『拍手の前に息を吸う』
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
短編が気が向いた時に繁殖します
本文
市民会館の小ホールは、昼の顔と夜の顔がまるで違う。
昼は貸し会議室みたいに実務的で、椅子も床も「ちゃんと使って、ちゃんと片づけてください」と言いたげな空気をしている。
けれど夜、舞台袖の明かりだけが残って客席が暗く沈むと、そこは急に人の本音を引きずり出す場所になる。
喋る人間も、聞く人間も、少しだけ隠し方を忘れる。
佐伯真琴は、その変わり方が昔から好きだった。
真琴は三十五歳。
市の生涯学習センターで、話し方講座や市民講演会の運営をしている。
チラシを作り、会場を押さえ、講師と連絡を取り、当日の進行表を作る。
表に立つ仕事ではないが、人が表に立つ瞬間を整える仕事ではある。
向いていると思う。
段取りは早いし、忘れ物も少ない。相手が緊張しているとき、どのタイミングで水を差し出せば少し呼吸が戻るかもだいたい分かる。
ただ、自分が前に立つことだけは、昔から得意ではなかった。
だからこそ、立とうとする誰かを見るのが好きなのかもしれない。
その夜の小ホールでは、「市民スピーチ・ナイト」の最終リハーサルが行われていた。
月に一度、一般の参加者が五分ずつ自分の話をする企画で、趣味のことでも、家族のことでも、仕事のことでもいい。
話す内容に立派さは求めない。
ただ、自分の言葉で人前に立つ。
それだけの会なのに、毎回妙に人が集まる。
たぶん、誰かが本気で声を出す瞬間を、他人は思っているよりちゃんと見たいのだ。
「佐伯さん、今日も来てますよ」
受付机のところで参加者名簿を確認していた真琴へ、学生スタッフの結城が小声で言った。
真琴は顔を上げる。
舞台袖のパイプ椅子に、作業着姿の男がひとり、背中を丸めて座っていた。
長谷川怜司。
三十八歳。
市内の鉄工所で働いている。
三か月前、このスピーチ・ナイトへ申し込んだとき、申込書の「話したいテーマ」欄にはたった一行だけ書かれていた。
【辞めなかった話】
それだけだった。
地味で、取っかかりがなくて、でも妙に気になる一行だった。
問題は、怜司が人前で話すのが得意な人間にはまるで見えないことだった。
初回の打ち合わせでも、視線はほとんど机の上、声は低く、しかも緊張すると最初の一音がうまく出ない。
吃音、というほど重いわけではない。
でも、一拍目に引っかかる。
その一拍で本人の焦りが増し、さらに次が詰まる。
だからこれまでずっと「喋る前に諦める」ほうを選んできたらしい。
「こんばんは」
真琴が近づくと、怜司は少し遅れて顔を上げた。
「……こんばんは」
「今日は早いですね」
「工場、少し早く終わったんで」
「いいことです」
真琴が言うと、怜司は曖昧に頷いた。
この人は、褒められるのが苦手だ。
いや、苦手というより、すぐに受け取らない。
それが謙遜なのか、習慣なのか、真琴にはまだ判断がつかない。
今回の発表者は五人いる。
そのうち三人は、すでに人前に立つのに慣れているタイプだった。地域の読み聞かせボランティア、元教師、地元FMの投稿常連。
残る一人は、大学生で、緊張はしているが勢いで押し切れる顔をしている。
その中で怜司だけが、明らかに異質だった。
服装も、座り方も、言葉の出方も、全部が「自分はここに向いていない」と先に言っているみたいだった。
だからリハのたびに、スタッフの間では同じ話が出る。
順番を最後ではなく真ん中に変えたほうがいいのでは。
内容を短くしたほうがいいのでは。
そもそも今回は見送って、準備が整ってから来月でもいいのでは。
全部、間違っていない。
全部、本人に優しい案でもある。
でも真琴は、そのたびに何となく腹の奥がざらついた。
「怜司さん」
舞台袖の椅子へ自分も腰を下ろし、真琴は声を落とした。
「今日、原稿、少し変えました?」
怜司は鞄から折りたたんだ紙を出した。
「最後だけ」
「見てもいいですか」
受け取る。
几帳面な字だ。
言葉は多くない。
無理にうまいことを言おうとしていないぶんだけ、読むと少し胸へ残る文章だった。
鉄工所へ入って十八年。
三回辞めようとしたこと。
父親が倒れた日も、翌朝普通に出勤したこと。
同僚が減って、自分の仕事だけ増えた年もあったこと。
でも辞めなかったのは、立派だったからではなく、うまく辞められなかっただけだったこと。
そういうことが、変に飾らず書いてある。
そして最後の数行だけ、新しく足されていた。
【誰かに褒められたくて続けたわけじゃない。】
【でも、続けてきたことを、自分で雑に扱いたくなくて、今日はここに来ました。】
真琴はその部分をもう一度読んだ。
うまい。
