点を根に戻す
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
千紗は帰宅して、玄関で一度だけ立ち止まった。
靴を脱ぐ前に、息を吸う。
よーい、息。後付けのよーいが、今日は早い。
「ただいま」
「おかえり。……今日は、点?」
俺がそう言うと、千紗は少しだけ笑った。
笑いは小さい。でも、沈んでない。
走り疲れのあとに出る、小さい笑い。
「点。すごい点。
今日、私、点になってた」
「点になるって、どういう」
「バラバラ。
朝の会議の私、昼の私、夕方の私が、別人みたい。
それぞれが、それぞれの場所で、“正しい顔”してた」
受信機が、ピッと点灯する。
“正しい顔”は、だいたい我慢の顔だ。
「刺さった?」
「刺さった。というか、抜けた。
芯が抜ける感じ。
どこで何を言ったか、全部覚えてるのに、
“私が言った”って感覚が薄い」
点が散って、線が消えて、根が見えなくなる。
こういう日は、無理に明るくしない。
でも暗く沈ませない。
根っこを触れば、自然に上がる。
俺はテーブルに鈴を置き、ちりんと鳴らした。
武器。背中を押す合図。
「さぁ。点を集めて、根に戻そう」
「根?」
「roots。
点が散ってるときは、“今ここ”に戻る根が必要」
千紗はコートを脱いで、テーブルの端に置いた。真ん中じゃない。
生活の真ん中に外の点を置かない。
それだけで、点が一つ整列する。
「ねえ」と千紗が言った。「今日、何が一番きつかったか分かる?」
「聞く。受信する」
「全部、点だったから、誰にも説明できなかった。
『今日どうだった?』って聞かれても、
『忙しかった』しか言えない。
忙しいって言葉、雑すぎる」
雑は心を噛む。
だから分解。
点を名前で呼ぶ。
名前は根へのロープになる。
チッが舌の裏に浮いた。
俺は歯の裏で止める。
チッ=ブザー。凹凸。
「凹凸」
千紗も小さく言って、椅子に座った。
ソファじゃない。床でもない。
第三の動きの中間地点。
点の着地。
「じゃあ、点を五つにしよう」
「五つ?」
「内なる五人、今日の点を回収する」
俺は飲み物を五つ並べた。白湯・紅茶・ほうじ茶・コーヒー・炭酸。
いつものキャスト。今日の回収班。
「今日の朝の点、誰だった?」
千紗は白湯を指差した。
「白湯。
会議の前、緊張してて、呼吸だけしてた」
「昼の点は?」
「コーヒー。
数字と締切で頭がカチカチだった」
「夕方の点は?」
「炭酸。
ちょっとイライラして、言葉が強くなりそうだった」
「ほうじ茶と紅茶は?」
千紗はほうじ茶を見て、少し笑った。
「ほうじ茶は…帰り道。
焦げないようにって、ずっと言ってた。
紅茶は…人に話すとき。言い方を整えようって」
よし。点が顔を持ち始めた。
点は“私”に戻り始める。
俺は冷蔵庫からりんごを出して、テーブルに置いた。
「シャク、いる?」
「いる」
千紗がかじる。
シャク。
音が、散った点に一本の細い線を引く。
線は根へ繋がる。
「じゃあ次」と俺は言った。「点を“根”に結ぶ質問を三つだけ」
「三つだけ」
「うん。質問は最大三つ」
俺は指を立てる。
「1) 今日、いちばん守りたかったものは何?
2) そのために、何を我慢した?
3) 明日に持ち越したくない点はどれ?」
千紗はしばらく黙って、りんごをもう一口。シャク。
それから、ゆっくり答えた。
「守りたかったのは……自分の丁寧さ。
走っても、跳ねても、雑になりたくなかった」
「うん」
「我慢したのは……言い返したい気持ち。
『まだ?』って言われても、怒鳴らなかった」
「それは強い」
「持ち越したくない点は……夕方の炭酸。
あのイライラを、明日に持っていきたくない」
根が見えた。
“丁寧さ”。
それが千紗のroots。
散った点を繋ぐ根。
俺は紙に書いた。
『roots:丁寧さ(私の署名)
点:白湯/コーヒー/炭酸/ほうじ茶/紅茶
戻り方:凹凸→椅子→シャク→鈴さぁ』
千紗はそれを見て、息を吐いた。
芯が戻るときの息。
「ねえ」と千紗が言った。「点って悪いものだと思ってた」
「点は悪くない。
点は“変化”だ。
同じでい続けるより、人は点になって当然」
「じゃあ、rootsがあればいい?」
「うん。
点が散っても、rootsがあれば戻れる。
ヤワじゃない。スプリング。根があるから戻る」
千紗が鈴に指を伸ばし、ちりんと鳴らした。
「さぁ」
「さぁ」
「合言葉、増やしたい」と千紗が言う。「今日のやつ」
「いいね。短いやつ」
千紗は少し考えて、言った。
「……『根っこ』」
「そのまま?」
「うん。
散ったら『根っこ』って言う。
丁寧さに戻る」
「最高。合言葉、根っこ」
「根っこ」
「凹凸」
「凹凸」
俺は冷蔵庫の磁石の下に、新しいメモを貼った。真ん中じゃない、端っこ。
『点→roots
合言葉:根っこ
守るもの:丁寧さ
戻り方:凹凸→椅子→シャク→さぁ』
点は散る。毎日散る。
でも根があれば、散っても大丈夫。
根は見えないけど、触れる。
触れれば、点はまた“私”に戻ってくる。