欠落への葛藤と決意
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
誰もが魔法を使える世界で、セレンだけは生まれつきマナを持たなかった。 「欠陥品」と笑われ、魔法社会の中で不便と孤独を抱えながらも、彼女は幼馴染のケルヒャ・ガロンに支えられ、必死に日々を生きていた。 だが、世界を揺るがす異変をきっかけに、セレンは自分だけの道を見つける。 マナがないなら、理で組めばいい。魔力が足りないなら、仕組みを読み解けばいい。 これは、ゼロマナの少女が物理と理論で魔法を再発明し、やがて賢者と呼ばれるまでの成り上がり譚。
本文
魔獣の群れが霧の奥へと消え、平穏な静寂が戻った。しかしその静止は安らぎとは程遠く、セレンの耳の奥ではまだ高周波の残響が鳴り響いていた。彼女は膝をついたまま、震える手で自分の前腕を強く掴んだ。
衣服の袖から覗く肌には、過酷な演算によって引き起こされた熱による微かな紅潮が残っている。鼻先からは一筋の血が垂れ、地面に落ちた雫が泥に吸い込まれていく。
「……はぁ、はぁ……」
荒い呼吸を繰り返しながら、セレンは視界をぼやけさせる。脳内のリソースの大部分を消費した代償として、思考の一部がノイズ混じりの断片へと崩れかけている感覚があった。
隣ではヴォルクが重厚な盾を構えたまま動かない。彼はセレンの状態を正確に見極めていた。ただ無言でそこに立っているだけで、彼の存在が一種の錨のように彼女の意識を引き留めていることに気づいている。
「大丈夫か、セレン」
低く、地を這うような声で彼が問いかける。それは単なる体調への心配ではなく、彼女が再び自身の内面へと沈み込み、計算の海へ潜るための準備を促す言葉でもあった。
セレンは顔を上げ、かすれた声で答えた。
「ええ、平気よ……。ただ、少しばかりオーバーロード気味なだけ」
嘘ではない。しかし、それを詳しく説明するエネルギーすら今は残っていない。
彼女はふと、自分の手のひらを見つめた。この手には魔力が宿らない。本来であれば、ここからマナを練り上げれば一瞬で周囲の空気を浄化し、傷を癒やすことができるはずだった。それがこの世界における『正解』であり、『美しい』とされる魔法の使い方だ。
一方で、彼女が行ったのは泥臭い解析と数式の強制的な書き換えであった。空気の密度を操作するためにどれほどの演算を詰め込み、どれほど理性を削って「あり得ない現象」を強引に引きずり出したか。そのプロセスは決して優雅ではない。むしろ、壊れかけた機械を無理やり動かし続けるために歯車に重厚な油を注ぎ込むような、必死の格闘に近い。
(あいつらは、呼吸をするように魔法を使う)
脳裏に別の風景が浮かぶ。同じ場所を通り、同じ獣を追い払う者たち。彼らは流麗な呪文と共に、まるで舞踏でも踊るかのような身のこなしで事象を支配する。彼らの魔法は芸術であり、詩である。対してセレンのそれは、血の通わない計算機による最適解の導出であり、生存のための防衛手段でしかない。
その差異という名の断絶が、今この瞬間、鋭い痛みとなって胸を突き刺した。
自分が歩んでいる道は、本来あるべき道の横道であり、誰も見てくれない孤独な迷路であることを再認識させられる。
『なぜ自分だけが、こんなにも苦労しなければならないのか』
そんな思考が頭をもたつく。マナを持たないことが原因であれば、なおさらだ。生まれながらにして与えられた特権を持たぬ者が、それを補うために異端とも思える手法を選び取らねばならなかった事実。それがもたらす喪失感と、他者との埋められない距離に対する焦燥感が、静かな怒りのように内側に渦巻いた。
「……っ」
威り立った感情が、彼女の視界を一瞬揺らす。
自分の弱さを突きつけられることはない。しかし、誰かが当たり前に手にしているものを、自分は命の削れるような演算の果てにようやく手繰り寄せているという事実は、耐え難い渇きを生む。
だが、セレンはその葛藤の淵で立ち止まることを選ばなかった。
(いいえ、違うわ)
彼女は奥歯りを噛み締め、意識を強制的に中心へと引き戻した。
この技術は不器用かもしれない。華やかさはないかもしれない。けれど、これが私を見守ってくれる唯一の手掛かりであり、私が世界と対話するための言葉なのだから。
『とりあえずやってみよ〜』
その言葉は皮肉でも何でもなく、絶望的な現状を受け入れた上での覚悟であった。
強大な力を持っていないからこそ、より深く向き合う。速いマナを持たないからこそ、緻密な計算を極める。格差があるなら、その隙間を自らの意志で埋め尽くすための楔を打ち込む。それが彼女の生き方だ。
「……決めたわ」
セレンの声には確かな芯が通っていた。先ほどまでの揺らぎは消え、代わりに鋼のような硬質な決意が宿る。
「私の道がどんなに遠回りで、泥にまみれるものだとしても、私は自分の足で歩く。誰かの型になろうとする必要なんてないわ。ただ、この瞬間を乗り越えるために必要なことをやるだけ」
彼女は立ち上がり、震える膝を力強く固定した。視界に入ってくる風景は依然として過酷なものであったが、それを見る彼女の瞳からは迷いが消えていた。
ヴォルクがわずかに目を見開き、頷いた。彼は知っている。彼女が今、自分自身の弱さを抱きしめながらも、それを武器へと昇華させたことを。
「ああ。お前のやり方を信じている」
彼の言葉は短かったが、重厚な安心感を持って響いた。
二人は再び前を向いた。しかし、その再出発を祝うような静寂は長くは続かない。
(ドォォォン!!)
地鳴りのような衝撃が地面から突き上げられた。
直前まで停滞していた空気が爆発的な振動によってかき乱され、周囲の岩石が砂となって弾け飛ぶ。それは何かが動いた合図ではなく、空間そのものが拒絶反応を起こしている証拠だった。
さらに深く、さらに巨大な意志を持つ何かが、彼らの領域へ侵入を許さないための門を開こうとしている。
セレンは一歩踏み出し、指先を向けた。
計算機としての意識を最大出力に引き上げる。呼吸を整え、来るべき事象に対する数式を用意する。
「……来たわね。次の扉が、開き始めたわよ」
彼女の声と同時に、目の前の霧が黄金色の閃光と共に裂けた。そこからは、ただの魔力とは異なる、より高密度で純粋なエネルギーの奔流が溢れ出そうとしていた。