不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>つり革を握る右手の感覚が、数分前から完全に消えていた。</p><p>成瀬絢斗は、自身の指先が冷たいプラスチックの輪を掴んでいるという事実を、視覚によってのみ確認していた。網膜が捉えるのは、白く強張った関節と、爪の生え際にじっとりとにじむ脂汗。満員電車のすさまじい圧力の中で、彼の身体はたしかにそこに存在しているはずだったが、意識は肉体から切り離され、ただ脳内に鳴り響く「警報」の処理だけに全神経が動員されていた。</p><p>午前八時十五分。田園都市線の車内は、梅雨特有の湿気と、濡れた傘が放つナイロンの匂い、そして数百人の人間が吐き出す二酸化炭素で満ちていた。</p>
本文
つり革を握る右手の感覚が、数分前から完全に消えていた。
成瀬絢斗は、自身の指先が冷たいプラスチックの輪を掴んでいるという事実を、視覚によってのみ確認していた。網膜が捉えるのは、白く強張った関節と、爪の生え際にじっとりとにじむ脂汗。満員電車のすさまじい圧力の中で、彼の身体はたしかにそこに存在しているはずだったが、意識は肉体から切り離され、ただ脳内に鳴り響く「警報」の処理だけに全神経が動員されていた。
午前八時十五分。田園都市線の車内は、梅雨特有の湿気と、濡れた傘が放つナイロンの匂い、そして数百人の人間が吐き出す二酸化炭素で満ちていた。
絢斗にとって、この空間は単なる移動手段ではない。あらゆる場所に「地雷」が埋め込まれた、底なしの戦場だった。
ゴホン、と斜め後ろから、短く湿った音が聞こえた。
その瞬間、絢斗の背筋を冷たい電流が駆け抜けた。心臓がドクンと大きく跳ね、喉の奥が急速に収縮していく。
(今のは、何の音だ?)
振り返ってはいけない。そう自分に言い聞かせるが、脳内のセンサーはすでに最悪のシナリオを狂ったように弾き出し始めている。マスクの隙間から漏れた、あの男の飛沫。それは空間を漂い、絢斗が今まさに吸い込んだ空気に混ざり合ったのではないか。
男の咳は、単なる風邪ではないかもしれない。もっと致命的な、致死率の高い未知の感染症。あるいは、劇症型の結核。あるいは、数年前に世界を震撼させたウイルスの、さらに凶悪な変異株。
(もし、吸い込んでいたら?)
絢斗の頭頂部がカッと熱くなった。肺の奥が、じりじりと焼けるように痛む気がする。いや、実際に痛んでいる。呼吸が浅くなり、酸素が脳に行き渡らないような錯覚に襲われる。
(いや、大丈夫だ。僕は不織布マスクを二重にしている。密着性も確認した。大丈夫なはずだ)
必死に自分を宥めようとするが、強迫観念という名の怪物は、絢斗の微かな理性をあざ笑うように次のステップへと飛躍する。
(だが、もしあの男の飛沫が、僕のシャツの襟元に付着していたら? 自宅に帰ったとき、その襟に触れた手で、香織の触るドアノブに触れてしまったら? 僕を媒介にして、香織が感染したら? 彼女の免疫力では耐えられず、一週間後に呼吸不全で死んでしまうかもしれない。僕が、香織を殺すことになる――)
「違う、落ち着け」と心の中で叫びながら、絢斗は震える左手でポケットからスマートフォンを引っ張り出した。画面の明かりが、血の気の引いた彼の顔を青白く照らす。
親指が、狂ったような速度で検索窓に文字を打ち込んでいく。
『咳 飛沫 生存時間 衣類』『劇症型結核 初期症状 喉の違和感』『ウイルス 家庭内感染 致死率』
画面に表示される無数のテキストを、一言半句も漏らさぬよう貪り読む。ある医療系サイトには「通常の環境下であれば衣類に付着したウイルスの感染力は数時間で低下する」と書かれていた。一瞬だけ、胸の締め付けが緩む。しかし、そのすぐ下に書かれた「ただし、湿度や温度によっては数日間にわたり生存するケースもあり、一概には言えない」という一文が、絢斗を再び地獄の底へと突き落とす。
一概には、言えない。
この「不確実性」こそが、絢斗の脳にとっての最大の毒劇物だった。白か黒か、百分の一か零か。完璧な保証が得られない限り、彼の脳は「お前は人殺しになるかもしれない」というアラームを鳴らし続ける。
スマートフォンの画面をスクロールする指が止まらない。もう一つのサイト、もう一つのブログ。安心できる言葉を探してネットの海を彷徨う行為(強迫行為)は、一時的な精神安定剤にはなるが、すぐにその効果は切れ、より強い不安が襲ってくる。
