幕間 少しだけ、外へ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
「刻印盤」と呼ばれる装置が、処置や運用の“条件”を可視化し、制度として人々の判断を支えている世界。けれど現場では、盤そのものよりも「最後に目が向く先」が決まってしまっていた。刻印を使うか否かの結論は、いつも桐生さんの一言で落ち、理由は求められない。便利さは安心を生み、やがて「次も同じ扱いで?」が口癖になって前例が積み重なっていく。 その空気の変化を、リーナは最初の違和感として掴む。前例は迷いを減らす一方で、過程を薄くし、残るのは「名前と結果」だけになる。判断は制度ではなく人に貼られたラベルとなり、「座っている人」が責を背負う構図が固まっていく。そんな中で席の移譲が始まり、リーナ自身も“任される側”へ。失敗が起きた時、隠して無難に済ませることもできたが、彼女は「失敗も含めて残す」と宣言し、判断の手触りを取り戻そうとする。 やがて刻印盤は、決めてくれる道具ではなく「考える起点」として残される。盤が示すのは条件だけ。選ぶのは人。リーナとフィオは、その当たり前を“当たり前にし直す”ために、今日も席に座り続ける。
本文
「……今日、早く終わりません?」
言い出したのは、私だった。
フィオが一瞬、目を瞬かせる。
「え?」
「たまには」
肩をすくめる。
「盤も書類も見ない日、あっていいでしょ」
返事を待たずに、私は歩き出した。
止められる気はしなかった。
理由を説明するつもりも、なかった。
外の空気は、思ったより軽かった。
建物を出ただけなのに、胸の奥が少しだけ広がる。
「どこに行くんですか」
フィオが、半歩遅れてついてくる。
「決めてない」
正直に言う。
「考えない日だから」
フィオは、少し困ったように笑った。
「……それ、判断放棄じゃないですか」
「違う」
私は首を振る。
「今日は、判断しないって決めたの」
それを聞いて、フィオは黙った。
でも、離れなかった。
街は、いつも通りだった。
刻印盤の前とは違う、人の流れ。
急いでいる人も、立ち止まっている人もいる。
「ねえ」
歩きながら、私は言った。
「疲れた、って言ってたよね」
フィオは、一瞬だけ視線を逸らす。
「……はい」
「理由、分かる?」
少し間があってから、答えが返ってくる。
「分からないまま、動いてるからです」
私は、足を止めた。
「分からない?」
「はい」
フィオは、真面目な顔で続ける。
「判断は、早くなりました。でも」
言葉を探す。
「自分が、何を基準に動いてるのか……」
「見えなくなってきた?」
フィオは、小さく頷いた。
「……はい」
それを聞いて、私は少しだけ笑った。
「それ、正常だよ」
「え?」
「考えてる証拠」
私は前を向く。
「考えなくてよくなる方が、楽だけど」
一拍。
「それ、危ない」
フィオは、何も言わなかった。
でも、その背中は、さっきより少しだけ軽そうだった。
しばらく、二人で歩く。
目的はない。
でも、止まらない。
「リーナさん」
フィオが、ぽつりと呼ぶ。
「はい」
「……ありがとうございます」
「何が?」
「……連れ出してくれて」
私は、少しだけ考えてから答えた。
「私も、出たかっただけ」
それ以上は、言わなかった。
空は、思ったより高い。
刻印盤の光は、どこにもない。
――判断しない時間が、
ちゃんと息になることを、私はその時、初めて知った。
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