第一章 遠回り②
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
二 だるま屋
三ツ辻横丁〈みつつじよこちょう〉に日が傾くと、車宿の前は、俥の帰り時でにぎわう。
その名のとおり、三つの路地がここで出会って一つになる、その辻の角に、だるま屋の暖簾は下がっている。轅〈ながえ〉を天へ向けて立てかけた俥が、軒先にずらりと並んで、夕日を浴びていた。梶棒の影が、地面に長く伸びている。
「お、帰ってきた。辰次〈たつじ〉さん、今日はどうだった」
俥を軒先へ寄せた男へ、若い車夫が声をかけた。まだ二十歳そこそこの、そばかすの浮いた顔である。
「まあ、ぼちぼちだ」
辰次は、手拭いで梶棒の露を拭きながら、短く答えた。
「ぼちぼち、ときたよ」
そばかすの隣で、痩せた若いのが笑った。
「辰次さんは、いつ聞いても、ぼちぼちだ。景気のいい話が、ちっとも出てこねえ。もっとこう、あるだろう。今日はどこそこの別嬪を乗せて、祝儀をはずまれたとかよ」
「そんなものは、ねえ」
「愛想がねえなあ」
若い連中は、遠慮というものを知らなかった。年かさの新参が相手でも、平気で軽口を叩く。辰次のほうも、それを咎める気はなかった。この横丁では、脚がものを言う。年季も、昔の看板も、通じない。担いでいたころなら、若造にこんな口をきかれれば、拳の一つも見舞ったろう。だが、いまはもう、そういう肩の張り方を、辰次はしなかった。
「祝儀なんざ、この人にはついてこねえよ」
と、軒下から声が飛んだ。源太だった。
「辰次さんはな、愛想を売らねえ。売るのは脚だけだ。だから、乗った客はみんな、揺れねえ揺れねえと感心して帰る。けど、感心するばっかりで、祝儀を置いてくのを忘れちまうのさ」
若い連中が、どっと笑った。
「そいつぁ、損な性分だ」
「違えねえ」
源太も笑っている。笑うと、目がなくなる。手拭いを首にかけた、身の軽い男だった。辰次より四つ五つ下のはずだが、この横丁では、辰次よりずっと古株だった。
若い連中が、それぞれの俥を片付けに散っていくと、源太が、辰次のそばへ寄ってきた。
「兄い」
声を、少し落としている。
「さっきの、上野の客の話よ。あの旦那、七軒町の呉服屋の番頭でさあ。あすこは、月末になると必ず、掛け取りに人を出す。決まった日に、決まった道を行く客だ。ああいうのを一人つかんでおくと、月に幾度か、堅い実入りになりまさあ」
源太は、そう言って、指を折ってみせた。
「月に三度として、一度が幾ら。ひと月で、これこれ。ばかにならねえでしょう」
銭の話になると、源太の口は、急に具体的な数字を並べはじめる。辰次には、その数字が、いつも半分ほどしか頭に入らない。だが、源太が自分のために勘定してくれているのだ、ということは、分かった。
「……ああ。覚えとく」
「覚えといてくだせえ。損料を引いて、手元にいくら残るか。そいつを、ちゃんと勘定してねえと、いつまでたっても借り俥のままでさあ」
源太は、そう言って、ふと口をつぐんだ。言い過ぎた、とでもいうように。
「――ま、兄いには、釈迦に説法か」
そうではなかった。辰次は、銭の勘定が苦手だった。それを、源太は知っている。知っていて、わざと「釈迦に説法」と言った。立ててくれているのだ。
源太は、いつもそうだった。世話を焼く。焼いておいて、焼いたそぶりを、すぐに引っ込める。頭を下げられるのを、何より嫌う男だった。
辰次は、その気遣いが、ありがたかった。ありがたくて――そのぶん、うまく礼が言えなかった。
「源太」
「へい」
辰次は、言いかけて、詰まった。すまねえ、の一言が、喉のあたりで、つかえた。この男には、詫びも、礼も、言い足りないことが、山ほどある。だが、それを口にしようとすると、いつも、言葉が引っかかる。
「……いや。なんでもねえ」
「なんでえ、気色わりい」
源太は、軽く笑って、話を流した。流すのが、うまい男だった。だが、その笑いの底に、ほんの一瞬、辰次のほうをうかがうような色が、走った。兄い、と立てて呼ぶ、その呼び方の下に、何か、二人のあいだにだけ通じるものが、澱のように沈んでいた。
辰次も、源太も、それには触れなかった。触れずに、日々の軽口で、上から蓋をしていた。
帳場に、亀蔵が座っていた。
ずんぐりと丸い身体を、帳面の前に据えて、煙管〈きせる〉を使っている。屋号のだるまと、よく似た形だった。だが、目だけは、少しも丸くない。宿の出入りを、その一対の目が、残らず見ている。
「親方。今日の分を」
辰次は、帳場の縁に、その日の稼ぎから、損料の分を数えて置いた。日締めの、借り俥の代である。亀蔵は、煙管を一服してから、その銭へ、ちらりと目をやった。数えもしない。目で、足りているのが分かるらしかった。
「上野の客を、裏筋で抜いたそうだな」
亀蔵が言った。誰から聞いたのか、もう耳に入っている。
「へい。大通りが、荷車で塞がっちまって」
「あの裏は、俥が通るには狭い」
「……通れやした。ぎりぎりで」
亀蔵は、また、煙管を吸った。煙を、ゆっくりと吐く。しばらく、何も言わなかった。褒めるでもなく、咎めるでもなく、ただ、辰次の顔を、一度、見た。
「駕籠なら、通れる道だ」
ぽつりと、そう言った。
辰次は、口をつぐんだ。この親方も、駕籠を知っている男だった。駕籠宿を、何十年と張った男である。狭い裏を駕籠がどう抜けるか、この人は、辰次より、よほどよく知っているはずだった。
「その脚を、俥で使えるようになるにゃ、ひと月かかると言った」
亀蔵は、煙管の雁首を、帳場の縁で、こつ、と払った。
「……まあ、ひと月と、少しは、たったか」
それだけだった。
褒め言葉では、なかった。だが、辰次には、それで足りた。この親方の口から出る言葉は、いつも、そのくらいの水量だった。それ以上を注げば、こぼれると知っているような、そういう言い方をする男だった。
辰次は、置いた銭から、目を上げた。損料を引いて、今日、手元に残る分は、わずかだった。だが、無くはなかった。ひと月前は、その日の損料を払うだけで、精いっぱいだった。それが、このごろは、ほんの少しだけ、残るようになっている。
いつか、と辰次は思う。
いつか、この借り俥ではなく、自分の一台を持つ。その日まで、あと、どれだけの「ほんの少し」を、積み上げればいいのか。数えようとして、やめた。銭の勘定は、苦手だった。
ただ、脚は、今日も、飯の種になった。
それで、今日のところは、よかった。
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