名づけない風
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
主人公の「俺」と同居恋人の千紗が、毎日のモヤモヤや刺さった気持ちを、合言葉と小さな合図で、暗くならないようにほどいていく連作です。 仕事の失敗、待たされる焦れ、二択の迷い、理不尽、家族の距離、言えない「好き」みたいな“よくあるけど地味に重い”出来事を、会話と行動でちょっとずつ整えて、最後はちゃんと前に進める形にしていく、生活系の短編つながり。
本文
それは、痛いわけじゃない。
悲しいわけでもない。
何があったと説明できるほど、出来事もない。
なのに、部屋の空気だけが、ほんの少し重い。
ソコハカトナク。
たぶん、こういう時のための言葉だ。
朝、僕は白湯を飲んでいた。
いつもなら、白湯が議長として僕の内なる五人を整える。
白湯・紅茶・ほうじ茶・コーヒー・炭酸。
でも今日は、白湯の声が薄い。
議長が不在。
会議室がざわつく。
アンは椅子の上で丸くなっている。椅子。第三の動き。
猫はいつも通り。
いつも通りがあると、逆に“僕だけ変”が目立つ。
千紗がキッチンから顔を出した。
「……風、ある?」
受信機が早い。怖いくらい。
「ある」
僕は正直に言った。
「なんか、ある」
「ソコハカトナク?」
「うん。まさにそれ」
言えた瞬間、少し楽になる。
名前がつくと、正体不明が“扱えるもの”に変わる。
千紗は冷蔵庫の扉を開けて、貼り紙を一枚増やした。
そこには、ひらがなで一言。
「ふわ」
「……ふわ?」
「今日の状態。名づけない。ふわ」
千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ。まず、凹凸」
凹凸。刺さったときの手すり。
でも今日は刺さってる感じじゃない。
刺さらず、ふわっと沈む。
だからこそ、手すりが要る。
「凹凸」
僕が言うと、千紗が頷いた。
「いい。次、一手」
「一手、何する」
「“ふわ”を十にしない。欠片にする。三つでいい」
三つ。
素直な虹は三色。
シンプルシンボルは三つ。
段付きスイッチも三段。
僕らの生活は、三で回ることが多い。
千紗は紙を一枚置いて、縦線を一本引いた。線。
さらに、その線に小さなスリット。
「左が“体”、右が“心”。間にスリット。通気口」
「通気口」
「閉じない。閉じると暗く沈む」
僕は紙を見ながら、三つの欠片を探した。
ふわの正体を、無理に暴かない。
ただ、触れられるサイズにする。手袋で触るみたいに。
「一つ目」
千紗が促す。
「体」
「……眠い」
「理由一行」
錨の手順が混ざる。風に飛ばされないように。
「昨日、寝るの遅かった」
「現実通り」
千紗が小さく言って、鈴をちん、と鳴らした。
「固定。二つ目」
「心」
僕は少し考えて、言った。
「……焦り」
「何に?」
「何かに追われてる気がする。でも何か分からない」
「分からない、でOK」
千紗は即答した。
「ないものはない。分からないものは分からない。今日は“ふわ”だから」
分からない、と言っていいのが救いだ。
説明できない不調ほど、説明しようとして泥に沈む。
今日は沈ませない。
浮かせたまま、手すりに寄せる。
「三つ目」
千紗が言う。
「環境」
「……天気」
窓の外は曇っている。光が弱い。
それだけで、人は少しふわになる。
「よし」
千紗が頷く。
「欠片、三つ。ピース化できる」
「ピース」
「欠片→ピース化/完成側へ戻る」
ここで僕の胸の奥が、少しだけ軽くなった。
“ふわ”が霧じゃなく、薄い布くらいになる。
でもまだ、動き出すスイッチが入らない。
オンにもオフにもならない。
だから段。
20/50/80。
「段、決めよ」
千紗が言う。
「今日は20」
「20で何する」
「生きることだけ」
「生きることだけって、曖昧だな」
「じゃ、具体。白湯。シャワー。短い散歩。アンを一回撫でる。以上」
「それ、いい」
「それが“現実通り”の20」
千紗は鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。ひとつだけ」
ひとつだけ。
僕はまず、シャワーにした。
シャワーは、ふわを水で流すんじゃなく、“温度を戻す”道具だ。
シャワーを浴びて出ると、千紗がタオルを投げてよこした。
投げ方が雑で優しい。
それだけで笑いそうになる。
笑いは炭酸。圧抜き。
「次、散歩」
千紗が言う。
「外の線、見に行こ」
「外の線?」
「電線とか、ガードレールとか。線は戻るためにもある」
僕らは近所を少し歩いた。
曇り空の下、アスファルトの境界線、横断歩道の白、フェンスの縦線。
世界は線だらけで、全部が「止まっていい」と言っているみたいだった。
ソコハカトナク、の正体は、たぶん“止まれ”の合図だったのかもしれない。
帰宅すると、アンが玄関で待っていた。
僕はアンを一回だけ撫でた。ひとつだけ。
猫の体温が指に残る。
体温は現実通り。
ふわを地面に戻す。
「最後にシャク」
千紗が言う。
りんごを切って、一口噛む。
シャク。
音が、布みたいな“ふわ”を、さらに小さく折りたたむ。
「ねえ」
僕が言う。
「今日の“ふわ”、悪者じゃなかった」
「うん」
千紗が頷く。
「ふわは天気。天気は叱らない。対策するだけ」
「対策って、手順?」
「そう。手順。凹凸、線、段、椅子、白湯、シャク。あと鈴」
千紗が最後に鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ」
名づけない風は、名づけないままでもいい。
でも、扱い方はある。
僕らは今日も、ソコハカトナク沈みそうな日を、暗くせずに、手すりと手順で歩いていく。
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