26話 寺の犬の張り紙
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あらすじ
風待町シリーズ ~寺~ - 26話 寺の犬の張り紙
本文
山門のところで、紙の端が風にあおられてぱた、と鳴った。
白い紙だった。
書きたてではないが、まだ折り目の固い紙で、端のほうだけが門柱へふれていた。志波智明はその音で顔を上げる。午前の寺はまだ人の出入りが少なく、そういう紙の音だけが妙によく通る。
山門の脇に、犬が座っていた。
いや、ただ座っているだけではない。門柱と木箱のあいだ、少しだけ影になるところにすわりこんで、ちょうど外から見える顔をしていた。知らない人が通れば、まず犬を見る。次に、誰かのものではなさそうなその犬を、どうしていいか少し迷う。ここ数日、そういうことが増えた。
「張り紙いるな」
智明が言うと、縁側から文江が顔を上げた。
「いるねえ」
短い返事だった。
それで話は半分済んだ顔になる。犬は門の脇から動かない。外を見て、たまにこちらを見て、また外を見る。誰かを待っているわけでもないのに、門にいるだけで、寺の側に何かが足されたみたいに見える。
台所では、美琴がちょうど小さい器を拭いていた。物置から出てきた白い器のひとつで、使うたびに少しずつ置き場をもらっている。智明は茶の間の棚から半端な紙を引っぱり出し、膝の上で広げた。
「何て書くんです?」
ひなが庭の端から寄ってくる。竹ぼうきを脇へ立てて、紙をのぞきこんだ。
「『犬がいます』」
「そのままですね」
「まず分かるのが先だろ」
智明は筆ペンを持った。いつもの黒いやつだ。紙へ触れる前に少しだけ止まる。何を書くかではなく、どこまで書くかを見ている顔だった。
「噛みません、とか?」
ひなが言う。
「分からないだろ」
「確かに」
「保護してます、とか?」
美琴が台所から言う。
「それもまだ早い」
「じゃあ、寺の犬?」
ひなが言うと、智明はそこでようやく紙に筆を入れた。
寺の犬です
墨が紙へ少しにじんで、それでも字ははっきりしている。大きすぎず、小さすぎず。門のところへ掛けたら、近づかなくても読めるくらいの大きさだった。
「……そのままだな」
ひながまた言う。
「そのままがいい」
智明はそう返して、紙を持ち上げた。乾ききる前の墨の匂いが少しする。茶の間の棚の上に置いて、風が通るのを待つ。犬はまだ山門にいる。
湊がその犬の横へしゃがみこんでいた。
「てらの」
「うん」
「いぬ」
「そうだ」
「ぽん?」
湊が聞く。
智明は少しだけ息を吐いた。
「家の中では、な」
その返しで十分だった。湊はうなずき、犬の背をひと撫でする。犬は振り向きもせず、門の外を見ている。
紙が乾くあいだに、張り紙をどこへ出すかの話になる。山門のど真ん中では邪魔だし、木箱の上では風で飛びやすい。文江が洗った布巾を畳みながら、門柱の内側を一度だけ見て言った。
「そこ」
指したのは、木箱の少し上だった。前に何かを掛けていたような、小さい釘がひとつ残っている。
「見えるねえ」
そのひと言で、もう位置はほとんど決まった。
智明は乾いた紙の上へ穴をひとつ開け、紐を通した。細い麻紐で十分だった。美琴が椅子を持ってきて、ひなが下を押さえる。湊は犬の首へ腕を回して、今は動くなみたいな顔をしている。犬は素直に座ったままだ。
紙を釘へ掛ける。
ぱた。
風で一度だけ揺れて、それから門柱へ落ち着く。
寺の犬です
七つの字が、門の脇の犬の少し上へきれいに収まった。外から来る人は、まず犬を見て、その次に紙を見るだろう。順番としてはそれでよかった。
「近いな」
ひなが言う。
「犬にですか、字にですか」
「両方」
たしかに近かった。門柱、紙、犬の耳。少し離れて木箱。どれも前からそこにあったようで、今日から急に役目を持ったようでもある。
文江はそこで終わりみたいな顔をして、また布巾へ戻った。美琴も台所へ引く。張り紙は掛かった。もう家の中としては、だいたい済んだ話らしい。
けれど、効いたのはそのあとだった。
昼過ぎ、通りがかりの人が門のところで一度だけ止まった。犬を見て、紙を見て、それから「ああ」と小さく言って通り過ぎる。その「ああ」で、智明は少しだけ肩を抜いた。説明しなくても、先に一枚あるだけで違う。
湊はその様子を見ていた。
「見た」
「見たな」
「読んだ」
「読んだな」
「ぽん」
「外では犬だ」
すぐ返すと、湊は少しだけ考えてから、門の外を見る人のほうをもう一度見た。
「てらのいぬ」
「そうだ」
それでいいらしかった。家の中の名前と、門の脇の書き方が、今は少し違う。その違いを全部きれいにそろえるほどではないけれど、紙一枚あれば今日のところは回る。
夕方、風が少しだけ出た。
紙の端が門柱へ軽く当たり、ぱた、と小さく鳴る。
その下で、犬は前足をそろえたまま座っていた。
紙も犬も、もう門の並びに入っていた。
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