いい子を降りる勇気
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
「いい子だね」
その言葉が嫌いだ。
嫌いなのに、嬉しくなる癖がある。
嬉しくなるから、もっと頑張ってしまう。
頑張ると、息が浅くなる。
息が浅くなると、顔が笑ったまま固まる。
固まった顔は、だいたい誰にも気づかれない。
だから私は、今日、ひとつだけ決めた。
“いい子”を休む。
朝、家を出る前に鏡を見て、私は自分に小さく言った。
「今日は、いい子しない」
言った瞬間、心臓が少しだけ軽くなった。
軽くなると同時に、怖さも湧く。
“いい子”をやめたら、嫌われる。
そう思い込む癖がある。
でもそれも、癖だ。癖なら、直せる。
会社に着く。
私は受付の笑顔を作る。
作るけど、いつもより薄め。
薄めにすると、顔の筋肉が楽だ。
楽だと、目がちゃんと見える。
目が見えると、周りの空気も見える。
同僚の佐倉さんが、朝一で言った。
「ごめん、これ今日中にお願いできる?」
いつもの私なら、反射で頷く。
頷いて、後で自分のタスクが燃える。
燃えると、夜に泣きそうになる。
泣きそうになっても、“いい子”は笑う。
笑うと、誰も助けてくれない。
助けてほしいのに、助けてと言えない。
だから今日は、呼吸してから言った。
「今日中は厳しいかも。
私、午前に締め切りが重なってる。
明日の午前ならできる。どうする?」
言った。
言えた。
世界が壊れなかった。
佐倉さんは一瞬きょとんとして、それから頷いた。
「そっか。じゃあ明日で。ありがとう」
ありがとう。
断ったのに、ありがとうが返ってくる。
その事実が、私の中の“嫌われる”を少し溶かした。
嫌われない。
少なくとも、今ここでは。
午前の会議。
上司が「これ、誰か手が空いてる?」と訊く。
空いてないのに、私はいつも手を挙げてしまう。
挙げると、上司は安心する。
安心する顔を見ると、私は“いい子”として満たされる。
満たされる代わりに、家で空っぽになる。
今日は、手を挙げなかった。
沈黙が一秒、二秒。
空気が少しざわっとする。
そのざわっが怖い。
でも、怖いまま座っていた。
すると、別の人が手を挙げた。
世界は回る。
私が“いい子”をやらなくても、回る。
回る世界に、私は今まで勝手に責任を背負っていた。
昼休み、私はコンビニで小さなチョコを買った。
ご褒美じゃない。
予防だ。
“いい子”を休む日は、罪悪感が後から追いかけてくる。
追いかけてくる前に、甘さで足止めする。
午後、上司に呼ばれる。
呼ばれるだけで、心臓が縮む。
縮むのは、叱られる予感じゃなくて、褒められる予感のせいだ。
褒められると、また“いい子”が起動する。
起動したら、今日の私が負ける。
「最近、よく回してくれて助かってる」
上司が言った。
来た。
褒め言葉の罠。
私は笑顔を作りかけて、止めた。
止めて、代わりに言った。
「ありがとうございます。
でも、最近ちょっと回しすぎてます。
私、残業が続いてて、正直しんどいです」
自分でも驚くくらい、声が真っ直ぐだった。
言った瞬間、胸の奥が熱くなる。
熱いのは、怖いから。
怖いのは、ちゃんと大事だから。
上司は眉を上げた。
でも、怒らなかった。
怒らない代わりに、頷いた。
「そうか。
気づいてなかった。すまん。
調整しよう。優先順位、出せる?」
また、世界が壊れなかった。
それどころか、世界が少しだけ優しくなった。
優しくなったのは、私が“いい子”をやめたからだ。
皮肉だけど、本当だ。
定時。
私は席を立った。
席を立つ時、周りを見た。
“いい子”なら、最後に誰かの仕事を手伝ってから帰る。
今日は帰る。
帰るのも、仕事だ。
「お先に失礼します」
声が震えない。
震えないのが嬉しい。
嬉しいけど、帰り道で罪悪感が追いかけてくる。
ほら来た。
“いい子”の亡霊。
私は駅前のベンチに座って、深呼吸した。
罪悪感は、慣れない靴擦れみたいなものだ。
新しい歩き方をすると痛む。
痛むけど、歩ける。
歩けるなら、慣れる。
スマホが鳴る。
恋人の千紗から。
『今日はどう?』
私は少し考えて、送った。
『今日は、いい子休んだ』
すぐ返事。
『最高。帰ってきたらプリン食べよう』
プリン。
私の生活は最近、甘いもので救われがちだ。
甘いものは、努力の味方だ。
努力って、頑張ることだけじゃない。やめる努力もある。
帰宅。
鍵。
カチッ。
千紗が「おかえり」と言って、テーブルにプリンを二つ置いていた。
私は靴を揃えながら言った。
「今日、断った」
「何を?」
「今日中のお願い。
あと、上司にしんどいって言った」
千紗が目を丸くして、それから笑った。
「えらい」
その“えらい”は、罠じゃない。
“いい子”を強制する言葉じゃない。
ただ、私の選択を見てくれる言葉だ。
「……いい子じゃなくて?」
私が聞くと、千紗は首を振った。
「いい子じゃない。
ちゃんとした大人」
ちゃんとした大人。
その言葉のほうが、ずっと嬉しい。
嬉しいのに、胸がきゅっとなる。
きゅっとなるのは、古い癖がほどける音だ。
プリンを食べながら、私は言った。
「明日も、いい子休んでいい?」
「いいよ。
でも、刺さったら合言葉」
「凹凸?」
「うん」
私は笑って頷いた。
今日は、いい子しない日。
その代わり、ちゃんと呼吸する日。
ちゃんと断る日。
ちゃんと帰る日。
いい子でいるより、ずっと難しい。
難しいけど、たぶん、私はそのほうが好きだ。
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