『干潮のラウンジ』

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/10/28 📚 シリーズ: 短編集 📝 4,035文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

短編が気が向いた時に繁殖します

本文

港の見えるホテルの最上階ラウンジは、夜が深くなるほど静かになる。

二十二時を過ぎると、観光客の声は減り、ピアノの生演奏も終わり、残るのはグラスの触れ合う硬い音と、海のほうから少し遅れて届く低い汽笛だけだ。

窓の外には黒い水面が広がっていて、岸壁の灯りが帯みたいに揺れている。

その揺れを見ていると、立っている床までゆっくり波打っているような気がしてくる。

桜庭紗凪は、その時間帯のラウンジが好きだった。

昼より嘘が減るからだ。

酒が入ると、人は少しだけ本音に近い声を出す。

だから夜の接客は嫌いではない。

相手の顔色、グラスの減り方、言葉の切れ目。そういうものを見て、必要な一言だけを差し出すのは、昔からうまかった。

紗凪は三十一歳。

このホテルに入って七年目になる。

最初はホールの補助だったが、いまはラウンジの夜番を任されている。ワインの説明もできるし、カクテルも一通り作れる。

向いていると思う。

けれど向いている場所ほど、ときどき人は自分を上手に誤魔化せる。

笑っていればやり過ごせるし、相手の気分を整えるほうに回っていれば、自分が何を欲しがっているかを後回しにできる。

高瀬史也が現れるのは、だいたい二十二時半前後だった。

平日のみ。

出張でこの町へ来ている週だけ。

ネクタイを少しだけゆるめたまま、決まって窓際の端の席に座る。

最初はただの常連客だった。

会話が静かで、酔っても声が大きくならず、注文の仕方に無駄がない。そういう客は店側からすればありがたい。

何度か来るうち、仕事の話を少し、地元の話を少し、互いの失敗談を少し。

そんなふうに言葉が増えていった。

どこから先が間違いだったのか、紗凪にはもうよく分からない。

おそらく、間違いにはちゃんとした境目なんてなかった。

高瀬が閉店後のラウンジに少しだけ残るようになった夜かもしれないし、二人でワインの瓶の片づけをしながら笑った夜かもしれない。

あるいは、彼が左手の薬指の跡を見て「外しただけで、無くなったわけじゃない」と言った夜だったかもしれない。

結婚していた。

別居中だと彼は言った。

離婚の話は進んでいるが、子どものこともあって簡単ではないとも。

紗凪は、それを聞いた時点でやめるべきだったのだと思う。

でも、そのときの彼は少し疲れていて、疲れている人の声は時々ずるい。

頼っているわけではないふりをしながら、寄りかかる場所を探している声を出す。

紗凪はそういう声に弱かった。

だから、このラウンジにいるあいだだけは、彼が自分のほうを向いているという事実に、少しずつ甘くなった。

昼の生活も、別の町の家も、子どもの学校も、全部ガラスの向こうへ押しやって、ここだけが切り取られたみたいな時間。

それが長く続くはずがないことくらい、最初から知っていた。

知っていたのに、人は知っているだけでは止まれない。

「紗凪さん、また来てる」

グラスを磨いていた後輩の夏海が小さく言った。

まだ二十代前半で、恋愛の話になると妙に遠慮がない。

「声小さい」

「でも当たりでしょ」

夏海はカウンター越しに入口を見たまま笑う。

「今日、だいぶ疲れてる顔です」

「見なくていい」

「紗凪さんが見るから」

「見てない」

「見る前の顔してる」

そう言われている間に、ドアが開く。

高瀬はいつも通り、少しだけ濡れた髪で入ってきた。外は雨らしい。

紗凪は一拍遅れて顔を上げる。

「こんばんは」

「こんばんは」

高瀬はいつもの席へ向かいながら言った。

「今日は赤、重くないやつで」

「フランスと国産、どっちがいいですか」

「迷うな」

「じゃあ半分ずつにします?」

「それ、ずるい提案」

「仕事なので」

そう返すと、高瀬は少し笑った。

その笑い方だけで、今日一日どこか張っていた心の膜が少し緩む。

それが悔しい。

雨の夜は客足が少なく、ラウンジは早めに静かになった。

高瀬は二杯目の赤を飲みながら、仕事の話をした。

プレゼンが長引いたこと。上司が数字しか見ないこと。来月にはこの出張も終わること。

紗凪はグラスを拭きながら相槌を打つ。

来月で終わる。

その一言に、手元の布巾だけが少し止まった。

「ここの夜、落ち着いたのに」

高瀬が言う。

「なくなると、ちょっと困る」

その言い方は、あまりにもずるかった。

ここ、ではなく、夜。

夜、だけ。

紗凪はその曖昧さに、今まで何度も自分から目をそらしてきた。

「困るって」

紗凪は笑ってみせる。

「仕事の愚痴の置き場がなくなるだけじゃないですか」

「それもある」

「“それも”」

思わず拾うと、高瀬は黙った。

黙ってから、少しだけ目を伏せる。

「紗凪さんに会えなくなるのも」

その答えを聞いて、うれしいより先に疲れた。

ようやく言った、と思う。

でも同時に、それだけなのかとも思う。

人は会えなくなるときほど、優しい言葉を簡単に出せる。

優しいのに、置いていく準備の終わった人の言葉は、どこか軽い。

閉店後、夏海が帰り、ラウンジには二人だけが残った。

窓の外の雨は弱くなっている。

