曇り取りの鏡磨き
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
それは、誰かの願いが灯した小さな奇跡。ショートショート
本文
曇り取りの鏡磨き
町から町へと渡り歩く一人の鏡磨きがいた。彼が磨くのは、ただのガラスではない。人の心に長年掛かった曇りを映し出し、それを丁寧に拭い去る、特別な鏡だった。
荷車には大小さまざまな鏡が積まれている。曇った鏡は、持ち主の心そのままに、いつも歪んだ像を映していた。誰がその鏡を必要としているか、鏡磨き自身にもわからない。ただ、曇りが深すぎて自分の顔さえ見えなくなった者の前に、決まって荷車は現れるのだった。
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その日の夕暮れ、古い時計店の奥で、一人の職人が手を止めていた。長年連れ添った時計の修理を、この頃どうしてもうまくできない。老いた指先の震えを、彼はただ黙って見つめていた。
「もう、腕が落ちたのかもしれない」
呟いた声に応えるように、店先に鏡磨きが荷車を停めた。手には、少し曇った手鏡を一枚持っている。
「これを、覗いてみてください」
差し出された鏡は、はじめ職人自身の疲れた顔をぼんやりと映すだけだった。だが鏡磨きが布で表面を一撫ですると、曇りの奥から、別の像が浮かび上がってくる。
若い頃の職人が、同じ台の前で、夢中になって歯車と向き合っている姿だった。まだ何も恐れていなかった、あの日の手つき。
「腕は、落ちてなどいませんよ。少し、恐れが曇りになっていただけです」
職人はしばらく鏡の中の自分を見つめ、それからそっと自分の両手に視線を落とした。震えていた指先が、いつの間にか凪いでいる。
「そうか……下手になったんじゃない。ただ、失敗が怖くなっていただけか」
翌朝、時計店の窓には久しぶりに灯りが点り、小さな歯車の音が規則正しく鳴り始めた。
鏡磨きは店先で、拭き取った曇りをそっと小瓶に閉じ込める。集めるのは、老いを言い訳にしていた小さな怯え――磨けば、いつか誰かの勇気の材料になる。
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数日後、隣町の広場で、一人の若い母親がベビーカーを押しながら、ぼんやりと立ち尽くしていた。鏡張りのショーウィンドウに映る自分の姿から、思わず目を逸らしてしまう。
「いつからこんな顔になったんだろう」
鏡磨きは荷車から、少し大きめの姿見を運んでくる。
「よろしければ、こちらを」
母親がおそるおそる鏡の前に立つと、そこに映るのは、疲れきった今の自分の顔だった。だが鏡磨きが表面をゆっくりと磨いていくと、曇りの向こうから、別の光景が滲み出してくる。
夜中に何度も起きてあやしながら、それでも我が子の寝顔に頬を緩めている、つい昨夜の自分の姿だった。
「あなたが疲れているのは、それだけ愛を注いでいる証です。曇っていたのは、顔じゃなくて、あなた自身の見方の方だったのかもしれません」
母親は鏡の中の自分をじっと見つめ、それから微笑んだ。疲れは消えていない。けれど、その疲れの意味が、少しだけ変わって見えた。
「そっか……くたびれた顔なんじゃなくて、頑張ってる顔だったのか」
母親はベビーカーを押しながら、来た時よりも軽い足取りで、家路についていった。
鏡磨きはショーウィンドウの前に残った曇りの欠片を、そっと布ですくい取る。自己嫌悪という名の、細かな粉塵。これもまた、いつか誰かの鏡を磨く材料になるだろう。
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夕闇が町を包む頃、鏡磨きは荷車の御者台に腰を下ろした。棚には今日集めた曇りの欠片が並んでいる。老いへの怯え、疲れの誤解――形はどれも違うが、そのどれもが、磨けば誰かの顔を映す助けになるものだった。
「鏡は、映すためのものじゃない。思い出させるためのものさ」
そう呟いて、鏡磨きは手綱を引いた。車輪が石畳を刻む音は、まるで夜の静寂を縫うような旋律となって町を包み込む。荷車は薄霧のとばりの向こうへ、蜃気楼のように溶けて消えた。彼が去ったその先で、また明日も誰かが、失いかけた自分を鏡の中に探していることだろう。
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