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第一章 遠回り②

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/7/25 📚 シリーズ: 三ツ辻横丁 俥日和 📝 2,609文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。

本文

 二 だるま屋

 三ツ辻横丁〈みつつじよこちょう〉に日が傾くと、車宿の前は、俥の帰り時でにぎわう。

 その名のとおり、三つの路地がここで出会って一つになる、その辻の角に、だるま屋の暖簾は下がっている。轅〈ながえ〉を天へ向けて立てかけた俥が、軒先にずらりと並んで、夕日を浴びていた。梶棒の影が、地面に長く伸びている。

「お、帰ってきた。辰次〈たつじ〉さん、今日はどうだった」

 俥を軒先へ寄せた男へ、若い車夫が声をかけた。まだ二十歳そこそこの、そばかすの浮いた顔である。

「まあ、ぼちぼちだ」

 辰次は、手拭いで梶棒の露を拭きながら、短く答えた。

「ぼちぼち、ときたよ」

 そばかすの隣で、痩せた若いのが笑った。

「辰次さんは、いつ聞いても、ぼちぼちだ。景気のいい話が、ちっとも出てこねえ。もっとこう、あるだろう。今日はどこそこの別嬪を乗せて、祝儀をはずまれたとかよ」

「そんなものは、ねえ」

「愛想がねえなあ」

 若い連中は、遠慮というものを知らなかった。年かさの新参が相手でも、平気で軽口を叩く。辰次のほうも、それを咎める気はなかった。この横丁では、脚がものを言う。年季も、昔の看板も、通じない。担いでいたころなら、若造にこんな口をきかれれば、拳の一つも見舞ったろう。だが、いまはもう、そういう肩の張り方を、辰次はしなかった。

「祝儀なんざ、この人にはついてこねえよ」

 と、軒下から声が飛んだ。源太だった。

「辰次さんはな、愛想を売らねえ。売るのは脚だけだ。だから、乗った客はみんな、揺れねえ揺れねえと感心して帰る。けど、感心するばっかりで、祝儀を置いてくのを忘れちまうのさ」

 若い連中が、どっと笑った。

「そいつぁ、損な性分だ」

「違えねえ」

 源太も笑っている。笑うと、目がなくなる。手拭いを首にかけた、身の軽い男だった。辰次より四つ五つ下のはずだが、この横丁では、辰次よりずっと古株だった。

 若い連中が、それぞれの俥を片付けに散っていくと、源太が、辰次のそばへ寄ってきた。

「兄い」

 声を、少し落としている。

「さっきの、上野の客の話よ。あの旦那、七軒町の呉服屋の番頭でさあ。あすこは、月末になると必ず、掛け取りに人を出す。決まった日に、決まった道を行く客だ。ああいうのを一人つかんでおくと、月に幾度か、堅い実入りになりまさあ」

 源太は、そう言って、指を折ってみせた。

「月に三度として、一度が幾ら。ひと月で、これこれ。ばかにならねえでしょう」

 銭の話になると、源太の口は、急に具体的な数字を並べはじめる。辰次には、その数字が、いつも半分ほどしか頭に入らない。だが、源太が自分のために勘定してくれているのだ、ということは、分かった。

「……ああ。覚えとく」

「覚えといてくだせえ。損料を引いて、手元にいくら残るか。そいつを、ちゃんと勘定してねえと、いつまでたっても借り俥のままでさあ」

 源太は、そう言って、ふと口をつぐんだ。言い過ぎた、とでもいうように。

「――ま、兄いには、釈迦に説法か」

 そうではなかった。辰次は、銭の勘定が苦手だった。それを、源太は知っている。知っていて、わざと「釈迦に説法」と言った。立ててくれているのだ。

 源太は、いつもそうだった。世話を焼く。焼いておいて、焼いたそぶりを、すぐに引っ込める。頭を下げられるのを、何より嫌う男だった。

 辰次は、その気遣いが、ありがたかった。ありがたくて――そのぶん、うまく礼が言えなかった。

「源太」

「へい」

 辰次は、言いかけて、詰まった。すまねえ、の一言が、喉のあたりで、つかえた。この男には、詫びも、礼も、言い足りないことが、山ほどある。だが、それを口にしようとすると、いつも、言葉が引っかかる。

「……いや。なんでもねえ」

「なんでえ、気色わりい」

 源太は、軽く笑って、話を流した。流すのが、うまい男だった。だが、その笑いの底に、ほんの一瞬、辰次のほうをうかがうような色が、走った。兄い、と立てて呼ぶ、その呼び方の下に、何か、二人のあいだにだけ通じるものが、澱のように沈んでいた。

 辰次も、源太も、それには触れなかった。触れずに、日々の軽口で、上から蓋をしていた。

 帳場に、亀蔵が座っていた。

 ずんぐりと丸い身体を、帳面の前に据えて、煙管〈きせる〉を使っている。屋号のだるまと、よく似た形だった。だが、目だけは、少しも丸くない。宿の出入りを、その一対の目が、残らず見ている。

「親方。今日の分を」

 辰次は、帳場の縁に、その日の稼ぎから、損料の分を数えて置いた。日締めの、借り俥の代である。亀蔵は、煙管を一服してから、その銭へ、ちらりと目をやった。数えもしない。目で、足りているのが分かるらしかった。

「上野の客を、裏筋で抜いたそうだな」

 亀蔵が言った。誰から聞いたのか、もう耳に入っている。

「へい。大通りが、荷車で塞がっちまって」

「あの裏は、俥が通るには狭い」

「……通れやした。ぎりぎりで」

 亀蔵は、また、煙管を吸った。煙を、ゆっくりと吐く。しばらく、何も言わなかった。褒めるでもなく、咎めるでもなく、ただ、辰次の顔を、一度、見た。

「駕籠なら、通れる道だ」

 ぽつりと、そう言った。

 辰次は、口をつぐんだ。この親方も、駕籠を知っている男だった。駕籠宿を、何十年と張った男である。狭い裏を駕籠がどう抜けるか、この人は、辰次より、よほどよく知っているはずだった。

「その脚を、俥で使えるようになるにゃ、ひと月かかると言った」

 亀蔵は、煙管の雁首を、帳場の縁で、こつ、と払った。

「……まあ、ひと月と、少しは、たったか」

 それだけだった。

 褒め言葉では、なかった。だが、辰次には、それで足りた。この親方の口から出る言葉は、いつも、そのくらいの水量だった。それ以上を注げば、こぼれると知っているような、そういう言い方をする男だった。

 辰次は、置いた銭から、目を上げた。損料を引いて、今日、手元に残る分は、わずかだった。だが、無くはなかった。ひと月前は、その日の損料を払うだけで、精いっぱいだった。それが、このごろは、ほんの少しだけ、残るようになっている。

 いつか、と辰次は思う。

 いつか、この借り俥ではなく、自分の一台を持つ。その日まで、あと、どれだけの「ほんの少し」を、積み上げればいいのか。数えようとして、やめた。銭の勘定は、苦手だった。

 ただ、脚は、今日も、飯の種になった。

 それで、今日のところは、よかった。

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鞍雲

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