25話 作務衣の替え

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/25 📚 シリーズ: 風待町シリーズ ~寺~ 📝 2,186文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

風待町シリーズ ~寺~ - 25話 作務衣の替え

本文

山門のところで、濡れた布が石へひとつ落ちた。

 べた、と重い音だった。

 春先の明るい昼なのに、その音だけ、夕方みたいに聞こえる。志波美琴は勝手口で豆腐の水を切っていて、そこで顔を上げた。

 山門の内側に、志波恒一が立っている。

 作務衣の袖が片方だけ濡れていた。泥ではない。けれど、濡れたところが色をわずかに深くして、手首から肘のあたりまで重そうに張りついている。石の上に落ちたのは、さっきまで肩へかけていた手ぬぐいらしかった。

「あら」

 美琴はその一声だけ置いて、豆腐の皿を流しの横へ寄せた。

 長く聞くより、先に動いたほうが早い形だった。

「どうしました」

「水、かかったな」

 恒一は軽く言う。

「見れば分かるやろ」

「分かるので聞いてませんよね、それ」

 言いながら山門まで行くと、濡れた作務衣は思っていたより冷たそうだった。袖口から胸のあたりまで、布がぺたりと落ちている。乾くまで待つには、今日は少し風が弱い。

「替え、あります?」

「あるやろ」

「どこに置いてたか、覚えてます?」

 恒一はそこでひと息黙った。

 悪びれない顔のまま黙るから、分かりやすい。

「……茶の間の箪笥の上か」

「たぶんそのへんですね」

「そのへんでええやろ」

「門ではだめです」

 美琴はそう言って、濡れた袖へ指をそっとあてた。ひやりとしている。水だけの冷たさではなく、着たまま外に立っていたぶんの冷えも混ざっていた。

「先に脱いでください。風、入ります」

「ここでか」

「門で濡らしたんでしょう」

 明るく返しながらも、美琴はもう勝手口のほうへ足を向けている。替えを探しに行く前に、先に受け皿を用意する動きだった。

 茶の間の箪笥の上には、たしかに作務衣が一組あった。

 きちんと畳まれているが、前にいつ出したかは少し曖昧な顔をしている。白すぎず、古すぎず、けれど「今すぐ着る用」の置き方でもない。美琴はそれを持ち上げ、布の厚みを手のひらで見た。乾いている。かすかに陽の匂いが残っている。

 その時、文江が縁側から入ってきた。

「濡れたの」

 事情だけ拾う声だった。

「門でです」

 美琴が答える。

「替え、茶の間にありました」

「そう」

 文江はそこで終わらせず、畳まれた作務衣を一度だけ見た。

 見て、それから山門のほうへ目をやる。濡れたのが外で起きて、替えは茶の間にある。その距離だけを見ている顔だった。

「遠いねえ」

 ぽつりとそう言った。

 美琴は思わず笑った。

「そうなんですよ」

 台所から乾いた盆を一枚持ってくる。濡れた作務衣をそのまま畳へ入れたくないからだ。山門へ戻ると、恒一は濡れた袖をつまんで待っていた。

「遅いな」

「替えが茶の間なんですから、早くはないですよ」

「そこにあるからええやろ」

「門ではよくないです」

 盆を石の脇へ置く。恒一が作務衣を脱ぐと、濡れた布がまた重く鳴った。

 ぺたり、と盆の上へ乗る。

 乾いた盆の木へ、水の冷たさだけが少しずつ移る。

 代わりの作務衣を渡すと、恒一は何でもない顔で袖を通した。乾いた布は軽くて、さっきの張りつき方が嘘みたいに動く。見た目にも、それだけでずいぶん普通へ戻る。

「ほらな」

 恒一が言う。

「替えあったやろ」

「ありましたね」

 美琴はうなずいた。

「でも、門にはなかったです」

 そこへ文江がゆっくり来た。濡れた作務衣の乗った盆と、乾いた替えを着た恒一と、山門の石のあたりをひと目で見て言う。

「門で替えるなら、門にあるほうが早い」

 短い。

 けれど、そこで話の形が決まった。

 恒一はかすかに笑う。

「それやな」

「増やすんですか」

 美琴が聞くと、文江は首を振った。

「増やさないよ」

 その否定も短い。

「動かす」

 茶の間の替えを、門の近くへ。

 それだけのことだった。

 台所では、濡れた作務衣が先に洗いへ回された。

 桶に水が落ちて、布が沈む。

 ざぶ、と音がして、袖の冷たさだけが少しずつ抜けていく。

 その横で、美琴は新しく着たほうではない、古い替えの一組を引っぱり出した。白栄舎から返ってきた時ほどきれいではないが、門のところへ置くぶんにはちょうどいいくらいの顔をしている。

「これなら、門前用でいいですね」

 そう言うと、恒一が台所の戸口からのぞく。

「門前用って何や」

「門で濡らす人の用です」

「限定やな」

「限定ですね」

 返しが速い。

 文江は流しの横の空いたところへ目をやった。

 桶の外。

 濡れ布巾の手前。

 そのあたりに、小さい籠をひとつ置けばちょうどよさそうだった。

「籠でいいよ」

「門のところにですか」

「うん」

 美琴はすぐに納戸の下から浅い竹籠を出した。前に野菜を一時的に入れていたもので、底がしっかりしている。そこへ畳んだ作務衣を一組、上に手ぬぐいを一枚。重ねると、意外なくらい収まりがいい。

「……ほんとに門の顔しますね」

 美琴が言う。

 夕方前、竹籠は山門と車庫のあいだ、風が少し抜けるが雨は直接当たらないところへ置かれた。石の脇、手ぬぐいをよく掛ける釘の下。前から何か置いてあってもおかしくない場所だった。

 美琴が籠の向きを直す。

 籠の底が石へ当たって、こと、と鳴る。

 その上の作務衣の袖が、軽く重なり直る。乾いた布は、もうさっきの濡れた重さを思わせない。

 文江がその横を通って、一度だけ見た。

「そこでいいよ」

 いつもの短さだった。

 夜、ひなが勝手口を閉める時、ふと山門のほうが目に入った。

 暗い中でも、竹籠の上の白い手ぬぐいだけがかすかに見える。

 ひなはそのまま戸を閉めた。

 門のところの置き場が、もう今日だけのものには見えなかった。

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