不確実な世界の歩き方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p>中年女性が衣服の袖を引っ張る無機質な摩擦音が、絢斗の脳髄を一定のテンポで刻み続けていた。二番目に診察室へ入っていったサラリーマンの男は、まだ出てこない。時計の針はさらに十五分を進めていた。</p><p>絢斗の膝の上には、手のひらで何度も強く擦り、どうにか平らに伸ばしたワークシートが置かれていた。どれほど平らにしようと試みても、一度深く刻まれたシワは、白い紙の上に無数の醜い血管のように残っている。それがまるで、自分の内面にある「東条先生への醜い嫉妬」を具現化しているようで、絢斗は激しい嫌悪感を覚えていた。</p><p>(僕は完璧でなければならない。あんなゴミクズみたいな患者たちと、同じ
本文
中年女性が衣服の袖を引っ張る無機質な摩擦音が、絢斗の脳髄を一定のテンポで刻み続けていた。二番目に診察室へ入っていったサラリーマンの男は、まだ出てこない。時計の針はさらに十五分を進めていた。
絢斗の膝の上には、手のひらで何度も強く擦り、どうにか平らに伸ばしたワークシートが置かれていた。どれほど平らにしようと試みても、一度深く刻まれたシワは、白い紙の上に無数の醜い血管のように残っている。それがまるで、自分の内面にある「東条先生への醜い嫉妬」を具現化しているようで、絢斗は激しい嫌悪感を覚えていた。
(僕は完璧でなければならない。あんなゴミクズみたいな患者たちと、同じ地平に立っていてはダメなんだ。先生が求めているのは、自分の不安をコントロールできる高潔な人形だ。泣き叫んだり、ブツブツ呟いたりする不良品じゃない)
絢斗は深呼吸をし、パーカーのフードの奥で、再び完璧な「無害な青年の仮面」を精巧に編み上げ直した。狂気的な独占欲と焦燥感で煮えくり返る内臓を、冷徹な理性の壁で強制的に覆い隠す。
カチャリ。
待望の音が、ついに防音ドアから響いた。
絢斗の視線が、獲物を狙う猛禽類のように鋭く跳ね上がる。
ドアが開き、あのサラリーマンの男が這い出てきた。男の顔は、入室前よりもさらに土気色に変色し、両目は生気を失って虚空を彷徨っていた。胸に抱えたビジネスバッグは、指の力で無残にへこんでいる。東条の容赦のない「現実の直視」の命令によって、彼の拠り所としていたすべての確認行為を剥ぎ取られたのだろう。男はまるで、魂を完全に抜き取られた肉の塊のように、力なく足を縋らせながら廊下を進んできた。
東条医師は、やはり部屋の境界線に立ち、去り行く男の背中に向けて、冷たく、そして極めて事務的な声を投げかけた。
「不安を消すために仕事のスケジュールを何度も見直すのは、明白な強迫行為です。今夜からは、手帳を開くことを一切禁止します。明日、その不安のせいで仕事に支障が出たとしても、それはあなたが引き受けるべき現実です。……次の方」
その声には、サラリーマンの人生への同情も、彼の受けるであろう社会的ダメージへの配慮も、一切含まれていない。ただ冷酷に、病気というバグを排除するためのプログラムだけが告げられていた。
その瞬間、絢斗の全身に、甘美な戦慄が走った。
(そうだ……これだ。この冷徹さ、この絶対的なロジック。先生はやっぱり、あの男のこともこれっぽっちも愛していない。ただの実験対象として、不良品を冷たく裁いているだけなんだ)
先ほどまで絢斗の胸を焼き焦くしていた激しい嫉妬は、東条の変わらない冷酷さを目の当たりにしたことで、瞬時に「歪んだ全能感」へと昇華された。東条が他の患者に冷たく当たれば当たるほど、絢斗の中では、自らの「完璧さ」が際立ち、東条との特別な絆が証明されるように感じられたのだ。
「成瀬絢斗さん、第一診察室へどうぞ」
スピーカーから、受付の静かな声が自らの名前を呼んだ。
その瞬間、絢斗の心臓が、歓喜の咆哮を上げるように激しく跳ねた。ついに、自分の番が来た。世界で唯一、自分の地獄を共有し、正しく支配してくれる神の元へ戻れるのだ。
絢斗は、膝の上のクシャクシャの、しかし命懸けで埋め尽くしたワークシートを両手で厳かに持ち上げた。そして立ち上がると、まだソファの端で「シュッ、シュッ」と袖を引っ張り続けている中年女性を、哀れみと冷酷さが入り混じった瞳で見下ろした。
(お先に、日常の向こう側へ行かせてもらうよ。君のような、いつまでも自分の殻から抜け出せない哀れな家畜は、そこで一生、終わりのない儀式に溺れていればいい)
他の患者に対する圧倒的な精神的優越感が、絢斗の全身を満たしていた。彼は背筋を真っ直ぐに伸ばし、非の打ち所のない、しかし瞳の奥に異常な熱を宿した足取りで、あの重い防音ドアへと歩みを進めた。
ドアの前に立つ。境界線の向こうには、チャコールグレーのスーツを纏った東条が、デスクの奥で待っている。
絢斗は、一度だけ深く息を吸い込むと、自らの手で防音ドアを静かに押し開けた。
室内の、過剰なまでに冷やされた乾いた空気が、絢斗の頬を優しく撫でる。ブラインドの閉じられた、二枚の高解像度モニターだけが冷たい光を放つ、あの白とグレーの聖域。
デスクの奥から、東条が眼鏡の奥のガラス玉のような瞳を、ゆっくりと絢斗へと向けた。
「どうぞ、座ってください」
その硬質で低い声を聞いた瞬間、待合室で絢斗の心を狂わせていたすべての嫉妬、すべての焦燥、すべてのノイズが、嘘のように完全に消失した。世界には今、東条先生と、自分しかいない。この二人きりの空間こそが、絢斗にとっての唯一の現実であり、生きる意味そのものだった。
絢斗は丸椅子に腰を下ろすと、恭しく、シワだらけのワークシートをデスクの上へと差し出した。
「東条先生……。二週間、夜の路地に五回、赴きました。先生の指示を、完璧に、一秒の狂いもなくやり遂げました。これが、僕の戦いの記録です」
絢斗の声は、極限の緊張と歓喜で微かに震えていた。しかしその瞳は、ついに最愛の、そして最も厳格な「理想の父親」の前に立ち、自らの完璧さを認められたがっている子供の、狂気的な純粋さでギラギラと輝いていた。
「先生を他の誰にも渡さない。僕は、先生にとっての、唯一の特別な子供になるんだ」
胸の奥で、その歪んだ誓いが完全に凝固する。東条が作り出した「甘美な檻」の最深部で、絢斗の魂は、現実の世界(香織たちのいる世界)への帰還路を完全に爆破し、この無機質な診察室と同化していくのだった。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。