少なくとも、他人に無理やり言わされた言葉ではない。
ちゃんと本人の中から出た文章だと分かる。
「いいです」
真琴が言うと、怜司はすぐには返事をしなかった。
「……ほんとに」
「ほんとに」
「こういうの、佐伯さん、割と何でもそう言うでしょう」
その疑い方が少し可笑しくて、真琴は笑った。
「言いません」
「いや」
「言いませんって」
「……」
怜司は少しだけ口元を動かした。
笑ったのかどうか分からないくらいの、小さな動きだった。
リハーサルが始まる。
一人ずつ舞台へ上がり、立ち位置とマイクの高さを確かめ、本番と同じように冒頭だけ話す。
全員が終わるころには、もう夜の小ホールの空気が少しだけ出来上がっていた。
人前に立つ前の沈黙、終わったあとに戻る息、拍手の少し手前のあの一瞬。
真琴はやっぱり、その空気が好きだと思う。
最後に呼ばれた怜司は、舞台へ上がるところまでは悪くなかった。
背筋も伸びている。
だがマイクの前へ立って客席の暗さを見た瞬間、明らかに肩が固くなった。
真琴にはそれが分かる。
客席に誰も座っていなくても、人は「見られる位置」へ立つだけで体の癖が変わる。
「では、お願いします」
結城が客席の後ろから言う。
怜司はマイクを見て、一度だけ喉を鳴らした。
「え……」
そこから先が出ない。
やっぱり来た、と思う。
一拍。
二拍。
三拍。
沈黙が少しずつ本人を追い詰める、あの間だ。
真琴は舞台袖で手を握った。
助け舟を出すべきか。
今日はやめましょうと言うべきか。
客席にはスタッフしかいない。今ならまだ、いくらでも引き返せる。
その瞬間、後ろで館長の三田村が小声で言った。
「やっぱり、今回は見送るか」
その言い方が、真琴にはなぜか妙に腹立たしかった。
優しさなのは分かる。
責任ある立場として当然の判断でもある。
でも、その「やっぱり」に、今まで怜司が何度飲み込んできたものまで一緒に片づけられる気がした。
「待ってください」
気づけば、真琴は舞台袖から一歩出ていた。
「……佐伯さん?」
三田村が驚いた声を出す。
真琴はそれを振り切って、舞台の端まで歩いた。
「怜司さん」
怜司がわずかに顔を向ける。
真琴は客席へ向けるのとは違う声で、まっすぐ言った。
「最初の一行だけ、私にください」
「……」
「客席じゃなくていい。私に」
怜司は数秒、息を止めたみたいに動かなかった。
そのあと、ゆっくりと視線が真琴のほうへ戻る。
「……俺は」
低い声が出る。
最初の一行だ。
「鉄工所で、十八年働いてます」
出た。
たった一行。
でも、その一行が出た瞬間、空気が少し変わったのが分かった。
「はい」
真琴が返す。
「続きを」
怜司は今度はもう一度だけ喉を鳴らし、少し視線を落としてから、再び言葉を出した。
「立派な理由があって続けたわけじゃないです」
そこから先は、詰まりながらでも続いた。
言い直しもした。
間も空いた。
でも、止まりきりはしなかった。
客席に向けてというより、まず自分の中の何かへ向けて言葉を出している感じだった。
全部は読まないうちに、真琴は手を叩いた。
大きくではない。
一番最初の拍手として、ちょうどいいくらいの音で。
結城が続き、三崎が続き、最後に館長まで叩いた。
怜司は少しだけ困った顔をした。
その困り方が、今日初めて「嫌ではない困り方」に見えた。
リハが終わったあと、館長室へ呼ばれた。
三田村は露骨に困った顔で椅子に座っている。
「佐伯さん」
「はい」
「気持ちは分かる」
「はい」
「でも本番は本番だよ」
「分かってます」
「今日はスタッフしかいなかった。けど明日は一般のお客さんが入る」
「分かってます」
「じゃあ」
三田村は腕を組んだ。
「なぜ、そこまで彼に立ってほしいの」
その問いに、真琴は少しだけ黙った。
なぜだろう。
本人でも、まだ言葉にしきれていない。
でも、黙ったまま「やっぱり無理でした」で引かせたくないという気持ちは確かだった。
「……うまく言えないですけど」
真琴はゆっくり答える。
「怜司さんが上手に話せる人じゃないのは最初から分かってます」
「うん」
「でも、だからやめたほうがいい、で終わる人じゃないと思うんです」
三田村は黙って聞いている。
「何回も詰まるし、見栄えもよくないかもしれない。拍手も、他の人ほど大きくはならないかもしれない」
「……」
「でも、それでも本人が自分の言葉を自分で雑にしないために来たなら、私は立ってほしいです」
そこまで言ったとき、真琴はようやく気づいた。
たぶん自分は、怜司を通して別のものへ怒っている。
途中で諦めたほうが安全だから、最初から立たせないという判断。
失敗しそうなものは、優しさの顔で横へどけてしまう空気。
それはきっと、今までの自分にもずっと向けられてきたものだった。
