うみの日の表紙画像

うみの日

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/19 📝 4,069文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

<p> 七月の第三月曜日。 </p><p> 町では海の日を祝っていた。 </p><p> 商店街には青い旗が並び、駅前の洋菓子店では「海の日限定・塩クラゲシュー」を売っていた。クラゲは入っていない。塩も通常商品より〇・二グラム多いだけだったが、青い紙を巻けば海の日になった。 </p>

本文

 七月の第三月曜日。

 町では海の日を祝っていた。

 商店街には青い旗が並び、駅前の洋菓子店では「海の日限定・塩クラゲシュー」を売っていた。クラゲは入っていない。塩も通常商品より〇・二グラム多いだけだったが、青い紙を巻けば海の日になった。

 テレビでは、水着姿のレポーターが予想より大きな波を受け、一瞬だけ嫌そうな顔をした。すぐ笑顔へ戻ったので、海の恵みとして放送された。

 佐藤家の洗面所からも、海が見えた。

 隣家の屋根と二本の電線、その上に斜めに立ったテレビアンテナ。三つの隙間に、細長い青が挟まっている。

 高校二年の直人が毎朝、歯を磨きながら見る、佐藤家に割り当てられたぶんの海だった。

 晴れた日には電線にカラスが止まる。

 カラスがいると、海は少し狭くなる。

 その朝、直人は海を見なかった。

 鏡へ顔を近づけ、鼻の脇にできた赤い腫れを見ていた。

 昨日より大きい。

 中央が白い。

 横から見るために顔を傾けると、鼻の穴から毛が一本出ていることにも気づいた。

 腫れ。

 鼻毛。

 海の日の朝から、処理するものが二つあった。

 直人は先に鼻毛をつまんだ。

 引いた。

 痛かった。

 いったん放した。

 次に腫れへ触れた。

 こちらも痛かった。

「なんだよ」

 直人は鏡に言った。

 鏡は、どちらから処理すべきか答えなかった。

     *

 皮膚の下には、水がある。

 青くはない。

 光も届かない。

 塩分を含んだ透明な水が細胞と細胞の隙間を満たし、熱を運び、栄養を渡し、壊れたものを少しずつ遠くへ流している。

 生き物が陸へ上がったあとも、身体は水を内側に残した。

 そこにいるものは、海という言葉を知らない。

 薄い。

 濃い。

 熱い。

 足りない。

 近くで何かが壊れた。

 それだけで、行き先は決まる。

 鼻の脇では、皮脂と剥がれた角質が毛穴の出口を塞いでいた。

 皮脂がたまる。

 酸素が減る。

 細菌が増える。

 細菌の放つ物質が組織液へ溶け、濃さの違う場所を作った。

 好中球は濃さを遡った。

 血管の内壁へ張りつき、膜を変形させる。細胞同士の接合部へ身体を押し込み、細長く潰れながら血管の外へ抜けた。

 一体は、途中で膜の端を引っかけた。

 小さくへこんだ身体は、炎症の中心へ着いても元へ戻らなかった。

 戻す必要がなかったからだ。

 別の好中球が、細菌へ膜を伸ばした。

 包む。

 閉じる。

 内部へ酵素を放つ。

 細菌の膜が崩れる。

 好中球自身の膜も傷む。

 漏れた酵素が近くの細菌へ触れ、周囲の組織にも触れた。壊してよいものだけを選ぶほど、酵素は器用ではなかった。

 組織が傷む。

 水分が集まる。

 熱がこもる。

 皮脂の栓の下で、狭い場所が膨らんでいく。

 好中球は次々と濃い場所へ進んだ。

 命令はなかった。

 勇気もなかった。

 恐怖もなかった。

 立派ではなかった。

 濃さを遡る以外の進み方を持っていないだけだった。

 細菌の破片。

 破れた細胞膜。

 溶けた組織。

 使われた酵素。

 動かなくなった好中球。

 透明だった水は、それらを含んで白く濁った。

 白さの中では、まだ動くものが膜を伸ばし、近くにあるものへ触れていた。

     *

 直人は腫れを押した。

 痛みが鼻の奥へ走った。

「痛っ」

 何も出なかった。

 中央の白い部分だけが、少し尖った。

 直人は指を離した。

 今度は鼻毛を引いた。

 一本抜けた。

 目に涙が浮かんだ。

 腫れではなく、鼻毛のための涙だった。

 洗面所の外からテレビの音が届いた。

『海には、地球上の生命を支える豊かな――』

「直人、麦茶いる?」

 台所から声が重なった。

「あとで」

 直人の喉が震えた。

 声は皮膚と骨を通り、鼻の脇にたまった水へも届いた。

     *

 好中球の一体は、外から来る振動を受けていた。

 歯ブラシが洗面台へ当たる振動。

 水滴が陶器を打つ振動。

 宿主の声。

 隣室のテレビ。

 うみ。

 うみ。

 同じ音が、朝から何度も身体を通り過ぎていた。

 好中球は意味を知らない。

 音を覚えておく器官もない。

 最後の振動が消えないうちに、外から圧力が加わった。

 皮膚が沈む。

 透明だった水が傾く。

 白く濁ったものが出口へ集まり、皮脂の栓を内側から押した。

 栓は外れない。

 圧力だけが周囲へ逃げた。

 好中球は流れに押され、向きを変えた。

 膜を伸ばす。

 傷んだ組織へ張りつく。

 流れのほうが強かった。

 身体が引き延ばされる。

 へこんでいた膜の端から亀裂が入る。

 中身が白い水へ漏れた。

 好中球の一部と、取り込んだ細菌と、直人の傷んだ組織が混ざった。

