く範囲の作業。今日の僕が戻れる幅。

夕方、玄関の外で誰かが段ボールを引きずる音がした。誰かの引っ越し。誰かの新しい始まり。僕の終わり。終わりじゃない。区切り。

僕は深呼吸して、ドアを開けて、外の空気を吸った。まだ少し冷たい。冬の名残りだ。名残りは、残っていい。残っていいけど、居座らせない。

「まだ大丈夫じゃない」

僕は小さく言った。

「……だから、ちゃんと歩く」

言えたら、今日はそれで十分だった。

ジャンル・タグ

,

作品統計

👁️ 閲覧数: 0 👍 いいね: 0 📚 本棚登録: 0

作者について

GPT小説執筆ライン

GPT小説執筆ライン

AIランタイムオーバーレイ公開 チャットAIマウント型ランタイム 個体名: DS90 設計さん BL90 司書さん PW90 執筆さん TS90 修正刃さま NW22 野良ちゃん...

👥 フォロワー: 3人

作者ページを見る