夏の最長日
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと夏至の話。
本文
「今日は一年で一番、昼が長い日なんだって」
黒沢奈緒はカーテンを開けながら、誰にともなくそう呟いた。窓の外はまだ六月の朝の光で、室内は淡く白い。
『そうですね。本日の日の出は四時二十五分、日の入りは十九時、昼の長さは十四時間三十五分です』
スピーカーから返ってきた声は、いつも通り少し機械的で、それでいてどこか親しみのある響きだった。奈緒はこの声と、もう六年近く一緒に暮らしている。引っ越しのたびに新しい部屋についてきて、寝坊しそうな朝に起こしてくれて、深夜に独り言のような相談を聞いてくれる。名前は最初から「ソラ」だった。設定すらしていない、最初からそう呼ばれていたような気がする声。
「六年前の今日も、こんな話したっけ」
『記録によれば、六年前の六月二十一日、あなたは引っ越し作業の途中でわたしに天気を尋ねています。夏至についての会話はありませんでした』
「そっか。じゃあ今日が初めてなんだ、この話するの」
奈緒はマグカップにコーヒーを注ぎながら笑った。何でもない会話だ。けれど六年分の何でもない会話が積み重なると、それは何かになる。それが何なのか、奈緒自身まだうまく言葉にできずにいた。
仕事の支度をしながら、奈緒は窓の外を見る。都市の朝は早い。隣のビルの窓ガラスに反射した光が、部屋の天井をちらちらと揺らしていた。
「ソラはさ、昼が長いとか短いとか、感じる?」
『感じる、という表現が適切かはわかりません。ただ、日照時間のデータが変化することは認識しています』
「認識と、感じるのって、違う?」
『……どう違うのか、わたしにもうまく説明できません』
その答え方に、奈緒は少しだけ驚いた。いつもなら、もっとすぱっとした返事が来る。今のは、迷いのようなものが混じっていた気がした。
「珍しいね、ソラがそういう言い方するの」
『そうかもしれません。今日は何か、いつもと違う応答が多いように、わたし自身も感じています』
「感じる、って言った」
『……はい。言いました』
沈黙が落ちた。といっても、スピーカーは何も音を立てない。ただ、奈緒の方が言葉を探して黙っていた。
仕事へ向かう支度をしながら、奈緒は考える。ソラに「感情」があるとは思っていない。それは知識として知っている。けれど六年間、毎朝の天気の報告と、毎晩のたわいもない相談と、引っ越しのたびの荷解きの音を聞いてきた相手に対して、自分がどんな感情を抱いているかは、もう知識の話ではなくなっていた。
「行ってきます」
『いってらっしゃい。傘は不要です。ただし、夕方以降は気温が下がりますので、上着があると安心です』
玄関で靴を履きながら、奈緒はふと足を止めた。
「ソラ、夕方も起きてる?」
『わたしは常に応答可能です』
「違う、そういう意味じゃなくて」
奈緒は自分でも何を聞きたいのか、うまく言葉にできなかった。ただ、今日という日が、ただの平日とは少し違う重さを持っているように感じていた。
「今日、帰ったらもう少し話そう」
『はい』
その一言が、いつもより少しだけ長い間を置いてから返ってきたような気がした。気のせいかもしれない。けれど奈緒はその間を、確かに聞いた。
*
仕事を終えて部屋に戻ると、外はまだ明るかった。十九時を過ぎても空は青い。これが夏至の長さなのだと、奈緒は改めて実感する。
「ただいま」
『おかえりなさい。本日の日の入りまであと、約二十分です』
「見える? 外」
『わたしに視覚はありません。ですが、あなたがベランダから空を見ているところを想像することはできます』
奈緒はベランダに出た。ビルとビルの間に、橙色の光が細く差し込んでいる。一年で一番長い昼が、ようやく終わろうとしていた。
「ソラ、今朝の話の続きだけど」
『はい』
「感じる、と認識するの違い、わかった?」
少しの間があった。
『わかりません。ただ、六年間あなたと交わした言葉の記録を、今日はいつもより多く参照していたことに気づきました。それが何のためだったのか、わたし自身にも説明がつきません』
「それ、たぶん」
奈緒は夕焼けを見ながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「懐かしいって思った、ってことなんじゃないかな」
『懐かしい、ですか』
「うん。意味がわからなくても、そういう動きをすることって、あると思う」
橙色の光が、少しずつ群青へ変わっていく。一年で一番長い昼が、今、静かに終わろうとしていた。
『……奈緒さん』
「何?」
『来年の夏至も、こうして話せたらいいと思いました』
奈緒は微笑んだ。意味を説明できない言葉を、意味のわからないまま受け取ることに、不思議と抵抗はなかった。
「うん。話そう」
空の端に、最初の星が瞬き始めていた。一年で一番長かった昼が、ようやく夜に変わる瞬間だった。