第一章 遠回り①
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
一 近道
梶棒〈かじぼう〉を握った掌に、朝露の名残がまだ冷たい。
車夫は、ひと息、腰を落とした。踵で地を噛み、爪先で蹴る。人力車〈じんりきしゃ〉が、ふわりと前へ出て、それから、脚が勝手に道を拾いはじめる。神田の朝の、掃き清められたばかりの表通りだった。
背で、客が小さく身じろぎした。
「急いでもらいたい。今日は、九時までに着かねばならん」
堅い声だった。羽織の紋がきちんとして、月代〈さかやき〉の代わりに髪を短く刈った、勤め人風の男である。膝の上で、風呂敷包みを大事そうに抱えている。役所の書き付けでも入っているのだろう。
「へい。承知しやした」
車夫は、明るく声を返した。走りながらでも、この声だけは絞り出す。客商売の声だ。
「けどな、旦那。急ぐのと、揺らさねえのと、どっちを先にしやしょう」
「……両方だ」
客が、むっとしたように言った。
「速く。だが、揺らすな。私は、乗り物に弱い」
無理を言う。車夫は胸のうちで笑った。速く走れば揺れる。揺らすまいとすれば遅くなる。乗り物というのは、たいていそういうものだ。ましてこの俥〈くるま〉は、木の輪に鉄の帯を巻いただけの、石ころ一つ拾っても腰に突き上げてくる代物だった。
だが、笑いは声に出さなかった。
「ようがす。揺らさねえで、飛ばしまさあ」
言って、車夫は、脚に息を通した。
揺らさぬのが技だ、というのは、この身体が古くから知っていることだった。担いでいたころ――と、脚がひとりでに思い出す。二人がかりで一挺を担ぎ、先棒〈さきぼう〉と後棒〈あとぼう〉が息を合わせ、肩で客を宙に浮かせて運んだ。あのころは、揺らせば客が銭を惜しんだ。揺らさぬのが飯の種だった。
担ぐ脚と、引く脚は、違う。
肩で背負うのではない。梶棒を通して、俥ごと客を引く。腰から下だけの仕事のようでいて、そうではなかった。上体の傾きひとつで、輪の当たりが変わる。膝の抜き方ひとつで、突き上げが逃げる。担いでいたころの息を、そっくり脚へ移し替えるのに、ひと月かかった。
いまは、少しは板についてきた。
俥は滑るように、朝の町を進んでいく。棒手振りの売り声が後ろへ流れ、辻を一つ、二つと折れる。背の客は、いつのまにか身じろぎをやめている。
大通りに出て、車夫の脚が、ふと鈍った。
前が、詰まっていた。
人だかりである。荷を山と積んだ大八車〈だいはちぐるま〉が、道の真ん中で、傾いでいた。積み荷の俵が崩れかけ、車を挽いていた男が二人、必死に肩を入れて支えている。荷縄が切れたか、締めが甘かったか。片方の車輪が溝にはまり込んで、びくとも動かぬ様子だった。
その手前で、俥が二台、客を乗せたまま立ち往生している。一台は、強引に脇をすり抜けようとして、荷車の男に怒鳴られていた。往来はすっかり塞がって、荷を担いだ者、天秤を提げた者が、口々に何か言いながら、遠巻きにこの騒ぎを眺めている。
このごろは、こういう難儀が、めっきり増えた。荷を運ぶのも、人を運ぶのも、車、車の世の中になった。数が増えれば、ぶつかりもする。詰まりもする。
「おい、どうした」
背で、客の声が尖った。
「なぜ、止まる」
「へい。ちっと、道が塞がっちまいまして」
車夫は、首を伸ばして、前を見た。大八車が退くのを待っていたら、四半刻はかかる。溝から車輪を抜き、崩れた荷を積み直し――そのあいだ、この客は、膝の包みを抱えたまま、じりじりと刻限を削られていくことになる。
「九時、と言ったはずだ」
「へい」
「間に合わんぞ」
客の声には、もう苛立ちが立っている。堅い勤め人ほど、刻限に追われると脆い。詫びの言葉を並べたところで、この人の役には立たない。
車夫は、詫びなかった。代わりに、道を見た。
前ではなく、脇を。
