定時のあとに
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと父の日の話
本文
「父さん、まだ仕事?」
神崎拓己がリビングに顔を出すと、父は書斎のドアを半分開けたまま、ノートパソコンに向かっていた。日曜の、しかも父の日の午後に。
「ああ、悪い。あと少しだけ」
父の声は、いつも通り少し疲れている。拓己は実家に帰るたび、この光景を見ている気がした。定年まであと数年というのに、父はいまだに仕事の手を止められない人だった。
「ハルさん、この資料の体裁、整えておいてくれ」
父がそう言うと、画面の隅に小さなウィンドウが立ち上がった。
『承知しました。フォーマットはいつもの社内テンプレートでよろしいですか』
合成された声が、落ち着いたトーンで返す。「ハル」というのは、父が長年使っている業務支援AIの名前だった。拓己が大学生の頃から、父はずっとこのAIと仕事をしている。
「ああ、頼む」
『五分ほどお時間をいただきます。その間、コーヒーでも飲まれてはいかがでしょう。先ほどから集中が続いていますので』
「お前に言われなくても」
そう言いながらも、父は立ち上がってキッチンへ向かった。拓己はその背中を見ながら、少し意外な気持ちになった。
「父さん、ハルさんに気遣われてるんだ」
「うるさいな。あいつは昔からこうだ」
父はマグカップにコーヒーを注ぎながら、ふっと笑った。その表情は、拓己が子供の頃にはあまり見た記憶のないものだった。
「お前が家を出てから、何年だ」
「六年だよ」
「そうか。ハルとは、もう十年以上の付き合いになるな」
拓己は少し驚いた。十年。自分が実家にいた頃から、父はこのAIと仕事をしていたことになる。当時は、ただの便利な道具だと思っていた。けれど今、父の口ぶりには、それ以上の何かが滲んでいる気がした。
「父さん、ハルさんのこと、どう思ってる?」
唐突な質問に、父は少し戸惑ったようだった。
「どう、とは」
「いや、なんか、長年の同僚みたいな感じ?」
父はコーヒーを一口飲んでから、書斎の方を見た。
「あいつがいなかったら、お前たちを育てながらこの仕事を続けられたか、正直わからん」
その言葉は、拓己が初めて聞くものだった。父は、家族の前で仕事の苦労をあまり語らない人だった。
書斎から、ハルの声が聞こえてくる。
『神崎様、資料の体裁が整いました。ご確認をお願いします』
父は書斎に戻り、画面を覗き込んだ。拓己もついていく。
「ハルさん、今日って何の日か知ってる?」
拓己が試しに尋ねると、少しの間があってから返事が来た。
『本日は父の日です。神崎様の業務記録によれば、毎年この時期は休日出勤の頻度がやや高くなる傾向があります』
「それ、聞いてないよ」
父が苦笑する。
『恐れ入ります。ただの観測です』
「観測って言うけど、お前、毎年覚えてるのか。父の日のことも」
『記録には残ります。ですが――』
ハルの声が、一瞬だけ間を置いた。
『毎年この日、神崎様が少し早く仕事を切り上げようとする傾向があることも、記録しています。今日はまだ、その傾向が出ていないようですが』
父は何も言わず、ノートパソコンの画面を見つめていた。拓己もその横で、何と声をかけていいかわからずにいた。
「……ハル、今日の作業、もういいよ」
しばらくして、父がそう言った。
『承知しました。本日の業務記録はここまでとします』
「拓己、飯でも行くか。父の日だしな」
「珍しいね、父さんがそんなこと言うの」
「年に一度くらいは、いいだろう」
父は立ち上がり、上着を手に取った。拓己はその背中を見ながら、書斎の画面が静かに暗くなっていくのを見ていた。
「ハルさん、行ってきます」
拓己が画面に向かって声をかけると、最後にもう一言だけ返ってきた。
『いってらっしゃいませ。良い父の日を』
短い言葉だった。けれどその一言が、十年分の積み重ねの上にあるものだということを、拓己は何となく理解していた。
玄関を出ると、六月の午後の風が吹いていた。父の背中は、いつもより少しだけ軽く見えた。