スタートを揃えない勇気
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
玄関のドアが開いた音より先に、足音が近づいてきた。
千紗の足音はいつもより速い。速いのに軽くない。
速さで自分を押してる日だ。
「ただいま!」
声が高い。
高いのに、顔が笑ってない。
“よーいドン”の「ドン」だけが先に鳴ってる。
受信機が、ピッと点灯する。
「おかえり。刺さった?」
俺が言うと、千紗は一瞬だけ口をつぐんで、それから笑った。流す笑い。
「刺さったというか……今日、何回もスタート切らされた」
「よーいドン?」
「そう。
『よーい』を言わずに『ドン』だけ。
急に来る。急に決めろ。急に動け。
で、息を吸う前に走らされる」
千紗は靴を脱ぐ動作が雑になりかけて、途中で止めて揃えた。
第三の動き。雑になるか完璧にするかじゃない、「一度止めて整える」。
俺はテーブルに鈴を置いて、ちりんと鳴らした。
武器。刃物じゃない。背中を押す合図。
「さぁ。うちでは“よーい”を増やす」
「増やす?」
「うん。
外のドンは止められないけど、家に帰ったら“よーい”を置ける。
“走ったこと”を無かったことにしないで、呼吸を戻す」
千紗はソファに座って、膝の上で指を組んだ。
指の先がわずかに白い。力が入ってる。
「今日さ、午前中に『これ今日中』が三回来た」
「三連ドン」
「うん。
で、午後に『方針変えたから最初から』が来て、
最後に『やっぱ戻す』が来た」
……ドンの連打は、体力じゃなく心の足首を削る。
ぐねる。スプリングが必要な日だ。
チッが舌の裏に浮いた。
俺は歯の裏で止める。
チッ=ブザー。凹凸。
「凹凸」
千紗も小さく「凹凸」と言った。
合言葉が揃うと、足場ができる。
「今日のドン、何番?」
「フラストレーション?……No.4。
五まではいってないけど、ずっとカウントダウンしてた」
「じゃあ今夜は、五になる前に“よーい”を挟む」
俺は冷蔵庫からりんごを出して、テーブルに置いた。
食感で割る。今日も万能。
「シャク、いる?」
「いる」
千紗がかじる。
シャク。
音が、ドンの残響を割る。
割れ目から、息が入る。
「ねえ」と千紗が言った。「よーいドンって、楽しい言葉のはずなのに、
今日は怖かった」
「スタートが怖い日、ある」
「私、遅れるのが怖いから走っちゃう。
でも走ると、息が切れて、次のドンで転びそうになる」
転びそう。
そこに椅子が要る。第三の動き。
走るか止まるかじゃない“歩く”。
「じゃあ、よーいドンを再定義しよう」
「また再定義」
「再定義が好きなんだ、うちは」
俺は紙に書いた。
『よーいドン(うち版)
・よーい=呼吸/線引き/確認
・ドン=最初の一歩(全部じゃない)
・途中で止まっていい(椅子)
・刺さったら凹凸
・合図は鈴さぁ』
千紗はそれを見て、少し笑った。
沈まない笑い。戻ってきた笑い。
「よーい=呼吸っていいね」
「うん。
外では『ドン』が先に鳴る。
だから家で“よーい”を後付けする。
走った後にでも、よーいを置いていい」
「後付けのよーい」
「最高の発明」
千紗が眉を上げる。
「でもさ、現場での“よーい”はどうやって作るの」
「一言でいい。短い“よーい”」
俺は鈴を指で弾いた。ちりん。
「さぁ。台詞を作ろう」
千紗は少し身構えた。稽古の顔。
「例」
「『確認させてください』」
「いつもの線引き」
「うん。
ドンの前に一秒作る言葉。
それが“よーい”」
千紗は頷いた。
「他には?」
「『三分ください』」
「椅子」
「そう。第三の動きの言葉。
よーいは、息を吸うための椅子でもある」
千紗はりんごをもう一口。シャク。
そして言った。
「……『今の優先順位、どれですか』も、よーい?」
「よーい。線を引くよーい。
走るコースを決める」
「コース」
「うん。
走るのが悪いんじゃない。コースがないのが悪い」
千紗は深く息を吐いた。
さっきまで浅かった呼吸が、少しだけ深くなる。
よーいが効いてる。
「ねえ」と千紗が言った。「私、スタートが揃ってないと不安になるんだよね」
「揃ってないと?」
「みんな一斉に走ってるのに、私だけ遅れたら置いていかれそうで」
これは、ふたりの話に似てる。
“正解の塊”に合わせさせられる怖さ。
だから、ここも再定義だ。
「スタートは揃えなくていい」
「え」
「うちのよーいドンは、スタートが各自。
同じレーンじゃない。
合流地点だけ決める」
「合流地点」
「うん。
今日なら“18時に骨子がある”とか。
そこに間に合えば、よーいの長さは自由」
千紗は少し考えて、頷いた。
「合流地点だけ決める……それなら走れる」
「走れる。
走ってもいいし、歩いてもいい。
スプリングで戻れる」
千紗が鈴を手に取って、ちりんと鳴らした。
「さぁ」
「さぁ」
「じゃあ今日の締め」と千紗が言う。「合言葉、増やす?」
「増やそう。短いやつ」
千紗はりんごを最後に一口。シャク。
そのあと、ぽつりと言った。
「……『よーい、息』」
「いい。
ドンが来たら、“よーい、息”って言う」
「よーい、息」
「凹凸」
「凹凸」
俺は冷蔵庫から炭酸を取り出した。ぷしゅっ。
炭酸が泡を立てる音が、スタートのピストルじゃなく、終わりの笛みたいに聞こえた。
「乾杯する?」
「する。今日は走ったから」
千紗は一口飲んで、少し顔をしかめた。
「強い」
「強いのが好きなんだろ。ヤワじゃないだろう」
「それはもう言わないで」
「はいはい」
千紗は笑って、ソファにもたれた。
“ドン”の姿勢じゃなく、”よーい”の姿勢。
外では今日も、よーいなしのドンが鳴る。
でも家に帰れば、後付けのよーいが置ける。
それだけで、スタートは怖くなくなる。
怖くなくなると、明日のドンも、少しだけ軽い。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。