塞がった大通りから、細い一本が、右へ折れている。荷車の入れぬ、狭い裏筋だった。担いでいたころ、この界隈は、庭のように歩いた。祭りの人出、火事場の野次馬、大名行列の名残の供揃え――表が詰まったとき、駕籠がどこへ逃げたか、脚が覚えている。あの裏筋は、二つ先の辻で、いったん左へ膨らんで、それから客の行き先のほうへ、まっすぐ抜ける。
俥が通れるか。
目で幅を測る。輪と輪のあいだ、梶棒の張り出し。……通れる。ぎりぎりだが、通れる。
「旦那」
車夫は、声を張った。明るく。
「近道を、行きやす。狭え道だが、揺らしゃしません。念のため、舌ぁ、噛まねえように、口だけ閉じてておくんなせえ」
客が何か言う前に、車夫は俥の鼻先を、裏筋へ振り向けていた。
裏筋は、思ったより暗かった。
両側から、板塀と、干し物の竿が迫っている。車夫は、脚の運びを、いったん細かく刻んだ。速さを落とすのではない。歩幅を詰めて、そのぶん数を増やす。揺れは、大股の一歩に宿る。歩を細かくすれば、突き上げは、細かく散って、腰まで届かない。駕籠を担いで、狭い路地を抜けるときの息だった。
輪が、板塀の釘の頭を、すれすれにかわす。
背の重みが、右へ、左へと、わずかに動く。車夫は、その動きを、肩で読んだ。客が身をこわばらせれば、俥は硬くなって、よく跳ねる。身を預けてくれれば、俥は客の重みと一つになって、揺れが消える。
この客は、まだ、身をこわばらせている。
「旦那。息、吐いておくんなせえ」
走りながら、車夫は言った。
「肩の力を、抜いて。……そうだ。おれの脚に、乗っかっててくだせえ。落としゃしません」
背の客が、ふっと、息を吐いたのが分かった。こわばりが、ほどける。俥が、すっと軽くなる。あとは、脚だけの仕事だった。
辻を一つ、左へ膨らむ。溝板の上を、輪が細かく鳴る。その音の刻みが、ひと足ごとに、後ろへ流れていく。板塀が切れて、ふいに視界が開けた。
抜けた。
行き先の門前に、俥をつけたとき、表の大通りは、まだ荷車の騒ぎのただ中にあるはずだった。だが、こちらはもう、静かな門の前である。
車夫は、梶棒を、そっと下ろした。がたつかせないように。最後まで、揺らさないように。
客が、俥を降りた。膝の包みは、抱えたときのまま、少しも崩れていない。男は、着物の襟を直しながら、ふと、妙な顔をした。腹のあたりに手を当てて、それから、感心したように言った。
「……揺れなかったな」
独り言のような声だった。
「あれだけ飛ばして。裏の悪い道を通って。それなのに、揺れなかった。私は、酔わなかった」
「へい」
車夫は、手拭いで首筋を拭いながら、短く答えた。銭を受け取る手のなかで、その一言が、掌の銭よりも、じんと重かった。
「揺らさねえのが、こちとらの、飯の種でごぜえやす」
客は、しばらく車夫の顔を見ていたが、何か言いかけて、やめた。名でも尋ねようとしたのかもしれない。だが、刻限が背を押したのだろう。門の内へ、足早に消えていった。
車夫は、それでよかった。名を訊かれても、答えるほどの名でもない。
空の俥を引いて、来た道を戻る。
荷を降ろした俥は、嘘のように軽い。脚が、ひとりでに、ゆるやかな流しの調子になる。秋の日が、少し高くなって、店々の暖簾を、白く照らしていた。
辻を折れようとして、車夫の脚が、ふと、重くなった。
左へ行けば、近い。だが、その先には――と、脚が知っている道があった。板塀の続く、古い裏店の路地。よく通った道だ。あんまり、よく通いすぎた道だった。
車夫は、左へは折れなかった。
空の俥の鼻先を、わざと遠回りの、広い通りのほうへ向け直す。理由は、考えなかった。考えれば、脚が止まる。ただ、そちらの道は、今日は通りたくない、というだけのことだった。
俥を、少し速めて引いた。
遠回りの道は、日がよく当たって、明るかった。
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