第9話 講義記録と現場記録
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
昼は魔術師ギルドの魔導基盤保守班で働き,夜は王立魔導大学院の夜間課程に通う若手保守技師レクト・ノーウェル. 彼はギルドの廃棄倉庫で,旧式の喋る魔導書アルカを拾う. アルカは古文書や事故記録の照合に異常な強さを持つが,現場感がない. レクトには現場で拾う違和感があるが,過去記録への到達手段が足りない. 二人は互いの欠けを補い,生活記録,現場記録,雑談,失敗記録を積み上げながら,魔法世界の未解明問題に名前をつけていく.
本文
アルカの清書は,美しすぎた.
翌朝,俺はギルドの作業机で記録板を見下ろし,何とも言えない気分になっていた.北棟事故と東三区灯火柱を比べる表は,列も揃い,語も統一され,欠けた箇所には「未観測」と丁寧に入っている.
完璧に見える.
だから,まずい.
「アルカ」
《はい》
「この表,俺が現場で迷ったところが消えてる」
《迷いは判断欄に整理しました》
「違う.迷っている最中の順番が消えてる」
《順番は時系列欄にあります》
「時系列じゃなくて,俺が何を見て,何を後回しにして,どこで怖くなったか」
言いながら,自分でも曖昧だと思った.だが,現場の判断は整った表のようには進まない.焦げた匂い,誰かの足音,班長の怒鳴り声,警告符を叩く手の震え.そういうものが,判断を早めたり鈍らせたりする.
《感情や身体状態を含めると,記録が不均一になります》
「不均一だったんだよ」
アルカは黙った.
ギルドの午前は忙しかった.東三区の灯火柱は防湿符で落ち着いたが,保冷箱の氷符が早く切れる件はまだ残っている.魚屋のベンは腕を組み,俺を見るなり言った.
「手順通りに見たって言われても困るんだよ.魚が傷む」
「今日は箱の中だけじゃなく,周辺の魔道具使用も見ます」
「周辺?」
「市場全体で朝に魔力を食い合ってるかもしれません」
ベンは難しい顔をした.
「よく分からんが,魚が持つなら頼む」
これも現場の言葉だ.理論の美しさではなく,魚が持つかどうか.俺は保冷箱の温度符を確認し,隣のパン屋の灯火柱,向かいの香辛料店の風除け符,井戸の揚水符まで順に見た.
どれも単独では正常.
だが,朝の開店前だけ同時に起動する.
記録板には,数値だけでなく,人の動きも書いた.ベンが氷を足す時刻,パン屋が炉を入れる時刻,門番が警鐘符を試す時刻.生活の流れが,魔道具の流れと重なっている.
《この情報は形式が不揃いです》
「不揃いなまま置いておけ」
《整理しないのですか》
「あとでする.今は削るな」
昼過ぎ,赤葡萄亭へ寄ると,ロッサが俺の顔を見るなり水を出した.
「あんた,今日も記録板を食べそうな顔だね」
「食べません」
《紙質によります》
「食べるな」
店内では冒険者たちが,昨夜の古井戸の話をしていた.東の古井戸近くで方位針がずれる.荷車の護符が勝手に鳴る.犬が吠える.どれもばらばらで,典拠も弱い.
だが,俺はもう「雑談」として捨てられなかった.
「ロッサさん,あの人たち,いつ頃の話をしてます?」
「夜明け前だね.東門の外へ出る前に寄った連中だよ」
「夜明け前……」
東三区の朝の乱れと時間が近い.距離は少しあるが,地脈の枝がつながっていてもおかしくない.
《記録しますか》
「する.ただし未確認」
《未確認生活記録として追加します》
「昨日より呼び方が丁寧になったな」
《ロッサからの評価修正が影響しています》
ロッサが笑った.
「帳面も叱れば育つんだね」
《叱責による記録馴化が進行しています》
「難しく言うんじゃないよ」
夜,大学院の閲覧室で,俺はアルカの清書に赤を入れた.整いすぎた言葉を戻す作業だ.
「『周辺環境の影響』じゃなくて,『魚屋が氷を足す時刻とパン屋が炉を入れる時刻が重なる』」
《冗長です》
「冗長でいい」
「『観測者の疲労』じゃなくて,『前夜三時間睡眠で,北棟事故後の焦げ臭さに過敏』」
《それは主観です》
「主観として記録する」
ミナの言葉を借りた.
アルカはしばらく黙ったあと,文字を出した.
《記録形式を二層に分けます.第一層,整形記録.第二層,現場原記録》
「原記録?」
《レクトが現場で見聞きし,迷い,判断した順に近い記録です.不揃いを保持します》
「それだ」
俺は思わず声を上げた.閲覧室の何人かがこちらを見たので,頭を下げる.
ユリウスが隣の机から覗き込んだ.
「何を騒いでいる」
「記録を二層に分ける.整えた記録と,現場の原記録」
ユリウスは少し考えた.
「悪くない.ただし,原記録を神聖視するな.雑なものは雑だ」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「そこが弱い」
《指摘は妥当です》
「今日は二対一か」
その夜,セリス教授に二層記録を見せると,教授は珍しく長く黙った.
「現場原記録,ですか」
「名前は仮です」
「仮でいいです.これは残しなさい」
俺は息を吐いた.
「整えた記録は人に伝えるために必要です.原記録は,自分の見落としを後で掘り返すために必要です」
教授は記録板を返した.
「次は,この二つをどう接続したかも記録しなさい」
宿題が増えた.
だが,不思議と嫌ではなかった.
帰り際,アルカが静かに言った.
《レクト,現場原記録の保持により,私の整理精度は一時的に低下します》
「いいんじゃないか」
《よいのですか》
「きれいに間違うより,不格好に迷ったほうがましな時もある」
アルカは少し間を置いた.
《記録しました》
その声は,いつもより少しだけ柔らかかった.
俺はその夜,アルカに現場原記録を一つ読み上げた.
「東三区灯火柱,根元が魚臭い.市場の水が流れ込む.パン屋の炉入れと魚屋の氷符交換が近い.俺は眠い.腹も減っている」
《最後の二項目は必要ですか》
「教授に言われた.俺も観測条件だ」
《承知しました.ただし,空腹による苛立ちが文面に出ています》
「そこまで分かるのか」
《文末が荒いです》
俺は記録板を見直した.確かに字が少し尖っている.現場原記録は,街だけでなく俺自身も写してしまうらしい.
翌日,その尖った字をセリス教授に見せると,教授は消せとは言わなかった.
「残しなさい」
「字が荒いんですが」
「荒い理由があるなら,それも記録です.ただし,人に見せる整理記録では清書すること」
俺はうなずいた.現場原記録と整理記録.その二層の意味が,少しずつ体で分かってきた.現場原記録は,俺がその場でどう揺れたかまで残す.整理記録は,人に伝えるために余分な揺れを分ける.どちらか片方では足りない.
《私の清書は整理記録に属します》
「そうだな.でも,原記録を消すな」
《消しません.ただし,レクトの字は清書が必要です》
「そこは何度も言うな」
ユリウスが隣で記録板を見て,短く言った.
「必要だ」
味方が増えたのか減ったのか,分からなかった.
ただ,ユリウスが必要だと言った瞬間,俺一人の思いつきではなくなった.記録板の重さが少し変わる.責任が増えたとも言えるし,勝手に投げ捨てられなくなったとも言える.俺は余白に,第三者確認あり,と書いた.その字は少しだけ震えていた.
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