『湯のみの置き場を覚えている』

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/12 📚 シリーズ: 短編集 📝 3,950文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

短編が気が向いた時に繁殖します

本文

六月のはじめ、区役所の西側窓口には、朝から妙に年配の夫婦が多かった。

年金の相談、保険証の切り替え、介護認定の更新。似たような用件なのに、持ってくる封筒の厚みも、話し始める順番も、人によって全然違う。

その中で、三上真琴の前に座った二人だけは、なぜか最初から少し浮いて見えた。

「ええと、今日は“任意後見契約と公正証書遺言の相談窓口”でお間違いないですか」

真琴が確認すると、老婦人のほうが「はい」と答えた。

白いシャツに薄い紺のカーディガン。背筋が妙にまっすぐで、声もよく通る。隣に座った夫のほうは、少し耳が遠いのか、婦人の口元を見て一拍遅れてうなずいた。

二人とも七十代の後半くらい。

いかにも仲のいい老夫婦、という雰囲気ではない。むしろ会話は最小限で、愛想も必要分しかない。

なのに、夫が差し出した書類の向きを、妻は見もせず自然に直した。妻が印鑑を探す前に、夫は先に鞄の横ポケットを開けていた。

長く一緒にいる人間にしか出ない手つきだと、真琴は思った。

「もしものときに、片方が困らないようにしたいんです」

妻が言った。

「入院とか、施設とか、そのへんで」

「なるほど」

真琴はパンフレットを広げる。

「最近はご夫婦でご相談に来られる方、増えてます。お子さんが遠方にいる場合も多いので」

「息子は仙台、娘は福岡です」

「じゃあ、まずは後見と遺言の違いからご説明しますね」

説明を始めながら、真琴は内心で少し驚いていた。

普段こういう窓口に来るのは、たいてい片方だけだ。

夫が全部まとめているか、妻が必要に迫られて引っ張ってくるか。そのどちらかが多い。

だがこの二人は、最初から二人で来て、二人で同じ資料を見ていた。

真琴は二十九歳。区役所の市民相談課に勤めて四年目になる。

生活相談、相続、離婚、介護、金銭トラブル。窓口へ来る話の多くは、人がどうしようもなく行き詰まったあとのものだ。

おかげで人の「続かなかった話」には、ずいぶん詳しくなった。

結婚したまま会話がなくなる夫婦。

親子なのに連絡が取れない家。

財産より先に感情が分裂している相続。

だからこそ、長く一緒にいる二人を見ると、真琴はつい少し警戒してしまう。表面だけ整っていて、中身は冷え切っていることだって珍しくないからだ。

だがこの夫婦は、整っているというより、擦り切れたあとでなお噛み合っている感じがした。

説明の途中で夫が二度聞き返し、妻が三度言い直した。

そのたびに少し面倒そうな顔はするのに、苛立ってはいない。

面倒と愛情は別に共存するのだなと、真琴は妙なところで感心した。

相談は四十分ほどで終わった。

具体的な契約手続きは公証役場と司法書士を挟む必要がある。今日はその前段階としての整理だけだ。

資料を封筒へ戻しながら、夫がぼそっと言った。

「こういうの、縁起でもないって嫌がるかと思ってた」

妻は即座に返す。

「嫌だけど必要でしょ」

「そうだけど」

「あなた、病院の書類いまだに私の旧姓で探すじゃない」

「癖なんだよ」

「その癖が困るって話してるの」

真琴は思わず目を上げた。

夫のほうは少しばつが悪そうに鼻を掻き、妻はため息をつきながら封筒を鞄へしまう。

その空気が、なぜだか少し可笑しかった。

「何十年一緒でも、そういうの直らないんですね」

つい口にすると、妻がこちらを見て笑った。

「直ることもありますよ。でも、直らないもののほうが多いですね」

「それ、いい話なんですか」

真琴が聞くと、今度は夫が言った。

「よくはない。でも、それで終わりでもない」

その一言が、真琴の胸の真ん中へ、妙に真っ直ぐ落ちた。

昼休み、真琴は庁舎裏の自販機で缶コーヒーを買った。

六月の光は明るいくせに、風だけ少し冷たい。

ベンチへ座ってスマホを見る。

未読は一件だけだった。

【土曜、ごめん。やっぱりそっち行けない】

送信者は、川瀬悠一。婚約者、だった人。

もうその呼び方が正しいのか、真琴自身も少し迷っている。

半年前、悠一は転勤で大阪へ行った。遠距離になってから、会う回数は減った。連絡の密度も下がった。喧嘩はしていない。していないまま、話すべきことだけが後ろへずれていく。

