新しい名前、呼べない

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/6/20 📚 シリーズ: 追伸は必ず。 📝 4,906文字 ✅ 全年齢

あらすじ

学校の片隅に置かれた「応援ポスト」。 HELP(困ってる)とTHANKS(助かった)を、誰でも匿名で入れられる。 返事も誰でも書ける。極稀に先生も書く。ただし、ひとつだけルールがある。 “追伸だけは必ず書くこと。” 中学も、高校も、大学も。 頑張り方に迷う誰かの紙に、知らない誰かの言葉が届く。 励ましじゃなくて、明日を軽くする「やり方」が、追伸に残る。 学園青春×短編連作 匿名お悩み相談(手紙) じんわり回復+時々クスッ 更新:週1は守ります。基本14時に届きます。たまに増えます。

本文

中学の教室、高校の廊下、大学の掲示板のそば。

どこにでも現れる「応援ポスト」には、毎週ちがうHELPが届く。

返事を書くのは、同級生かもしれない。先輩かもしれない。先生かもしれない。

共通しているのはひとつだけ。

“追伸だけは必ず。”

新しい名前は、口の中で一回転してから出てくる。

春の手前の廊下は、掲示物が増える。次の学年のこと、提出物のこと、部活のこと。貼り紙が増えるほど、人の歩幅は細かくなる。立ち止まる場所が増えるからだ。

それと一緒に、「名前」が増える。新しいクラスの名簿、委員の当番表、部活の役割表。紙に印刷された名前は、きちんと読めるのに、口に出すと別物になる。

掲示板の前は今日も少し混んでいて、流れがゆるやかに曲がっている。その曲がり角に、応援ポストがある。板の前だけ、みんなの足がちょっと丁寧になる。

丁寧になる理由は、たぶん「呼び方」だ。春手前は、呼び方が勝手に変わろうとする。変わろうとするのに、口が追いつかない。

HELPは二枚。どちらも白い紙で、角が揃っている。揃っているのに、字が小さくて急いでいる。

【HELP】

新しい呼び方を教えてもらったのに、呼べない。

照れるとかじゃなくて、口が固まる。

どうしたら自然になる?

【HELP】

名字じゃなくて名前で呼んでって言われた。

「うん」って言ったのに、次から言えない。

言えないまま時間が過ぎて、変な感じ。

紙の前で、誰かが喉を鳴らした。飴を舐める時みたいな音。新しい名前は、甘いのに引っかかる。

最初の返事は太い字だった。勢いがあるのに、押しつけない。

【返事】

呼べないなら、いきなり“本番”にしない。

①まず紙に書く(メモで渡す)

②次に小声で一回だけ言う(相手の耳元じゃなく自分のノートに向けて)

③最後に普通の声で言う

追伸:声の大きさは、階段で上げていい。

声の大きさを階段で上げる。言い方が可笑しくて、板の前の空気が少しだけほどけた。段階があると、怖さは小さくなる。

次の返事は筆圧が軽い。行間が広い。呼吸も広くなる。

【返事】

“自然に”は、だいたい練習の結果。

口が固まる人は、目が合うと固まりやすい。

だから最初は、目じゃなくて「肩」か「靴」を見て呼ぶ。

追伸:視線をずらすのは逃げじゃなく手順。

肩を見る。靴を見る。そんなことで?と思うのに、そんなことほど効くのが学校だ。廊下は目が多い。目が多いと、口が固まる。

価値観が違う返事も来た。字が四角く、箇条書きがきっちりしている。

【返事】

呼び方は“中間”を作っていい。

名字→名字+さん→名前+さん→名前(呼び捨て)

階段を一段ずつ。

追伸:いきなり最上段に立たなくていい。

最上段。階段が続いていると思うと、少しだけ楽だ。いまは二段目でいい。二段目でも、景色は変わる。

もう一枚、丸い字の返事。少し斜めで、急いで貼った感じがある。

【返事】

言えないまま時間が過ぎるのがいちばん苦しい。

だから“言えない宣言”を先にする。

『ごめん、練習中。次は言う』

これを一回だけ言う。

追伸:宣言は、変じゃなくて親切。

練習中。宣言。恥ずかしさに名前をつけると、恥ずかしさが少しだけ座る。

さらに細い字の返事が重なった。短い。現場向きだ。

【返事】

呼べない日は、呼びたい気持ちを“合図”で先に渡す。

・相手のノートに小さく名前を書く

・スタンプみたいに丸をつける

・次に声で言う

追伸:先に渡しておくと、本番が軽い。

最後にもう一枚、返事が増えた。字が太く、短い言葉が並ぶ。

【返事】

名前の前に“助走”を置く。

『ねえ』→(一拍)→名前

『ちょっと』→(一拍)→名前

追伸:助走があると、声が出やすい。

もう一枚、返事が増えた。字は細いけど、結論が早い。現場で使えるやつ。

【返事】

“呼び返し”を使う。

相手があなたを呼んだ直後に、同じ呼び方で返す。

(返事の勢いに乗る)