三田村は長く息を吐いた。
「責任持てる?」
「持ちます」
「そこまで言うなら」
館長は少し苦く笑った。
「じゃあ、最後まで付き合ってあげなさい」
本番当日。
小ホールは予想以上に埋まった。
家族連れ、仕事帰りの人、参加者の知人らしい顔、常連の年配夫婦。
照明が少し落ちて、最初の発表者が拍手の中で舞台へ上がる。
四人はどれもよかった。
面白い話もあり、静かな話もあり、笑いも起きた。
会場の空気はきれいに温まっていく。
そして最後が、怜司だった。
名前を呼ばれ、舞台へ上がる。
昨日よりもさらに肩が固い。
けれど途中で逃げる足ではなかった。
マイクの前へ立ち、客席を見る。
その一瞬、真琴のほうが先に息を止めた。
「俺は」
最初の音が出る。
少し掠れていた。
でも、出た。
「鉄工所で、十八年働いてます」
そこで一拍。
長い。
昨日と同じくらい長い。
けれど今日は、客席が待っていた。
急かさない空気が、ちゃんとあった。
怜司は続ける。
「立派な理由があって、続けたわけじゃないです」
言葉はまだぎこちない。
ところどころ詰まる。
でも、そこで笑って誤魔化さない。
焦って飛ばさない。
ひとつずつ、自分の中から引っ張り出すみたいに話す。
辞めたいと思った日。
家へ帰りたくなくて工場の駐車場で十分動けなかった夜。
父親が「もう工場手伝え」と言ったとき、本気で電話を切りたかったこと。
それでも次の日にまた出勤したこと。
理由は立派じゃない。
怖かったからかもしれないし、辞めた後を考えるほうが面倒だったからかもしれない。
でも、その「格好悪い続け方」を、誰より自分が雑に見ていたこと。
だから今日、ここで一回だけ、自分でちゃんと見直したかったこと。
客席は静かだった。
笑いを取る話ではない。
泣かせる話でもない。
でも、誰も目を逸らしていないのが分かる。
上手さではなく、届いている静けさがある。
最後の数行で、怜司は少しだけ顔を上げた。
「誰がなんと言っても」
一度、詰まる。
それでも言い直す。
「俺は、ここまで続けた自分を、今日はちゃんと認めたいです」
言い切ったあと、客席の空気が一瞬だけ止まった。
その次に、拍手が来た。
大きかった。
無理に盛り上げる拍手ではなく、少し遅れて、でも確かに広がる音だった。
真琴はその中で、ようやく息を吐いた。
胸の奥に溜まっていたものが、一気にほどける感じがした。
終演後、ロビーはゆるい熱で満ちていた。
発表者同士が「よかった」と言い合い、観客が感想を話し、配布したアンケート用紙が足りなくなる。
怜司はその隅で、少し困った顔をしていた。
褒められるのに慣れていない人の顔だった。
「おつかれさまでした」
真琴が近づくと、怜司は少しだけ目を伏せた。
「……佐伯さん」
「はい」
「今日、あのとき」
「どのときですか」
「昨日、最初の一行だけ私にください、って言ったとき」
怜司は言葉を探すみたいに少し間を置いた。
「あれ、だいぶ助かりました」
真琴は笑った。
「よかったです」
「でも」
「でも?」
「今日のは、俺がやりました」
その言い方があまりに真面目で、真琴は思わず笑いそうになった。
笑いそうになりながら、ちゃんと頷く。
「もちろんです」
「そこ、ちゃんと言いたかった」
「うん」
「誰かに押されたんじゃなくて」
「うん」
「今日は、自分で立った」
その一言が、真琴にはとてもきれいに聞こえた。
きれいというのは、整っているという意味ではなく、ようやくその人の形で言えたものにだけ出る手触りのことだ。
片づけが終わって、小ホールの灯りが落ちるころには、外の雨も止んでいた。
真琴は最後の椅子を壁際へ寄せてから、一人で舞台を見上げた。
昼間見たときより少し広く見える。
けれど、それはきっと客席に誰もいないからではない。
今日この場所で、誰かがちゃんと自分の声を通したあとだからだ。
自分は表へ立たなかった。
今日もまた、整える側だった。
でも、それだけで終わりとも思わなかった。
誰かが自分の言葉を雑にしないための場所を守ることは、案外、自分の中の何かを守ることにも近い。
そう気づいたのは、今夜の収穫だった。
舞台袖の机の上に、怜司が置き忘れた原稿が一枚だけ残っていた。
真琴はそれを拾い、折れた角を指で伸ばす。
明日返そう。
きっと、彼は少し照れくさそうに受け取るだろう。
それでいい。
大事なものは、たいていそのくらい不格好なまま手元に残る。
ホールの最後の灯りを落とす前、真琴は客席へ向かってほんの少しだけ頭を下げた。
誰に見せるでもない、一人きりの動きだった。
それでも、その一礼は今夜の自分にもちゃんと必要な気がした。
拍手のあとに残る静けさは、いつも少しだけ温かい。
だからまた、次の誰かのためにこの場所を整えようと思えるのだ。