昔々、通勤の話
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
それは、彼方から届いた、ちょっと不思議な物語。ショートショート
本文
昔々、あるところに、何十年も変わらない朝の儀式がありました。
おじいさんは毎朝、決まった時間に目を覚まし、身支度を整えて家を出ます。おばあさんは玄関先で、いつも同じように「気をつけて」と見送るのが日課でした。何十年も変わらない、二人だけの小さな儀式です。
駅までの道のりは、いつも同じ景色です。八百屋の店先で会釈を交わし、猫が丸まって寝ている塀の前を通り、踏切の遮断機が下りる音を聞きながら駅に着きます。ホームにはすでに大勢の人が並んでいて、電車が滑り込んでくると、おじいさんは体を斜めにして、その隙間へとすべり込みました。
次の駅でも、また次の駅でも、人はどんどん増えていきます。おじいさんは吊り革にすら手が届かず、押し寄せる人の波に揺られながら、目的地までの長い時間をじっとやり過ごすのでした。
「毎日、こんなに窮屈な思いをして、会社まで行くのじゃよ」
その夜、夕飯の席でおじいさんがふと呟くと、開け放たれた窓の外、庭先からふらりと影が落ちました。ちょうど通りがかった旅人が、その言葉に興味を引かれたのか、足を止めていたのです。遠くから来たという彼は、この町のことや、おじいさんたちの暮らしを不思議そうに眺めていました。
「体を運ぶのですか? 考えるだけで着くのに」
「こうして毎日、体ごと運ぶのがこの町の当たり前なんじゃよ」
「しかも、みんなで同じ箱に押し込まれて? そんなの嘘でしょう。僕なんて、誰かとぶつかることすらないのに」
旅人は本気で驚いた様子で、何度も首をかしげました。
「押し合いへし合いして、それでも毎朝ちゃんと同じ時間に出かけるなんて、僕には想像もつきません」
おじいさんは湯呑みを傾けながら、小さく笑いました。
「大変は大変じゃよ。でものう、大変なことにも、それなりの意味があったりするもんじゃ」
旅人はぴんとこない様子でしたが、それ以上は聞かず、頭の中で目的地を思い描くと、ふわりと姿を消してしまいました。
残されたおじいさんは、少し寂しそうに、それからどこか楽しそうに笑います。
「旅人は便利でいいのう」
おばあさんが隣で、お茶を注ぎ足しながらそっと言いました。
「でも、あんた。毎朝あの窮屈な電車で会って、顔なじみになった人と、駅前で会釈するようになったって言っておったじゃないか」
おじいさんは、はっとした顔をしました。
「そういえば……あの、いつも同じ車両に乗る、帽子の人じゃな。あの人とは、もう五年の付き合いになるのう」
「名前も知らないのに、五年も、じゃろう」
「そうじゃなぁ。名前も知らんのに、なんとなく、毎朝会うと安心するんじゃ。今日も無事に出会えた、というだけでな」
おばあさんはくすりと笑いました。
「窮屈な箱の中にも、ちゃんと居場所ができるものなんだねぇ」
おじいさんはお茶を一口飲み、しばらく黙って窓の外を眺めていました。ただの苦行だと思っていた毎朝に、いつの間にか小さな「繋がり」が生まれていたことに、今さらながら気づいたのです。
翌朝、おじいさんはいつもと同じ時間に家を出て、同じ駅へ向かいます。ホームで見慣れた帽子の背中を見つけると、どちらからともなく、小さく会釈を交わすのでした。
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