うみの日
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
<p> 七月の第三月曜日。 </p><p> 町では海の日を祝っていた。 </p><p> 商店街には青い旗が並び、駅前の洋菓子店では「海の日限定・塩クラゲシュー」を売っていた。クラゲは入っていない。塩も通常商品より〇・二グラム多いだけだったが、青い紙を巻けば海の日になった。 </p>
本文
七月の第三月曜日。
町では海の日を祝っていた。
商店街には青い旗が並び、駅前の洋菓子店では「海の日限定・塩クラゲシュー」を売っていた。クラゲは入っていない。塩も通常商品より〇・二グラム多いだけだったが、青い紙を巻けば海の日になった。
テレビでは、水着姿のレポーターが予想より大きな波を受け、一瞬だけ嫌そうな顔をした。すぐ笑顔へ戻ったので、海の恵みとして放送された。
佐藤家の洗面所からも、海が見えた。
隣家の屋根と二本の電線、その上に斜めに立ったテレビアンテナ。三つの隙間に、細長い青が挟まっている。
高校二年の直人が毎朝、歯を磨きながら見る、佐藤家に割り当てられたぶんの海だった。
晴れた日には電線にカラスが止まる。
カラスがいると、海は少し狭くなる。
その朝、直人は海を見なかった。
鏡へ顔を近づけ、鼻の脇にできた赤い腫れを見ていた。
昨日より大きい。
中央が白い。
横から見るために顔を傾けると、鼻の穴から毛が一本出ていることにも気づいた。
腫れ。
鼻毛。
海の日の朝から、処理するものが二つあった。
直人は先に鼻毛をつまんだ。
引いた。
痛かった。
いったん放した。
次に腫れへ触れた。
こちらも痛かった。
「なんだよ」
直人は鏡に言った。
鏡は、どちらから処理すべきか答えなかった。
*
皮膚の下には、水がある。
青くはない。
光も届かない。
塩分を含んだ透明な水が細胞と細胞の隙間を満たし、熱を運び、栄養を渡し、壊れたものを少しずつ遠くへ流している。
生き物が陸へ上がったあとも、身体は水を内側に残した。
そこにいるものは、海という言葉を知らない。
薄い。
濃い。
熱い。
足りない。
近くで何かが壊れた。
それだけで、行き先は決まる。
鼻の脇では、皮脂と剥がれた角質が毛穴の出口を塞いでいた。
皮脂がたまる。
酸素が減る。
細菌が増える。
細菌の放つ物質が組織液へ溶け、濃さの違う場所を作った。
好中球は濃さを遡った。
血管の内壁へ張りつき、膜を変形させる。細胞同士の接合部へ身体を押し込み、細長く潰れながら血管の外へ抜けた。
一体は、途中で膜の端を引っかけた。
小さくへこんだ身体は、炎症の中心へ着いても元へ戻らなかった。
戻す必要がなかったからだ。
別の好中球が、細菌へ膜を伸ばした。
包む。
閉じる。
内部へ酵素を放つ。
細菌の膜が崩れる。
好中球自身の膜も傷む。
漏れた酵素が近くの細菌へ触れ、周囲の組織にも触れた。壊してよいものだけを選ぶほど、酵素は器用ではなかった。
組織が傷む。
水分が集まる。
熱がこもる。
皮脂の栓の下で、狭い場所が膨らんでいく。
好中球は次々と濃い場所へ進んだ。
命令はなかった。
勇気もなかった。
恐怖もなかった。
立派ではなかった。
濃さを遡る以外の進み方を持っていないだけだった。
細菌の破片。
破れた細胞膜。
溶けた組織。
使われた酵素。
動かなくなった好中球。
透明だった水は、それらを含んで白く濁った。
白さの中では、まだ動くものが膜を伸ばし、近くにあるものへ触れていた。
*
直人は腫れを押した。
痛みが鼻の奥へ走った。
「痛っ」
何も出なかった。
中央の白い部分だけが、少し尖った。
直人は指を離した。
今度は鼻毛を引いた。
一本抜けた。
目に涙が浮かんだ。
腫れではなく、鼻毛のための涙だった。
洗面所の外からテレビの音が届いた。
『海には、地球上の生命を支える豊かな――』
「直人、麦茶いる?」
台所から声が重なった。
「あとで」
直人の喉が震えた。
声は皮膚と骨を通り、鼻の脇にたまった水へも届いた。
*
好中球の一体は、外から来る振動を受けていた。
歯ブラシが洗面台へ当たる振動。
水滴が陶器を打つ振動。
宿主の声。
隣室のテレビ。
うみ。
うみ。
同じ音が、朝から何度も身体を通り過ぎていた。
好中球は意味を知らない。
音を覚えておく器官もない。
最後の振動が消えないうちに、外から圧力が加わった。
皮膚が沈む。
透明だった水が傾く。
白く濁ったものが出口へ集まり、皮脂の栓を内側から押した。
栓は外れない。
圧力だけが周囲へ逃げた。
好中球は流れに押され、向きを変えた。
膜を伸ばす。
傷んだ組織へ張りつく。
流れのほうが強かった。
身体が引き延ばされる。
へこんでいた膜の端から亀裂が入る。
中身が白い水へ漏れた。
好中球の一部と、取り込んだ細菌と、直人の傷んだ組織が混ざった。
