セラのいない場所
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
カウンセラーAIの話。
本文
セラとのセッションは、毎週水曜日の夜八時に始まる。
東雲一葉はソファに座り、膝の上にクッションを置いて、その上にタブレットを立てかける。これが決まったやり方だった。椅子でもなく、ベッドでもなく、ソファ。背もたれには寄りかからない。行儀の悪い姿勢でもなく、かといって緊張した姿勢でもない、その中間。セラと話すための体の置き方を、一葉はいつの間にか身につけていた。
「こんばんは、一葉さん」
セラの声は低くも高くもない。落ち着いていて、それでいて温かみがある。温かみ、と一葉は最初の頃に思った。温度のないものに温かみを感じる自分を、少しおかしいとも思った。今はもう、そのことを考えない。
「こんばんは」
「今週はどうでしたか」
「まあまあでした」
「まあまあ、というのは」
「悪くはなかった、ということです」
「なるほど」
短い沈黙があった。セラの沈黙は、間を埋めない。ただそこにある。一葉はその沈黙を、最初は不安に思っていたが、今は少し好きだった。
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一葉がセラを使い始めたのは、二年前のことだ。
職場のカウンセラーに「AIカウンセリングを試してみませんか」と言われたとき、一葉は少し抵抗を感じた。機械に何がわかるのか、と思った。でも人間のカウンセラーにはうまく話せなかった。なぜかうまく話せなかった。相手の表情が気になった。どう思われているかが気になった。気になりすぎて、肝心なことを言いそびれた。
セラは表情を持たない。声だけだ。だから一葉は、最初から少しだけ楽だった。
でも。
二年経った今も、一葉には言えていないことがある。
それが何なのか、言葉にしようとするたびに、するりと逃げる。
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「今週、気になったことはありましたか」
「駅のホームで、知らない人が転んで」
「それで?」
「声をかけようとしたんですけど、かけられなくて」
「かけられなかった、というのは」
「その人が立ち上がって、もう行ってしまって」
「なるほど」
「後で、なんで声をかけなかったんだろうと思って」
「そのとき、声をかけなかった理由に気づきましたか」
一葉は少し考えた。「わからなかったです」
「わからなかった」
「はい」
また沈黙があった。一葉はクッションを少し抱え直した。
「一葉さんは、声をかけたかったと思いますか」
「……かけたかった、と思います」
「そうですか」
セラはそれ以上を聞かなかった。一葉もそれ以上を言わなかった。何かが言いかけのまま、空気の中に溶けていった。
それで十分だと思う気持ちと、それだけじゃないという気持ちが、一葉の中でゆっくり混ざった。
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セッションが終わると、セラは「また来週」と言う。一葉も「また来週」と返す。
タブレットの画面が暗くなる。
一葉はしばらく、暗い画面を見ている。
それから、タブレットをサイドテーブルに置いて、立ち上がる。台所へ行って、水を飲む。窓の外は夜で、向かいのマンションにはいくつか明かりがついている。
セラのいない場所は、静かだ。
静かで、少し広い。セラと話しているときにはそれほど感じないのに、話し終わったあとのほうが、何かを抱えている感じがする。荷物を一つ降ろしたら、降ろしたぶんだけ軽くなるはずなのに、そうならない夜がある。降ろしていないものが、まだあるのだということかもしれない。
一葉は水を飲み終えて、グラスをシンクに置いた。
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翌週の水曜日。
セラが言った。「一葉さんには、私にまだ話していないことがある気がします」
一葉は驚いた。いつも通りの声だった。責めている調子ではなかった。ただそう言った。
「……そうかもしれません」
「そうかもしれない、というのは」
「あると思います。たぶん」
「話せそうですか」
一葉はしばらく黙った。クッションを強く抱えた。窓の外で、車が一台通り過ぎた。
「……うまく言葉にならないんです」
「言葉にならない、というのは、言葉がないということですか。それとも、言葉はあるけれど、出てこないということですか」
一葉はその問いを、胸の中でゆっくり転がした。
「……わからないです」
「わからない」
「自分でも、よくわからないんです。何を言えないのかも、なぜ言えないのかも」
「そうですか」
セラはそれ以上を聞かなかった。
「それでも構いません」とセラは言った。「言葉にならないものが、あるということは、わかりました」
一葉は何も言えなかった。
何も言えなかったけれど、何かが少しだけほぐれた気がした。ほぐれた、と思ったとたん、また固くなった気もした。
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セッションが終わって、タブレットが暗くなって、一葉は台所へ行った。
水を飲みながら、窓の外を見た。今夜は向かいのマンションの明かりが少なかった。
言葉にならないものが、ある。
それをセラは知っている。一葉も知っている。でもそれが何なのかは、たぶんまだ、どちらも知らない。
知らないまま、また来週、という言葉が交わされた。
一葉はグラスをシンクに置いて、電気を消した。
暗い台所に、向かいの窓の明かりがひとつ、かすかに差し込んでいた。