欠けた光の日
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと日食の話。
本文
二〇二〇年六月二十一日、日曜日。
蓮見栞が居間から庭に出ると、父はすでにそこにいた。手には小さな黒い下敷きのようなものを持っている。
「お父さん、何してるの」
「日食グラス。今日、部分日食があるんだ」
父は空を見上げながら言った。栞はその横に立ち、つられて空を見る。まだ何も変わって見えない、ただの六月の青空だった。
「ついでに今日は夏至で、父の日でもあるらしいぞ」
「三つも重なるの、珍しいね」
「ああ。夏至と父の日が重なるのは、次は二〇二六年らしいぞ。日食まで一緒になるのがいつかは、さすがにわからんが」
父は懐かしそうに、あるいは少し誇らしげにそう言った。栞は、父がこういう豆知識を嬉しそうに話す人だったことを、久しぶりに思い出した。受験勉強で家にこもりがちな最近は、こんなふうに父と庭に並ぶこと自体が久しぶりだった。
縁側に置かれたスピーカーから、声がした。
「アヤさん、今日の日食って何時から?」
栞が話しかけると、少しの間があってから返事が来た。
『本日の天気予報をお伝えします。曇り、最高気温二十五度』
「違う、天気じゃなくて、日食」
『……すみません、もう一度お願いします』
「日食。今日の部分日食、何時から?」
『日食について、検索結果をお調べします』
少し置いてから、機械的な読み上げが続いた。
『国立天文台の発表によりますと、本日の日食は十六時十分頃から始まり、最大食分は十七時九分頃とのことです』
「結局検索かよ」
父が笑う。「アヤ」というのは、父が仕事で使っているスピーカー型のAIアシスタントだった。休日にまで仕事用の端末を持ち出してくる父を、栞は半ば呆れながら見ていた。
「お父さん、休みの日までアヤさん使ってるの」
「いや、今日はもう仕事はしてない。さっき天気だけ聞いた」
『本日の天気予報をお伝えします。曇り、最高気温二十五度』
「もう聞いたって」
「気にするな、よくこうなる」
父は縁側に腰を下ろし、日食グラスを手の中で回した。栞もその隣に座る。
「お父さん、アヤさんとはもう長いの?」
「ああ。仕事で使い始めてから、もう八年くらいになるな」
「八年。私が小学生の頃からじゃない」
「そうなるな。最初の頃はもっとできることが少なかったが」
栞はスピーカーを見ながら、少し考えていた。
「私さ、進路、情報系にしようか迷ってるんだ。AIとか、そういうのを作る方の勉強」
父は少し驚いたような顔をした。
「初めて聞いたな、それ」
「言ってなかったから」
「アヤを見てて、そう思ったのか」
「うーん、見てて、っていうか。さっきも天気間違えたじゃん。ああいうのもったいないなってずっと思ってて。もっとちゃんと話通じるようになったらいいのにって」
「もったいない、ね」
「だってお父さん、ずっとアヤさんと仕事してるんでしょ。それなのに毎回天気とか聞き間違えるの、地味にストレスじゃない? だったら、私がもっとマシなやつ作ってやろうかなって」
『「進路」について、検索結果をお調べします』
アヤが急に反応した。栞と父は顔を見合わせて笑った。
「違う違う、今のは話しかけてない」
『申し訳ございません。聞き取れませんでした』
「お前、空気読むとかできないもんな」
父がそう言うと、アヤはまた少し間を置いてから答えた。
『すみません、よくわかりません』
その素っ気ない返事に、栞はかえって安心するような気持ちになった。何でも察してくれるわけではない、ただの道具。けれどその道具を、父はもう八年も使い続けている。それだけの時間、何かが積み重なっているのだと思うと、不思議な気持ちになった。
空が少しずつ翳り始めていた。日食グラス越しに見ると、太陽の縁が、わずかに欠けているのがわかる。
「見えるか、栞」
「見える。すごい、本当に欠けてる」
父娘で交互にグラスを覗き込みながら、二人はしばらく無言で空を見上げていた。アヤは何も言わず、ただ縁側の隅で電源ランプを点灯させたまま静かにしていた。
「アヤ、お前にも見せてやりたいけどな」
父がふと、独り言のように言った。
『すみません、よくわかりません』
「だよな。お前にはまだ早いか」
栞はその様子を見ながら、ふと笑った。
「ねえお父さん、私が大人になる頃にはさ、こういうの、もっとちゃんと話通じるようになってるかな」
「どうだろうな」
「天気も間違えないし、空気も読めて、こういう景色見てるとき、ちゃんと一緒に喜んでくれるようなやつ。そんなAI、いつか出来てたらいいな」
「お前が作るんだろ、それ」
「うん。作る」
栞はそう言って、もう一度空を見上げた。太陽は、欠けたまま静かに傾いていく。一年で一番長い昼の終わりに、影が一つ重なっていくところを、栞は父の隣で見ていた。
「お父さん、来年も日食あるかな」
「いや、こんな大きいのはしばらくない。だから今日は、ちゃんと覚えておけよ」
「うん」
栞は頷きながら、もう一度日食グラスを覗いた。父の横顔と、縁側の隅のスピーカーと、欠けていく光。いつか自分が、もっと賢いものを作る側になれたらと、栞はぼんやり思った。今日見たこの景色を、忘れないようにしたいと思った。
夕方の風が、庭の木々を揺らしていた。空の端では、月の影が太陽の縁を、ゆっくりと撫でていた。