第11話 朝の豆スープ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
昼は魔術師ギルドの魔導基盤保守班で働き,夜は王立魔導大学院の夜間課程に通う若手保守技師レクト・ノーウェル. 彼はギルドの廃棄倉庫で,旧式の喋る魔導書アルカを拾う. アルカは古文書や事故記録の照合に異常な強さを持つが,現場感がない. レクトには現場で拾う違和感があるが,過去記録への到達手段が足りない. 二人は互いの欠けを補い,生活記録,現場記録,雑談,失敗記録を積み上げながら,魔法世界の未解明問題に名前をつけていく.
本文
赤葡萄亭の豆スープは,眠気に効く.
少なくとも,俺はそう信じている.効いているのが豆なのか,塩なのか,ロッサの「食べ終わるまで寝るな」という視線なのかは分からない.
「レクト,匙が止まってる」
「考え事です」
「寝てるように見える考え事だね」
《観察上は睡眠に近いです》
「アルカ,そこは味方しろ」
《健康面ではロッサに同意します》
ロッサは満足そうにうなずき,俺の椀に豆を一すくい足した.
「研究だか何だか知らないけど,腹が空いた頭で街は見えないよ」
赤葡萄亭の朝は,いつも同じようで少しずつ違う.門番のダンは今日は左肩を回している.魚屋のベンは機嫌がいい.氷符の減りが昨日よりましだったのだろう.パン屋のリシャは,いつもより早く葡萄水を頼んだ.炉の火入れが忙しい日だ.
俺は豆スープを飲みながら,その違いを記録板に書いた.
朝食.
客の顔色.
愚痴.
市場の準備時刻.
魔道具の不具合.
「あんた,とうとう朝飯まで記録するのかい」
ロッサが呆れた声を出した.
「生活記録です」
「朝飯を難しく言うとそうなるのかい」
《生活記録は,公式記録に含まれにくい日常変化を保持するための仮分類です》
「帳面,あんたの言葉は腹にたまりにくいね」
《豆スープのほうが適しています》
「分かってきたじゃないか」
俺は笑いながら,スープを口に運んだ.疲れているのに,記録したいものが増えている.良くない兆候だ.だが,ただ疲れているだけではない.街の音が,少しずつ意味を持ち始めている.
ダンが椅子を引きずって近づいてきた.
「レクト,北門の警鐘符だけどよ」
「また遅れました?」
「いや,今朝は遅れなかった.ただ,鳴る前に胸がむかむかした」
「魔力酔いですか」
「軽いやつだな.夜明け前だけだ」
俺は記録した.警鐘符そのものの遅れが消えても,人間側に違和感が残っている.
《主観記録として保持します》
ダンは鞄を見た.
「俺のむかむかまで記録するのか」
「嫌なら名前は伏せます」
「いや,役に立つなら書いとけ.ただし,弱ったみたいに書くなよ」
「では,門番ダン,夜明け前に軽度魔力酔いを自覚.ただし本人は強がる」
「最後いらんだろ」
店内が笑った.
その笑いの中に,俺は妙な安心を覚えた.記録されることを,みんなが少しずつ許してくれている.もちろん,面白がっているだけかもしれない.だが,最初の壁は低くなった.
大学院では,セリス教授が俺の生活記録を見て言った.
「量が増えましたね」
「はい」
「質はまだ不明です」
「はい……」
褒められた時間は短い.
教授は赤葡萄亭の記録を指した.
「生活記録を集めるなら,記録する側の生活も記録しなさい」
「俺のですか」
「睡眠,食事,疲労.観測者が揺れているなら,観測も揺れます」
アルカが勢いよくページを開いた.
《同意します》
「嬉しそうだな」
《以前から指摘していました》
教授は淡々と言った.
「ノーウェル,あなた自身も記録条件です」
その言葉は,思ったより恥ずかしかった.
灯火柱や警鐘符なら,数値を測ればいい.保冷箱なら温度符を見ればいい.だが,自分の眠気や空腹を記録するとなると,途端に言い訳が混じる.昨日は仕方なかった.北門の件があった.赤葡萄亭で少し寝たから休んだ扱いでいい.
そう書きかけて,俺は筆を止めた.
休んだ扱い,という言葉がもう怪しい.現場でそんな曖昧な処理をしたら,ガロン班長に記録板で叩かれる.
ミナが横から覗き込み,小さく笑った.
「自分のことになると,急に記録が甘いね」
「人に言われると痛い」
「患者さんにもいるよ.眠れていないのに,大丈夫って言う人」
「俺は患者じゃない」
《観測条件としては不安定です》
「二人がかりか」
その夜,俺は仕方なく自分の欄を作った.睡眠三時間半.朝食,豆スープとパン.疲労,中.焦げ臭さへの過敏,なし.
書いてみると,恥ずかしい.
《休息不足が継続しています》
「分かってる」
《改善策を提案します》
「寝る以外で」
《ありません》
赤葡萄亭の豆スープは眠気に効く.
だが,眠らなくていい理由にはならない.
俺は記録板を閉じようとして,窓の外を見た.夜明け前の北門の方角で,警鐘符の試験音が鳴る.今日は遅れていない.
なのに,胸の奥がほんの少しだけ重くなった.
ダンの主観記録を,俺はもう一度開いた.
その横に,自分の欄も開く.睡眠不足,朝食あり,疲労中.胸の重さを見つけた時の俺は,万全ではない.それを書いておかなければ,ダンの体感だけを疑って,自分の観測条件を疑わないことになる.
《観測者条件を追記しますか》
「する」
《睡眠不足による感受性上昇の可能性》
「可能性,で止めろよ」
《断定しません》
俺は少し笑った.アルカが断定しないことを覚え始めている.俺も,自分の違和感を信じすぎないことを覚えなければならない.
夜明け前の警鐘符は,二度目も正常に鳴った.それでも胸の奥の重さは消えない.原因は分からない.ただ,分からないものを分からないまま置く欄が,今の俺にはある.
翌朝,俺はその欄を赤葡萄亭へ持っていった.ロッサは豆スープをよそいながら,俺の顔を一目見て言った.
「今日は少し寝たね」
「分かるんですか」
「匙を落としてない」
基準がひどい.だが,たしかに昨日より手は震えていない.俺は自分の睡眠欄に四時間半と書き足した.それを見たダンが,「俺も書くのか」と渋い顔をする.
「嫌なら書かなくていいです」
「いや,胸のむかむかが俺の寝不足なら,警鐘符のせいにするのも悪いだろ」
その一言で,記録の意味が少し変わった.生活記録は,魔道具の異常を見つけるためだけではない.魔道具のせいではないものを分けるためにも必要なのだ.
《重要な分類です》
「だな」
俺は豆スープを飲み,北門の欄に小さく書いた.魔道具由来とは限らない.それでも記録する.
書き終えると,ダンが椀を持ったままこちらを見ていた.
「俺の腹具合まで研究にされるのか」
「しない.するなら匿名だ」
「匿名ならいいって話でもないだろ」
その通りだった.俺はすぐに線を引き,個人の体調は本人確認後,と書き足した.魔道具と関係ないものを分けるための記録が,人を勝手に材料へ変えてはいけない.当たり前のことなのに,現場で言われるまで手元から抜け落ちていた.
ダンは「ならよし」と言って椀を空にした.許可ではない.だが,次も話してもらうためのぎりぎりの線だった.
その線の細さを,俺は忘れないようにした.
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