高瀬は空になったグラスの縁を指でなぞりながら、ぼそっと言った。

「来月、最後にもう一回来られるかもしれない」

「かも、ですか」

「まだ予定が」

「そう」

「でも来たら、また」

また、何だろう。

また飲む。

また話す。

また触れる。

その先を言わなくても分かるような空気が、二人の間にはもうある。

だからこそ、紗凪はその“また”の曖昧さが急に嫌になった。

「高瀬さん」

「うん」

「私たち、何やってるんでしょうね」

高瀬が顔を上げる。

「急に」

「急じゃないです」

紗凪はカウンターの内側で、グラスを並べ直した。手を動かしていないと、うまく立っていられない気がした。

「急じゃない。ずっと考えてた」

「……」

「間違ってるって、分かってるんです」

「うん」

「分かってるのに、ここに来ると、今日は考えないでいいかってなる」

高瀬は黙っている。

その黙り方が、否定もしないくせに、全部を受け止める責任も取らない人の黙り方に見えて、紗凪は少しだけ笑いたくなった。

「私ね」

紗凪は続ける。

「別に高瀬さんに救ってほしいわけじゃなかった」

「……」

「最初は、多分ただ、ここにいる間だけ少し楽だったんです」

「うん」

「でも、楽な時間って続くと、だんだん居場所みたいな顔するじゃないですか」

「うん」

「それが駄目だった」

そこまで言って、ようやく自分の中の言葉が一つの形へまとまるのを感じた。

そうだ。

高瀬が悪いだけじゃない。

自分だって、この切り取られた時間を“ちゃんとした何か”に見立てようとしていた。

だから余計に苦しい。

高瀬が低い声で言う。

「ごめん」

「何が」

「中途半端なことに、紗凪さんを付き合わせた」

その謝り方は、前よりちゃんとしていた。

ちゃんとしているからこそ、もう遅いとも思う。

でも遅いからこそ、今ここで聞けたのかもしれない。

「付き合ったのは私です」

紗凪は首を振る。

「だからそこは半分ずつです」

「……」

「でも、その先は、もう半分ずつじゃ駄目なんですよ」

高瀬はしばらく何も言わなかった。

遠くでエレベーターの到着音が一度だけ鳴る。

夜のホテルの音は、いつも少し遅れて届く。

「紗凪さん」

「はい」

「俺、いまさら何言っても薄いよな」

「だいぶ」

思ったよりきっぱり言えて、自分で少し驚いた。

でも、高瀬は怒らなかった。

ただ、苦く笑っただけだった。

「だよな」

その一言で、紗凪の中の何かが少しだけ静かになった。

言い訳しない人は、最後のところで少しだけずるさが減る。

減るけれど、戻れるわけではない。

高瀬が立ち上がる。

椅子が静かに引かれる音。

それだけで、この夜の終わりがはっきりした。

「もう来ないほうがいい?」

高瀬が聞いた。

紗凪は少しだけ考えた。

来ないでほしい。

来てほしい。

どっちも本当だった。

でも、どっちも本当なままにしておくと、人はまた同じところを漂う。

「ラウンジには来てください」

紗凪は言う。

「お客さんなら」

高瀬はその言葉をゆっくり受け取った。

拒絶ではない。

でも、元には戻さない。

その細い線引きが、今の自分には必要だと紗凪は思った。

「分かった」

高瀬が言う。

「それで十分だ」

「……そうですか」

「そうじゃないと、たぶん余計にしんどい」

その返事が少しだけ優しくて、紗凪は鼻の奥がつんとした。

泣くほどではない。

でも、少しだけ何かが剥がれる感じはあった。

高瀬が出ていったあと、ラウンジにはガラスの向こうの海だけが残った。

雨はほとんど止んでいる。

岸壁の灯りはまだ水面で揺れていて、真っ直ぐではない。

紗凪はしばらく窓際へ立ったまま、それを見ていた。

終わったのだと思う。

綺麗ではない。

正しくもない。

でも、これ以上続ければ、自分が自分のことを少しずつ雑にするだけだというところまでは、ようやく来た。

それなら、今夜でいい。

カウンターへ戻る。

使い終わったグラスを洗う。

水の中で薄い赤の跡が消えていく。

跡が消えることと、無かったことになることは違う。

でも、人は大抵その違いの上で暮らしている。

「終わりました?」

裏口のほうから声がして、紗凪は振り向いた。

忘れ物を取りに戻った夏海が、様子をうかがうみたいに顔だけ出している。

「終わった」

紗凪が言うと、夏海は少しだけ目を細めた。

「そっか」

その言い方は軽かった。

軽いのに、不思議とちゃんと届いた。

多分、今夜の自分に必要だったのは、そのくらいの重さの言葉だった。

「雨、もう止んでますよ」

夏海が言う。

「うん」

「帰り、海の匂いします」

「そう」

「たぶん、明日は晴れます」

そう言って今度こそ帰っていく。

若いくせに、たまに変なところで優しい。

紗凪はその背中を見送って、ようやく少し笑った。

ラウンジの最後の照明を落とす。

海はまだ真っ黒で、岸壁の灯りだけが細く揺れる。

揺れているものが全部間違いとは限らない。

でも、ずっと揺れているだけでは、どこへも着けない夜もある。

今夜の自分はたぶん、ようやくそこから降りたのだと思った。

鍵を閉めて、エレベーターへ向かう。

足元の絨毯は厚くて、歩く音がしない。

でも、胸の奥ではちゃんと何かが終わった音がしていた。

静かで、少し遅れて、でも確かに。

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