わたしが打つ前に
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIのメッセージ予測の話。
本文
朝の教室は、一時間目が始まるまでのあいだだけ涼しい。
瀬戸口七緒は窓際の席に鞄を下ろし、学校から配られた端末を開いた。起動音は、電子レンジが仕事を終えるときの音に少し似ている。天板はまだ夜の冷たさを残していて、指の腹に張りついた。
昨日の夜、友達へのメッセージを途中で放り出したまま眠ってしまった。七緒は入力欄をタップして、「き」と打つ。
――昨日はごめん、途中で寝落ちしてた。
灰色の細い帯になって、候補がひとつ浮かんだ。打とうとしていた言葉と、一字も違わなかった。
便利だな、と思った。その日はそれだけだった。
***
おかしいと感じたのは、一週間後だ。
候補が、打つ前に出るようになった。
入力欄を開いただけで、まだ指が触れてもいないのに、帯の中にはもう文章が並んでいる。しかもそれは、七緒が言おうとしていたことより、いつも少しだけ上手かった。
テスト前に落ち込んでいた同じ班の子へ、七緒はそのまま送った。
〈今日はもう寝よう。明日の朝、いちばん簡単なところから一緒にやろ〉
翌朝、その子は少し腫れた目で笑って言った。
「七緒って、言葉えらぶの、うまいよね」
うん、と七緒は答えた。喉の奥に、飲み込みそこねた氷のかけらみたいなものが残った。
部活の先輩へのお礼も、教科係の連絡も、母への言い訳も、帯はぜんぶ先に用意してくれた。文句のつけようがなかった。それは七緒が言いたかったことで、七緒が言うより角が取れていて、読んだ相手が必ず少しやわらかくなる文章だった。
六月の終わり、雨の夜だった。
日下部亘からメッセージが来たのは、十一時を回ったころだ。同じ委員会で、放課後によく喋る。それ以上のことは、七緒はまだ誰にも言っていない。
〈明日、ちょっと話したいことがあるんだけど〉
心臓が鳴った。窓を打つ雨の音が、急に大きく聞こえた。
返事を考える前に、七緒は入力欄を開いてしまった。開いただけだった。まだ何も打っていない。
帯には、もう文章が入っていた。
〈うん。わたしも、たぶん同じこと考えてた〉
七緒はしばらく、その一行を見つめていた。
嘘なら、まだよかった。嘘なら、消せばよかった。
でもそれは、正しかった。七緒がまだ自分でも言葉にしていなかったことを、端末は先に文にしていた。読んだ瞬間に、ああそうだ、わたしはそう思っている、と分かってしまった。
送信した。すぐに既読がついて、短い返事が来た。
〈よかった〉
嬉しいはずだった。実際、胸のあたりは熱かった。ただその熱が、どこから来たものなのか、七緒には分からなかった。
先に言われて困るのは、間違っているときではないのだと、そのとき初めて知った。合っているときだった。
***
七緒は設定画面を開いた。
入力支援、予測変換、文脈補完。並んだ項目を、上から順に切っていく。最後のひとつを切った瞬間、画面から灰色の帯が消えた。
真っ白な入力欄。カーソルが、一定の速さで点滅している。
亘に送る言葉を、今度は自分で探そうと思った。
……何も、浮かばなかった。
エアコンの音がやけに近い。窓の外では雨が続いている。七緒は膝を抱えたまま、点滅を数えた。三十回、五十回。
この半年、自分が打ってきた言葉のうち、どれが自分のものだったのか。思い出そうとして、ひとつも取り出せなかった。全部が候補に見えたし、全部が自分の言いそうなことだった。区別する手がかりが、どこにも残っていない。
指がようやく動いた。
「わ」
一文字だけ打って、止まる。次が出てこない。
――出てこないのに、頭の中には続きの形がある。〈わたし、たぶん、ずっと前から〉と、なめらかに角の取れた一行が、確かにそこにある。
それが自分の言葉なのか、いつか画面の帯で読んだ文章の記憶なのか、七緒にはもう分からなかった。
カーソルは、まだ点滅している。
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