その時、ガタガタと車体が大きく揺れた。ポイントを通過したのだ。
乗客たちの身体が一斉に斜め前方に傾く。絢斗もバランスを崩し、つり革を掴む右手に強い負荷がかかった。その拍子に、彼の左肩が、すぐ隣に立っていた小柄な女性乗客の背中に、ドンと強く当たった。
「あ――」
小さな声が、絢斗の唇から漏れた。
女性は不快そうにほんの少しだけ身をよじり、すぐに正面を向き直した。何事もない、満員電車では日常茶飯事の、ごくありふれた接触。
しかし、絢斗の脳内では、まったく別の凄惨な光景が超高解像度の映像として再生されていた。
いまの衝撃。僕の肩の骨が、彼女の華奢な背骨を直撃したのではないか。その勢いで、彼女の肋骨が一本、内側に向かってポキリと折れた。折れた骨の鋭い破片は、彼女が息を吸い込んだ瞬間に肺を、あるいは心臓の壁を突き刺す。彼女は今、平静を装っているが、数分後には車内で吐血して倒れる。最悪の場合、内出血が止まらず、搬送先の病院で死亡する。
(僕が、突き飛ばした。僕の不注意のせいで、彼女の命を奪ってしまったかもしれない)
全身の毛穴から、どっと冷や汗が噴き出した。ネクタイが首を絞めるギロチンのように感じられる。
絢斗はスマートフォンの画面を消し、恐る恐る隣の女性の様子を観察し始めた。
彼女の呼吸は荒くなっていないか。顔色は悪くないか。苦しそうに胸を押さえる素振りはしていないか。彼女のコートの背中のあたりに、内出血による血のシミが滲み出てきてはいないか。
確認しなければならない。もし彼女が倒れたら、すぐに救急車を呼ばなければ。いや、その前に「すみません、僕が今、あなたを傷つけました」と謝罪し、警察に自首するべきではないか。
絢斗は女性の横顔を凝視した。じっと見つめられる視線に気づいたのか、女性が不審そうな、明らかな警戒の目を絢斗に向けた。
その冷たい視線に射抜かれた瞬間、絢斗の胸にドス黒い自己否定が沸き上がった。
(ほら見ろ。彼女は気づいている。僕が彼女に害をなそうとしたことに。僕は普通の人間のフリをしてこの電車に乗っているけれど、本質は油断すればすぐに人を壊してしまう、最低の存在(モンスター)なんだ。周りの人間は誰も気づいていない。僕がどれほど危険な生き物なのかを)
「渋谷、渋谷です」
駅の構内アナウンスがスピーカーから流れ、電車のドアが開いた。
乗客の波が一斉にホームへと吐き出される。絢斗は女性の様子を最後まで確認したかったが、人の流れに押され、彼女の姿を見失ってしまった。
(大丈夫だったのだろうか。彼女は本当に無事だったのだろうか。後でネットのニュースに『車内で女性が倒れ死亡、直前に接触した男が逃走』なんて記事が出たら、どうしよう)
ホームに降り立っても、地面が浮き沈みしているように感じられた。
絢斗は周囲の「ノイズ」に怯えながら、改札へと向かう階段を上った。すれ違う人々、改札機にタッチする人々の群れ。そのすべてが、絢斗にとっては「自分が傷つけてしまうかもしれない被害者候補」だった。
自分の持つビジネスバッグの角が、歩行者の目に当たったら。
自分の靴の先が、前を歩く老人の踵を引っ掛けて、階段から転落させたら。
彼はバッグを胸の前に固く抱え込み、歩幅を極端に小さくして、まるで薄氷の上を歩くように、細心の注意を払ってコンクリートの床を進んだ。
外に出ると、どんよりとした曇り空から、細かい雨が降り始めていた。傘を開く。その傘の骨の先端が、隣を歩くOLの頬を切り裂かないよう、絢斗は傘を不自然なほど高く掲げた。腕がすぐに痛くなったが、その痛みを無視した。痛みに耐えることだけが、彼が「人を傷つけない」ために支払うことのできる、唯一の代償だった。
オフィス街のビル群が見えてくる。絢斗が勤務する精密機器メーカーの自社ビルも、その中にあった。
彼は大きく深呼吸をしようとしたが、先ほどの電車の「咳」の記憶が蘇り、途中で息を止めた。大気中に漂う無数の菌やウイルス、そして自分の中に眠る、他人を破壊しかねない不吉な衝動。
それらをすべて内側に閉じ込めるように、絢斗は唇をきつく結び、張り付いたような、いつもの「無害な聖人の笑顔」を顔に貼り付けた。
これから、彼の「表の顔」としての社会生活が始まる。感情を麻痺させ、誰の理不尽にも怒らず、ただ完璧な歯車として機能するための時間が。
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