25話 作務衣の替え
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あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 25話 作務衣の替え
本文
山門のところで、濡れた布が石へひとつ落ちた。
べた、と重い音だった。
春先の明るい昼なのに、その音だけ、夕方みたいに聞こえる。志波美琴は勝手口で豆腐の水を切っていて、そこで顔を上げた。
山門の内側に、志波恒一が立っている。
作務衣の袖が片方だけ濡れていた。泥ではない。けれど、濡れたところが色をわずかに深くして、手首から肘のあたりまで重そうに張りついている。石の上に落ちたのは、さっきまで肩へかけていた手ぬぐいらしかった。
「あら」
美琴はその一声だけ置いて、豆腐の皿を流しの横へ寄せた。
長く聞くより、先に動いたほうが早い形だった。
「どうしました」
「水、かかったな」
恒一は軽く言う。
「見れば分かるやろ」
「分かるので聞いてませんよね、それ」
言いながら山門まで行くと、濡れた作務衣は思っていたより冷たそうだった。袖口から胸のあたりまで、布がぺたりと落ちている。乾くまで待つには、今日は少し風が弱い。
「替え、あります?」
「あるやろ」
「どこに置いてたか、覚えてます?」
恒一はそこでひと息黙った。
悪びれない顔のまま黙るから、分かりやすい。
「……茶の間の箪笥の上か」
「たぶんそのへんですね」
「そのへんでええやろ」
「門ではだめです」
美琴はそう言って、濡れた袖へ指をそっとあてた。ひやりとしている。水だけの冷たさではなく、着たまま外に立っていたぶんの冷えも混ざっていた。
「先に脱いでください。風、入ります」
「ここでか」
「門で濡らしたんでしょう」
明るく返しながらも、美琴はもう勝手口のほうへ足を向けている。替えを探しに行く前に、先に受け皿を用意する動きだった。
茶の間の箪笥の上には、たしかに作務衣が一組あった。
きちんと畳まれているが、前にいつ出したかは少し曖昧な顔をしている。白すぎず、古すぎず、けれど「今すぐ着る用」の置き方でもない。美琴はそれを持ち上げ、布の厚みを手のひらで見た。乾いている。かすかに陽の匂いが残っている。
その時、文江が縁側から入ってきた。
「濡れたの」
事情だけ拾う声だった。
「門でです」
美琴が答える。
「替え、茶の間にありました」
「そう」
文江はそこで終わらせず、畳まれた作務衣を一度だけ見た。
見て、それから山門のほうへ目をやる。濡れたのが外で起きて、替えは茶の間にある。その距離だけを見ている顔だった。
「遠いねえ」
ぽつりとそう言った。
美琴は思わず笑った。
「そうなんですよ」
台所から乾いた盆を一枚持ってくる。濡れた作務衣をそのまま畳へ入れたくないからだ。山門へ戻ると、恒一は濡れた袖をつまんで待っていた。
「遅いな」
「替えが茶の間なんですから、早くはないですよ」
「そこにあるからええやろ」
「門ではよくないです」
盆を石の脇へ置く。恒一が作務衣を脱ぐと、濡れた布がまた重く鳴った。
ぺたり、と盆の上へ乗る。
乾いた盆の木へ、水の冷たさだけが少しずつ移る。
代わりの作務衣を渡すと、恒一は何でもない顔で袖を通した。乾いた布は軽くて、さっきの張りつき方が嘘みたいに動く。見た目にも、それだけでずいぶん普通へ戻る。
「ほらな」
恒一が言う。
「替えあったやろ」
「ありましたね」
美琴はうなずいた。
「でも、門にはなかったです」
そこへ文江がゆっくり来た。濡れた作務衣の乗った盆と、乾いた替えを着た恒一と、山門の石のあたりをひと目で見て言う。
「門で替えるなら、門にあるほうが早い」
短い。
けれど、そこで話の形が決まった。
恒一はかすかに笑う。
「それやな」
「増やすんですか」
美琴が聞くと、文江は首を振った。
「増やさないよ」
その否定も短い。
「動かす」
茶の間の替えを、門の近くへ。
それだけのことだった。
台所では、濡れた作務衣が先に洗いへ回された。
桶に水が落ちて、布が沈む。
ざぶ、と音がして、袖の冷たさだけが少しずつ抜けていく。
その横で、美琴は新しく着たほうではない、古い替えの一組を引っぱり出した。白栄舎から返ってきた時ほどきれいではないが、門のところへ置くぶんにはちょうどいいくらいの顔をしている。
「これなら、門前用でいいですね」
そう言うと、恒一が台所の戸口からのぞく。
「門前用って何や」
「門で濡らす人の用です」
「限定やな」
「限定ですね」
返しが速い。
文江は流しの横の空いたところへ目をやった。
桶の外。
濡れ布巾の手前。
そのあたりに、小さい籠をひとつ置けばちょうどよさそうだった。
「籠でいいよ」
「門のところにですか」
「うん」
美琴はすぐに納戸の下から浅い竹籠を出した。前に野菜を一時的に入れていたもので、底がしっかりしている。そこへ畳んだ作務衣を一組、上に手ぬぐいを一枚。重ねると、意外なくらい収まりがいい。
「……ほんとに門の顔しますね」
美琴が言う。
夕方前、竹籠は山門と車庫のあいだ、風が少し抜けるが雨は直接当たらないところへ置かれた。石の脇、手ぬぐいをよく掛ける釘の下。前から何か置いてあってもおかしくない場所だった。
美琴が籠の向きを直す。
籠の底が石へ当たって、こと、と鳴る。
その上の作務衣の袖が、軽く重なり直る。乾いた布は、もうさっきの濡れた重さを思わせない。
文江がその横を通って、一度だけ見た。
「そこでいいよ」
いつもの短さだった。
夜、ひなが勝手口を閉める時、ふと山門のほうが目に入った。
暗い中でも、竹籠の上の白い手ぬぐいだけがかすかに見える。
ひなはそのまま戸を閉めた。
門のところの置き場が、もう今日だけのものには見えなかった。
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