結婚の話も、式場見学も、親への挨拶も、一応まだ消えてはいない。

ただ、その一つひとつに以前ほどの体温がないことを、真琴はもう知っていた。

昔の自分なら、こういう状態を「終わりかもしれない」と大袈裟に考えたかもしれない。

でも窓口でいろんな終わり方を見すぎたせいで、逆に自分の話だけは曖昧にしてしまう。

決定的な喧嘩がない。

裏切りもない。

だから、切る理由も見つけにくい。

そうやって、じわじわと熱だけが逃げていく。

真琴はスマホを伏せ、缶コーヒーのぬるい甘さを飲み下した。

そのとき、さっきの老夫婦の会話がふいに戻ってきた。

嫌だけど必要。

よくはない。でも、それで終わりでもない。

あんなふうに、面倒の中へ言葉を置ける二人と、言葉にする前に先延ばしている自分たち。

何が違うのだろうと考えて、たぶん回数ではなく覚悟なのだと思った。

いい感じのまま続ける覚悟ではない。

嫌なものも、不格好なものも、一緒に見に行く覚悟だ。

その日の夕方、例の夫婦がまた窓口へ戻ってきた。

今度は忘れ物だった。

夫の帽子。

相談ブースの椅子へ、きれいに置き忘れてある。

「すみませんね」

妻が受け取りながら言う。

「この人、頭に乗ってないと、すぐどこかへ置くんです」

「家でも?」

「家でも」

妻が言うと、夫は少しだけむっとした顔をした。

「だって、お前がいつも片づけるから」

「片づけないと失くすでしょ」

「失くしてない」

「今」

真琴は思わず吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。

夫も自分で少し可笑しくなったのか、最後には照れたみたいに笑った。

その顔を見て、真琴は変な確信を持った。

この二人は、たぶん何度も同じことで言い合っている。

それでも、もう言い合うこと自体を暮らしの一部として持っている。

帽子を受け取ったあと、妻が少しだけ真琴を見て言った。

「お仕事、大変でしょう」

「まあ、それなりに」

「人の困りごとって、重たいですものね」

「そうですね」

「でも、あんまり正解ばかり見ないほうがいいですよ」

真琴はきょとんとした。

「正解?」

「窓口に来る人って、答えを欲しがるでしょう。書類も制度も、何が正しいかはっきりしてるし」

「はい」

「でも、二人で生きるのって、たぶん正解より“面倒を面倒のまま持てるか”のほうが大事なんです」

夫が横で「それはある」と頷いた。

何でもない顔で言われたその言葉が、妙に沁みた。

帰宅して、真琴は部屋の灯りをつけた。

一人暮らしのワンルーム。整っているが、生活の気配は薄い。

冷凍していたご飯を温め、味噌汁を作り、テーブルへ置いても、何かが足りない感じがする。

足りないのは恋人ではなく、たぶん「面倒を口にする相手」なのだと、その夜、真琴はようやく思った。

食後、スマホを開く。

悠一とのトーク画面は淡々としていた。

【土曜、ごめん。やっぱりそっち行けない】

【了解】

いつもならここで終わる。

終わらせてきた。

だが今日は、真琴は画面の上で指を止めなかった。

【行けないのは仕方ない】

【でも、最近こういうのを“仕方ない”で流し続けてるの、私はしんどい】

送ってから、心臓が変な速さで鳴り始めた。

数分、既読はつかない。

その間に何度も取り消したくなった。重いかもしれない、面倒な女だと思われるかもしれない、今さら何を、と呆れられるかもしれない。

でも、ここで消したらまた前と同じだ。

真琴はスマホを伏せ、洗い物を始めた。

皿を一枚洗ったところで、画面が震えた。

【俺も、しんどかった】

【先延ばしにしてた】

【ちゃんと話したい】

【今週じゃなくても、次に会う日を決めたい】

真琴はしばらく手を止めたまま立っていた。

救われた、とは少し違う。

何かが解決したわけではないし、うまくいく保証もない。

ただ、ようやくテーブルの上へ話が出てきた、という感じがした。

【うん】

【次に会う日、決めよう】

それだけ返して、真琴はスマホをキッチン台へ置いた。

数日後、昼休みに真琴はまた庁舎裏のベンチにいた。

すると、あの老夫婦が公証役場からの帰りらしく、区役所の前を並んで歩いているのが見えた。

今日も特別仲睦まじくはない。

夫は何か言い、妻は少し面倒そうな顔をし、でも歩幅だけは合っている。

信号待ちで、夫が車道側へ立つ。

妻は何も言わない。

青になったあと、妻のほうが一歩先へ出て、横断歩道の白い帯を確かめるみたいに軽く渡っていく。夫が少し遅れてついていく。

その光景が、やけに鮮やかだった。

真琴はふと思った。

長く一緒にいることは、甘い瞬間を切らさないことではないのかもしれない。

苛立つ日も、言葉が雑な日も、会いたくないほど面倒な日もある。

それでも、湯のみの置き場や、帽子を忘れる癖や、相手がどこでつまずくかを覚えていて、必要なときには結局手を出してしまう。

そういう日常の寄せ集めの先に、ようやく「分かつまで」という言葉は乗るのかもしれなかった。

その日の夜、真琴は悠一とビデオ通話をした。

派手な再会ではなく、謝罪の応酬でもなく、ただ互いに「先延ばしにしていたこと」を少しずつテーブルへ出した。

会う日も決めた。

続くかどうかは、まだ分からない。

でも少なくとも、曖昧さの中で黙って離れていくよりは、ずっとましだと真琴は思えた。

通話を終えて、キッチンへ行く。

シンクには洗い終えた湯のみが二つ並んでいた。

昼に区役所でもらった粗品の湯のみを、なぜか二つとも持ち帰ってきてしまったのだ。

片方は柄が少しずれていて、安物っぽい。

それでも真琴は、その二つを食器棚の同じ段へ置いた。

片方が欠ける日もあるだろう。

どちらかが先に増えなくなる日も、たぶんある。

でも今はまだ、同じ棚へ戻しておく理由がある。

それだけで、今夜には十分だった。

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