例:

相手『おーい、〇〇』→あなた『〇〇、なに?』

これを一回でも通すと、口が「この並び」を覚える。

自分から呼ぶのが難しい日は、先に相手に一回呼んでもらっていい。

追伸:一回目は復唱で十分。復唱は練習に見えない。

板の前で、誰かが小さく「ねえ」を口の中で転がしていた。転がせたら、半分勝ちだ。

その日の現場は、まさに“本番”が多い日だった。

放課後、教室の前でクラスの人たちが固まっている。席替えの話をしているのか、新学期の話をしているのか、どっちとも言えない話をしている。どっちとも言えない話の中に、呼び方の話が混ざる。

机の上には、配られたばかりの小さいラベルシールが散らばっていた。次の学年に持ち上がる教材のためのやつだ。自分の名前を書く。名前は書ける。書けるのに、呼べない。

「来年さ、呼び方変えない?」

軽い声で言われると、軽く返事をしてしまう。

「うん、いいよ」

言った瞬間は、ほんとうに“いいよ”だ。

でも次の瞬間、口の中で新しい名前がぐるぐる回り始める。回り始めると、出てこない。出てこないから、笑いでごまかしそうになる。

その夜、家の机の端でラベルシールを見つけて、妙にドキッとした。

白い四角に、黒い名前。自分の名前。相手の名前じゃないのに、名前の四角は心臓を叩く。

机の端に、返事の手順を置く。紙に書く。小声。普通の声。

普通の声がいちばん難しいから、まず小声からにする。

スマホのメモに、相手の新しい呼び方だけを打ってみた。

打てた。消した。打てた。消した。

画面は、何回も同じ文字を出しては消す。点滅するカーソルが「言え」と言う。

そのうち、タイピングの音が恥ずかしくなって、机の端をトントン叩いた。助走の代わりに。

翌日。

廊下で向こうから相手が来る。手を振られる。振り返す。ここが本番だ。

ここで呼べたら、たぶん全部が少し楽になる。

なのに、喉が固まった。口が動かない。新しい名前が、口の中で一回転して、二回転して、まだ出てこない。

短い負けだ。しかも相手は待っている顔をしていない。普通の顔をしている。普通だから余計に怖い。普通な時間にだけ、うまく混ざりたい。

そこで、返事の「肩を見る」を思い出した。

目を見ない。肩。肩の縫い目。制服の線。そこに視線を置いて、息を吐く。

深呼吸じゃない。「ふー」だけ。

助走も置く。

「ねえ」

言えた。ねえ、は言える。ねえ、の次が怖い。

「……えっと」

えっと、は逃げ道になりやすい。えっと、を長引かせたら終わる。

だから、言えない宣言を使う。

「ごめん、練習中。次は言う」

言った瞬間、相手の顔が一回だけ柔らかくなった。

「なにそれ」

笑われた。笑われたのに、嫌じゃない。笑いが先に出ると、空気が軽い。

そのまま昼休みになった。購買の列は相変わらずゆるく蛇行して、パンの袋がガサガサ鳴る。列の途中で、相手がふいにこちらを見て、わざと大きめの声を出した。

「おーい、〇〇」

呼ばれた瞬間、体が先に反応した。声はまだ遅れてくるのに、首はもう向いている。返事の“呼び返し”が、ここで効く。

「〇〇……なに」

言えた。言えたのに、最後が疑問文みたいに弱い。弱いのが悔しくて、もう一回言い直したくなる。

相手が笑って、パンの袋を振った。

「ほら、言えてる」

「今のは、呼ばれたから」

「じゃ、もう一回呼ぶ」

「やめて」

やめて、の声だけは元気だ。元気な拒否は、なぜか出る。二人で笑って、列が一歩進んだ。

列の前の方で誰かが名前を呼び間違えて、別の人が手を上げた。「こっち」。間違いを修正する動作が、今日の廊下のあちこちで起きている。名前も、点数も、予定も、春手前はよく転ぶ。転んだら立てばいいだけだと、体が教えてくる。

