林武君の母親
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
大学2年生の橘ひなたは、ごく普通の女子大生。ある日、学校一のイケメンと噂される林武蓮と同じゼミになったことで、自然と彼を意識するようになる。 しかし蓮は恋愛に全く興味がなく、女の子から告白されても断り続けるクールな男。ひなたが話しかけても素っ気ない態度ばかり。 それでも一緒にいる時間が増えるうちに、ひなたは彼の不器用な優しさに少しずつ惹かれていく。 恋愛に無関心なイケメンが、初めて「恋の病」にかかるまでのドキドキラブコメ!
本文
その日、ひなたは講義が終わった後、なんとなく林武の後をついていた。
ついていた、というのは少し語弊がある。たまたま帰る方向が同じで、たまたま林武が前を歩いていて、たまたまそのまま並んで歩くことになっただけだ。
「今日、バイトは?」
「休み。久しぶりに早く帰れる」
「……そうか」
二人で並んで、キャンパスの外へ続く道を歩いた。夕方の空はまだ明るくて、春に近づいてきた空気が少し柔らかかった。
キャンパスの門を出たところで、林武が不意に足を止めた。
「……母さん」
ひなたも足を止めた。
門の脇に、一人の女性が立っていた。五十代くらいだろうか。背筋がまっすぐに伸びていて、きちんとしたコートを着ている。髪は綺麗にまとめられていて、表情は穏やかに見えたが、目だけは違った。値踏みするような、静かな鋭さがあった。
「武、ちょうどよかった。少し話があって」
「……なんで来た」
「近くに用があったから。ちょっとだけ時間ある?」
林武の表情が、一瞬だけ固まったのをひなたは見逃さなかった。いつもの無表情とは違う。もっと深いところで、何かが閉じていくような顔だった。
林武の母親がひなたに気づいた。
「あら、お友達?」
「……同じ講義の人」
「そう」
母親はひなたをざっと見て、にこりとした。表面上は丁寧な笑顔だった。でも、ひなたはなんとなく、その笑顔の奥にある温度の低さを感じた。
「橘です。はじめまして」
「林です。武がお世話になってます」
「いえ、こちらこそ」
短いやり取りだった。母親の視線がひなたからさっと外れて、林武に戻った。
「武、少しだけいい?」
「……何の話」
「春休みのこと。帰ってくるでしょ?」
「……考える」
「考えるじゃなくて、はっきりして。お父さんも待ってるからさ」
林武は何も言わなかった。ひなたは少し離れた場所に立って、自分のスマートフォンを眺めるふりをした。聞くつもりはなかったけれど、声は聞こえてきた。
「帰ってきたら、ちゃんと部屋の整理もしてほしいし。あと就職のことも、そろそろ真剣に考えないと。あなたの将来のことだから、お母さんも心配だから言ってるのよ」
「……わかってる」
「わかってるなら、なんで返信が」
「……忙しかった」
「忙しいのはわかるけど、親への連絡くらいできるでしょ」
林武は何も言わなかった。ひなたはスマートフォムの画面を見つめたまま、横目でそっと様子を窺った。
林武の顔が、どんどん固くなっていくのがわかった。言葉を返せば返すほど、どこか疲弊していくような、そんな顔だった。
これが、お母さんか。
番外編で話してくれたわけではないけれど、林武が以前匂わせていた言葉を思い出した。誰かと深く関わることに踏み込めない。親を見ていて、そう感じるようになった。
今、目の前で見ている光景が、その言葉の意味を少し教えてくれた気がした。
悪い人ではないのだろう。子供のことを心配している、それは本当なのだと思う。でも、その心配の形が、少し息苦しかった。
「とにかく、春休みは帰ってきなさい。話はそれだけ」
「……わかった」
「連絡、ちゃんとするのよ」
「……する」
「じゃあ、お友達もいるから行くわね」
母親がひなたの方に向き直って、また丁寧な笑顔を向けた。
「橘さん、武と仲良くしてあげてね。この子、不愛想だから」
「いえ、そんなことないです」
「あら、そう言ってくれると助かるわ」
母親はそれだけ言って、来た道を戻っていった。その背中が見えなくなるまで、林武はずっと黙って立っていた。
ひなたもしばらく黙っていた。
何か言うべきか、それとも言わない方がいいか。迷ったけれど、今は言葉よりも先にすることがある気がした。
「ねえ、コンビニ寄っていかない?」
林武がひなたを見た。
「……コンビニ」
「なんか買いたくて。アイスとか」
「……今の季節にアイスか」
「寒い時のアイスが一番美味しいんだよ」
林武はしばらくひなたの顔を見ていた。それから、小さく息を吐いた。
「……わかった」
二人で近くのコンビニに入った。ひなたはアイスのコーナーに向かって、チョコのアイスバーを二本取った。一本を林武に渡すと、林武は少し戸惑った顔をした。
「……いいのか」
「奢り。今日くらいは」
「……今日くらい、とは」
「なんとなく」
それだけ言って、ひなたはアイスの包装を開けた。林武もしばらく眺めてから、包装を開けた。
コンビニの前のベンチに並んで座って、二人でアイスを食べた。会話はなかった。でも、ひなたはそれでいいと思っていた。今日は、隣にいるだけでよかった。
「……母さんのこと、見てたか」
しばらくして、林武が言った。
「ちょっとだけ」
「……そうか」
「うん」
林武はアイスを一口食べて、前を向いたまま続けた。
「……変な感じだっただろ」
「そんなことない」
「……本当か」
「本当。心配してるんだなって、思った」
林武は何も言わなかった。ひなたも何も付け加えなかった。
ただ、アイスを食べながら、夕暮れの空を二人で眺めた。
「美味しかった」とひなたが言った。
「……ああ」
「また寒い日に食べよう」
「……お前は変なやつだな」
「それ、何回目」
林武が小さく口元を緩めた。それだけで、さっきまでの固い表情が、少し和らいだ気がした。
立ち上がりながら、ひなたは思った。今日のことは、何も聞かなくていい。ただ、隣にいられたことで、少しでも楽になってくれていたらいい。
ほんと、それだけ。
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