後悔に名前をつけて距離を取る
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
帰宅したら、千紗が窓を開けていた。
冬の終わりの匂いみたいな風が、カーテンを揺らしている。
揺れるのに、部屋の中の千紗は揺れてない。
固い。固いのは、刺さってる証拠。
受信機が、ピッと点灯する。
「ただいま」
「……おかえり」
返事はある。けど、温度が低い。
低いのに、冷たいんじゃない。
“下げてる”温度だ。
「刺さった?」
千紗は否定しなかった。窓の外を見たまま言う。
「刺さった。
今日、ミス・リグレットに会った」
「……誰」
「後悔」
千紗はようやくこちらを向いた。
目が少し赤い。泣いた赤じゃない。耐えた赤。
「何があった」
千紗は靴を揃える動作を、いつもより丁寧にした。
丁寧さは、崩れないための手順。
でも今日は、その丁寧さが“自分を縛る紐”にも見える。
「今日ね、職場で後輩がミスしたの」
「うん」
「私、気づいてた。
気づいてたのに、言わなかった。
『大丈夫かな』って思って、でも『大丈夫でしょ』って放置した」
その“放置”が、千紗の中では“見捨て”に近い重さで鳴ってる。
後悔の音は、こういうふうに、遅れて刺す。
チッが舌先まで来た。
俺は歯の裏で止める。
今日はチッを外に出すと、千紗の後悔に火をつける。
チッ=ブザー。凹凸。
「結果、どうなった」
「修正が間に合わなくて、上司に叱られた。
後輩は泣いてた。
私も…泣きたかったけど、泣かなかった」
千紗は窓を閉めた。カチャ。
その音が、今日の“終幕”みたいだった。
「……私、何してんの」
“なにしてんの”は、責めじゃない。合図だ。
自分を取り戻したいときに出る言葉。
俺はテーブルの上に小さな鈴を置いて、ちりんと鳴らした。
武器。刃物じゃない。背中を押す合図。
「さぁ。ミス・リグレットを、部屋の外に座らせよう」
「外に?」
「うん。後悔を追い出すんじゃない。
同居しないだけ。
椅子を一脚、外に置く感じ」
俺は実際に椅子を引いて、テーブルの端に少しずらした。
真ん中に置かない。
後悔を生活の真ん中に座らせない。
「ミス・リグレットってさ」と千紗が言う。「すごい顔してくるんだよね。
『あなたが言ってれば』って、ずっと言う」
「その人、口癖が“if only”だな」
「うん。『もしも』おばけ」
「じゃあ、名前をつけよう。
ミス・リグレットの本名」
千紗が眉を上げる。
「名前?」
「名前をつけると、距離が取れる。
後悔は、顔を隠して襲ってくるから強い。
顔を見せたら、扱える」
千紗は少し笑いかけて、途中で止めた。
笑いに寄せすぎない。今日は痛い。
「じゃあ、何て名前」
「『イフ・オンリーさん』」
「ダサい」
「ダサいのが効く。
黒い顔して近づいてきても、“イフ・オンリーさん”って呼ぶと、ちょっと小さくなる」
千紗が、ほんの少しだけ笑った。
その一ミリが大事。
俺は冷蔵庫からりんごを出してきた。
今日もシャク。食感で割る。
後悔って、頭の中で増えるから、口を動かすのが効く。
「割る?」
「割る」
千紗がかじる。
シャク。
音が、後悔の渦にスリットを入れる。薄い隙間。そこから呼吸が入る。
「で」と俺は言った。「今日の後悔を、手順に変えよう」
「手順に?」
「うん。
後悔は“戻れない”から刺さる。
でも手順は“次に使える”。
同じミスをしないための武器になる」
千紗はりんごを持ったまま、頷いた。
「何を手順にするの」
俺は紙に書いた。
『後悔→手順 変換
1) 何に気づいてた?(受信)
2) なぜ言わなかった?(怖さ)
3) 次はどう合図する?(鈴/さぁ)
4) どこで椅子を置く?(第三の動き)
5) どう謝る?(事実+温度ひとつ)』
千紗は“なぜ言わなかった”のところで止まった。
目が泳ぐ。
そこが核心だ。
「怖かった」と千紗は言った。「口出ししたら嫌われるって」
うん、と俺は頷く。
後悔の裏にあるのは、だいたい“人に嫌われたくない”だ。
「じゃあ次の合図。
『口出し』じゃなくて、『確認』にする」
「確認」
「うん。
『これ、ここで合ってる?』って聞く。
正しさを押し付けない。線を引く」
千紗が少し息を吐く。
「それなら言えたかも」
「言える。次は言える。
“次”があるから、後悔は手順になる」
千紗がりんごをもう一口。シャク。
そして言った。
「でも、後輩に悪いことした」
「そこは、謝る。
でも、謝り方にも椅子を置く。
自分を罰しすぎない」
千紗は眉間の線を少し深くして、言った。
「私、謝るとき、全部自分のせいにしちゃう」
「それ、黒か黒かになる。
黒A『私が悪い』、黒B『相手が悪い』。
その間にスリット。事実を置く」
「事実?」
「事実:気づいてた。言わなかった。結果、困った。
温度ひとつ:ごめん。次は確認する。
それだけでいい。
全部背負わない。背負う範囲を線で引く」
千紗は目を閉じて、口の中でその言葉を試した。
そして、小さく言った。
「『気づいてたのに言わなくてごめん。次から確認するね』」
「完璧」
「完璧じゃない」
「完璧じゃなくていい。バランス取る人の言葉」
千紗は少し笑って、鈴を手に取った。ちりん。
背中を押す合図。
「さぁ」
「さぁ」
千紗は窓の方を見て、言った。
「イフ・オンリーさん、まだ外にいる?」
「いるかも。でも椅子は端っこ。真ん中じゃない」
「じゃあ私、明日、後輩に言う。
謝る。確認の合図を作る。
後悔と同居しない」
「うん。それが一番強い」
千紗はテーブルの端にずらした椅子を見て、ぽつりと付け足した。
「……後悔って、私のこと好きだよね。
ずっとついてくる」
「好きなんじゃなくて、暇なんだよ。
居場所を与えると居座る。
だから端っこに座らせて、やることを渡す。手順」
千紗が笑った。沈まない笑い。
後悔の顔が、少しだけ小さくなった気がした。
最後に俺は、冷蔵庫の磁石で一枚のメモを貼った。
『イフ・オンリーさん対策
・名前を呼ぶ
・椅子は端
・次の一手を渡す
・シャク
・鈴さぁ』
後悔は消えない。
でも、同居しない。
それだけで、夜はちゃんと明るいまま終われる。
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