教室に戻って、相手がノートを広げた。昨日、合図で名前を書いた場所が、ちょうど視界に入る。

「ここ、書いてくれたやつ」

指でトン、と叩かれて、喉が一回だけ詰まった。でも詰まったままでも、合図は先に渡っている。詰まったら、助走を置けばいい。

「ねえ、〇〇……」

声が小さくて、相手がわざと耳を寄せるふりをした。

「聞こえなーい」

そのわざとらしさに、こっちが吹き出した。吹き出した勢いで、もう一回言える。

「〇〇」

笑いは、声の背中を押す。押すけど、押しつけじゃない。ちょうどいい。

でも、宣言したら次は言わないといけない。言わないと、宣言が“逃げ”になる。宣言は親切だから、親切のまま回収したい。

次のチャンスは、階段の手前だった。人が減速する場所。減速すると声が届く。

相手が横に並ぶ。並んだ瞬間、心臓が一回だけ早くなる。

ここだ、と思う。思った瞬間に怖くなる。

だから段階を使う。

中間を作る。名前+さん。いきなり最上段に立たない。

口の中で一回だけ練習する。声は出さない。舌だけ動かす。

「……〇〇さん」

声が出た。出たのに、音が小さすぎて自分でも聞き返したい。

相手が首を傾げる。

「ん?」

ここで沈むと、今日が終わる。沈む前に修正する。短い負けを短いまま回収する。

「……ちがう、ごめん。もう一回」

言ってから、ノートじゃなく自分の指先を見る。視線を落とす。息を吐く。

そして合図を使う。相手のノートの端を、指でトンと叩く。そこに小さく、名前を書いたことを思い出させるみたいに。

「〇〇」

今度は、ちゃんと聞こえる声で言えた。

相手が一瞬だけ止まって、それから笑った。

「今、言えたじゃん」

「……言えた」

「じゃ、もう一回」

相手がそう言って、わざと軽く促す。押してないのに、手を引っ張ってくれる感じ。

「〇〇」

二回目は、少しだけ自然だった。自然は練習の結果。ほんとだった。

言えた勢いで、調子に乗ってもう一回言おうとして、喉がまた固まりかけた。春手前の喉は気まぐれだ。

そこで相手が、先に助走をくれた。

「ねえ」

呼び返されると、こっちの声も出る。

「ねえ、〇〇」

自分でも可笑しくて、二人で笑った。階段の手前で笑うの、だいぶ平和だ。

帰り道、応援ポストの前を通る時、板にTHANKSが増えていた。紙の端が少しだけ丸まっている。貼る手が急いでいたのかもしれない。急いだのに貼りに来た。そこが勝ちだ。

【THANKS】

呼べないってHELPを書いたら、段階があるって返事が来た。

名字→名前+さん→名前、って階段が見えたら楽になった。

最初は「練習中」って言ったら笑われて、空気が軽かった。

笑われたから、次の一回が言えた。

言えたあと、帰り道の足が軽かった。

【THANKS】

目を見ると固まる、が当たってた。

肩を見たら、ほんとに口が動いた。

助走で「ねえ」だけ先に言ったら、続きが出た。

小声で一回言ってから本番にしたら、二回目が自然だった。

自然って、練習だった。

【THANKS】

一回、声が小さすぎて「ん?」って言われて死にかけた。

でも「もう一回」って言えたら戻れた。

相手が「じゃもう一回」って言ってくれて、押されないのに背中が動いた。

合図ノートをトンを挟んだら、声が出やすかった。

笑って終われたのが、いちばん助かった。

【THANKS】

「言えない宣言」をしたら、変な空気にならなかった。

宣言が親切って言葉が好き。

宣言したから、回収したくなって本番ができた。

逃げじゃなく整列、って感じがした。

板の前でそれを読んだ誰かが、指で小さく階段を作るみたいに、机の端をトントンと叩いた。段階、段階、と。

別の誰かは、助走の「ねえ」を小声で練習して、隣に聞こえてしまい、二人で同時に咳払いをした。咳払いは便利だ。空気を切り替えてくれる。

新しい名前は、最初は重い。重いのに、軽く言いたい。矛盾するから口が固まる。

でも段階があるなら、重さは少しずつ薄くできる。薄くなったら、やっと“普通”に混ざれる。

最後に、白い返事が一枚だけ増えていた。字は小さいのに、最後の一行だけ太い。

【返事】

呼べた日は、呼び方が変わったんじゃなくて、あなたの距離が一段近づいた日。

だから照れていい。固まってもいい。

追伸:固まったら、階段の手前で言えばいい。

階段の手前。減速する場所。

また新しい季節が来ても、呼び方の練習場所は、ちゃんと残っている。

帰りの廊下で、誰かが小さく言った。

「……明日も、呼ぶ」

隣の人が、笑って返す。

「うん。階段の手前で」

今日の終わりは、少しだけ可笑しい。

可笑しい終わりは、明日へ続く。

頑張る人ほど、追伸に救われる。

追伸は週1以上、基本は14時更新

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