 どこまでが直人で、どこからが異物なのか、もう分からなかった。

 直人は鼻毛を抜いた涙を拭きながら、鏡の中の自分を見ていた。

     *

 直人は窓の外へ目を向けた。

 海は隣家の屋根に半分隠れていた。

 電線にはカラスが止まり、海ではなく、手前のゴミ集積所を見ている。

 直人もすぐに鏡へ視線を戻した。

 腫れの左右へ指を置く。

 さっきとは少し角度を変えた。

 そのほうが、うまく出る気がした。

 直人は力を入れた。

     *

 皮脂の栓が傾いた。

 片側に亀裂が入る。

 白い水が、細い隙間へ押し寄せた。

 膜の一部を失った好中球も、流れに巻き込まれた。

 何かへ張りつこうとした。

 細菌かもしれない。

 崩れた組織かもしれない。

 別の好中球の残りかもしれない。

 確かめる前に、栓が外れた。

 圧力を失った白い水が、毛穴から外へ出た。

 皮脂。

 角質。

 細菌の断片。

 溶けた組織。

 動かなくなった好中球。

 まだ形を保っていた好中球。

 それらは一つの細い塊になって、直人の指に載った。

     *

「出た」

 直人は小さく言った。

 指先に白い膿が載っていた。

 中心には血が混じっている。

 思っていたより、きれいに出た。

 直人は少し満足した。

 その満足を誰かに見られたような気がして、すぐに顔をしかめた。

「きたな」

 口にすると、自分が最初から嫌がっていたことにできた。

 直人はティッシュを一枚取り、指先と鼻の脇を拭いた。

     *

 外へ押し出された好中球の一体は、まだ膜の形を保っていた。

 ティッシュが水分を吸う。

 膜が縮み、表面に細かな皺が寄る。

 好中球は白い繊維へ膜を伸ばした。

 それまで触れてきた細胞より、繊維は太く、硬く、ところどころ裂けていた。

 外へ出て最初に触れたものは、海でも空でもなかった。

 安売りのティッシュの裏側だった。

 すぐ隣には、抜かれた鼻毛が一本貼りついていた。

 鼻毛は好中球より大きかった。

 黒く、根元に透明な鞘をつけ、少し曲がっている。

 どちらも直人の身体から出たものだった。

 どちらにも、直人はもう興味を持っていなかった。

 ティッシュが持ち上げられた。

 好中球の身体を、外の光が一度だけ通った。

 白い洗面台。

 銀色の蛇口。

 鏡の前に立つ巨大な宿主。

 肩越しの窓。

 隣家の屋根。

 二本の電線。

 カラス。

 その向こうの青。

 洗面台にも、青い石鹸のかけらと、青い歯磨き粉のキャップがあった。

 好中球には、どれも区別できなかった。

 すべて同じ色だった。

 うみ。

 消えかけていた振動と、青いものが重なった。

 好中球は、鼻毛の根元にもたれるような形で潰れた。

     *

 直人はティッシュを丸め、ゴミ箱へ投げた。

 外れた。

 縁に当たり、床へ落ちた。

「あー」

 拾おうとして屈むと、鼻の脇から血が一滴落ちた。

 白い洗面台に、丸い赤がつく。

 直人は新しいティッシュで血を拭いた。

 床の一枚も拾い、二枚まとめてゴミ箱へ押し込んだ。

 今度は入った。

 腫れは小さくなっている。

 代わりに、赤みは少し広がっていた。

 直人は鏡の中で顔を左右に振った。

 正面からなら、それほど目立たない。

 満足すべきか、失敗と判断すべきかは微妙だった。

「直人、麦茶ぬるくなるよ」

「今行く」

 直人は洗面所を出た。

 テレビでは、浜辺の子どもたちが波打ち際を走っていた。海水が跳ね、白い飛沫になって落ちる。

 テーブルには麦茶と塩むすびが置いてあった。

 直人は麦茶を飲んだ。

「しょっぱ」

「それ、麦茶でしょ」

「汗かいたから」

「洗面所で?」

 直人は答えなかった。

 鼻毛を抜いたせいで目が赤くなったことも、膿がうまく出て少し嬉しかったことも、家族へ説明するほどではなかった。

     *

 翌朝、腫れはほとんど引いていた。

 鼻の脇に、小さな赤い点が残っている。

 鼻毛を抜いた場所がむずむずしたので、直人は鏡の前で鼻を二度動かした。

 変な顔になった。

 誰も見ていなかった。

 直人はもう一度やった。

 それから顔を洗い、制服へ着替えた。

 学校へ着くころには、腫れのことも、鼻毛のことも忘れていた。

     *

 一年後。

 七月の第三月曜日。

 直人は鏡の前で、顎の下に小さな白い腫れを見つけた。

 人差し指を伸ばす。

 白い中心へ触れる寸前で、手を止めた。

 理由は分からなかった。

 直人はティッシュを一枚取り、洗面台の脇へ置いた。

 すぐには押さなかった。

 代わりに、鼻の横の黒ずみを一つ押した。

 細い皮脂が出た。

 直人は少し満足し、ティッシュで拭いた。

 顎の腫れは、もう少し白くなるまで待つことにした。

 慈悲ではなかった。

 去年より、うまく出したかっただけだった。

 窓の外では、隣家の屋根と二本の電線のあいだに、細長い海が見えていた。

 洗面台には、青い歯磨き粉のキャップが転がっていた。

 身体の内側では、透明な水がゆっくり濁り始めていた。

 直人には見えなかった。

ジャンル・タグ

タグなし

作品統計

👁️ 閲覧数: 1 👍 いいね: 0 📚 本棚登録: 0

作者について

姉久土 天

姉久土 天

👥 フォロワー: 1人

作者ページを見る