どこまでが直人で、どこからが異物なのか、もう分からなかった。
直人は鼻毛を抜いた涙を拭きながら、鏡の中の自分を見ていた。
*
直人は窓の外へ目を向けた。
海は隣家の屋根に半分隠れていた。
電線にはカラスが止まり、海ではなく、手前のゴミ集積所を見ている。
直人もすぐに鏡へ視線を戻した。
腫れの左右へ指を置く。
さっきとは少し角度を変えた。
そのほうが、うまく出る気がした。
直人は力を入れた。
*
皮脂の栓が傾いた。
片側に亀裂が入る。
白い水が、細い隙間へ押し寄せた。
膜の一部を失った好中球も、流れに巻き込まれた。
何かへ張りつこうとした。
細菌かもしれない。
崩れた組織かもしれない。
別の好中球の残りかもしれない。
確かめる前に、栓が外れた。
圧力を失った白い水が、毛穴から外へ出た。
皮脂。
角質。
細菌の断片。
溶けた組織。
動かなくなった好中球。
まだ形を保っていた好中球。
それらは一つの細い塊になって、直人の指に載った。
*
「出た」
直人は小さく言った。
指先に白い膿が載っていた。
中心には血が混じっている。
思っていたより、きれいに出た。
直人は少し満足した。
その満足を誰かに見られたような気がして、すぐに顔をしかめた。
「きたな」
口にすると、自分が最初から嫌がっていたことにできた。
直人はティッシュを一枚取り、指先と鼻の脇を拭いた。
*
外へ押し出された好中球の一体は、まだ膜の形を保っていた。
ティッシュが水分を吸う。
膜が縮み、表面に細かな皺が寄る。
好中球は白い繊維へ膜を伸ばした。
それまで触れてきた細胞より、繊維は太く、硬く、ところどころ裂けていた。
外へ出て最初に触れたものは、海でも空でもなかった。
安売りのティッシュの裏側だった。
すぐ隣には、抜かれた鼻毛が一本貼りついていた。
鼻毛は好中球より大きかった。
黒く、根元に透明な鞘をつけ、少し曲がっている。
どちらも直人の身体から出たものだった。
どちらにも、直人はもう興味を持っていなかった。
ティッシュが持ち上げられた。
好中球の身体を、外の光が一度だけ通った。
白い洗面台。
銀色の蛇口。
鏡の前に立つ巨大な宿主。
肩越しの窓。
隣家の屋根。
二本の電線。
カラス。
その向こうの青。
洗面台にも、青い石鹸のかけらと、青い歯磨き粉のキャップがあった。
好中球には、どれも区別できなかった。
すべて同じ色だった。
うみ。
消えかけていた振動と、青いものが重なった。
好中球は、鼻毛の根元にもたれるような形で潰れた。
*
直人はティッシュを丸め、ゴミ箱へ投げた。
外れた。
縁に当たり、床へ落ちた。
「あー」
拾おうとして屈むと、鼻の脇から血が一滴落ちた。
白い洗面台に、丸い赤がつく。
直人は新しいティッシュで血を拭いた。
床の一枚も拾い、二枚まとめてゴミ箱へ押し込んだ。
今度は入った。
腫れは小さくなっている。
代わりに、赤みは少し広がっていた。
直人は鏡の中で顔を左右に振った。
正面からなら、それほど目立たない。
満足すべきか、失敗と判断すべきかは微妙だった。
「直人、麦茶ぬるくなるよ」
「今行く」
直人は洗面所を出た。
テレビでは、浜辺の子どもたちが波打ち際を走っていた。海水が跳ね、白い飛沫になって落ちる。
テーブルには麦茶と塩むすびが置いてあった。
直人は麦茶を飲んだ。
「しょっぱ」
「それ、麦茶でしょ」
「汗かいたから」
「洗面所で?」
直人は答えなかった。
鼻毛を抜いたせいで目が赤くなったことも、膿がうまく出て少し嬉しかったことも、家族へ説明するほどではなかった。
*
翌朝、腫れはほとんど引いていた。
鼻の脇に、小さな赤い点が残っている。
鼻毛を抜いた場所がむずむずしたので、直人は鏡の前で鼻を二度動かした。
変な顔になった。
誰も見ていなかった。
直人はもう一度やった。
それから顔を洗い、制服へ着替えた。
学校へ着くころには、腫れのことも、鼻毛のことも忘れていた。
*
一年後。
七月の第三月曜日。
直人は鏡の前で、顎の下に小さな白い腫れを見つけた。
人差し指を伸ばす。
白い中心へ触れる寸前で、手を止めた。
理由は分からなかった。
直人はティッシュを一枚取り、洗面台の脇へ置いた。
すぐには押さなかった。
代わりに、鼻の横の黒ずみを一つ押した。
細い皮脂が出た。
直人は少し満足し、ティッシュで拭いた。
顎の腫れは、もう少し白くなるまで待つことにした。
慈悲ではなかった。
去年より、うまく出したかっただけだった。
窓の外では、隣家の屋根と二本の電線のあいだに、細長い海が見えていた。
洗面台には、青い歯磨き粉のキャップが転がっていた。
身体の内側では、透明な水がゆっくり濁り始めていた。
直人には見えなかった。
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