第一章 遠回り③
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
三 字をなぞる
夜が更けて、だるま屋の車夫たちが、それぞれのねぐらへ引き上げていった。
通いの者は長屋へ帰り、住み込みの若い連中は、二階の大部屋で、じきにいびきをかきはじめる。辰次も住み込みの一人だったが、その晩は、すぐには上がらなかった。土間の隅、竈のぬくもりが、まだいくらか残っているあたりに、膝を抱えて座り込んでいた。
行灯の火を、一つだけ、細く灯している。油がもったいない。だが、真の闇では、できないことがあった。
辰次は、その日の稼ぎを、掌に広げた。
損料を、亀蔵の帳場に納めた残りである。数えるほどの銭でもなかった。それでも、一枚ずつ、指の腹で確かめるように、数えた。銭の勘定は、苦手だった。だが、この数えだけは、毎晩、欠かさなかった。指で覚えるより、ほかに、覚えようがなかった。
数え終えて、辰次は、その銭を、ぼろに包んで、懐の奥へ仕舞った。
それから、土間へ向き直った。
竈の脇に、掃き寄せた灰が、うっすらと溜まっている。飯炊きの婆やが、朝の火を落とした跡だった。辰次は、そばに転がっていた棒切れを一本、手に取った。焚き付けの残りらしい、短い、握りやすい枝だった。
灰の面を、掌で、そっと均す。
そして、その棒切れの先で、字を、書きはじめた。
一画。灰の上に、細い溝が走る。もう一画。それに、線を交える。辰次の太い指は、梶棒を握れば、鉄の帯の巻いた輪を、一日じゅう引きずって走れる。だが、この、軽い枝一本の先を、思うところへ運ぶのは、俥を引くより、ずっと難しかった。
書いているのは、二文字だった。
――早川〈はやかわ〉。
いつか、川より早えから早川よ、と、大見得を切って名乗った、その姓だった。得意の絶頂で、口が勝手に決めた名である。名乗るのは、造作もなかった。舌が回りさえすれば、名乗れる。だが、書くとなると、話は別だった。
「早」の字が、いけない。
上の横棒と、下の払い。その釣り合いが、どうしても取れない。上を大きく書けば、下が窮屈になる。下を伸ばせば、上が、ちんまりと縮こまる。灰の上の「早」は、いつも、どこかが傾いで、いまにも転びそうな格好をしていた。
辰次は、それを、掌で消した。
消して、また、書いた。
何度書いても、様にならなかった。子供の手習いなら、とうに書けていよう。げんに、二階で寝ている若い連中は、たいてい、自分の名くらいは書ける。書けぬのは、辰次だけだった。こうして竈の脇で灰に向かうのも、もう何度目か、数えるのもやめていた。それでも、様にならない。
担いでいたころは、字など、一度も要らなかった。要らずに、何十年、生きてきた。脚さえあれば、飯は食えた。いまだって、そうだ。字が書けずとも、俥は引ける。揺らさずに客を運べば、銭は入る。
字は、飯の種には、ならない。
それでも、辰次は、書いた。
なぜ、と自分でも、うまくは言えなかった。言葉にしようとすると、いつものように、喉のあたりで、つかえた。ただ、書けるようになりたい、という一事だけが、灰の上の、傾いだ「早」の字を、消しては書かせ、消しては書かせた。理屈は、脚と同じで、あとからついてくる。まずは、身体に覚えさせる。それが、この男の、ものを覚える唯一のやり方だった。
行灯の火が、じ、と鳴った。油が、そろそろ尽きる。
辰次は、棒切れを置いた。
最後に書いた「早川」を、しばらく、眺めた。相変わらず、傾いでいる。「川」の三本の縦棒だけは、まっすぐ引けていた。川は、易しい。ただ、上から下へ、三度、引けばいい。難しいのは、「早」のほうだった。
辰次は、その二文字を、掌で、そっと消した。
朝になれば、婆やが竈に火を入れる。灰はかき混ぜられ、今夜の手習いは、跡形もなくなる。それでいい、と辰次は思った。誰にも見せる字ではない。まだ、見せられる字ではなかった。
辰次は、立ち上がって、行灯の火を、吹き消した。
闇の中で、脚が、じんと重い。よく走った日の、心地よい疲れだった。担ぐ脚から、引く脚へ。ひと月と、少し。亀蔵の言った、その按配のとおりに、この脚は、少しずつ、俥に馴染んできている。
脚は、今日も、飯の種になった。
字は、まだ、書けない。
だが――と、辰次は、暗がりの中で、思った。
だが、それも、いつか。
「早」の横棒が、傾かずに引ける日が、いつか、来るかもしれない。来ないかもしれない。それは、まだ、分からなかった。分からないままで、よかった。
辰次は、梯子段を、そっと上った。
二階では、若い連中のいびきが、幾重にも重なって聞こえていた。その健やかな音の隅に、辰次は、身体を横たえた。
脚の疲れが、じきに、まぶたを重くした。
秋の夜は、更けていく。
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