登録された声
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと声変わりの話。
本文
その朝、片桐佑の声は、自分のものではない場所から出た。
喉の奥に砂を敷いたようなざらつきがあって、「おはよう」の「お」が、思ったより二段低いところに落ちた。台所の母が振り返って、少し笑った。
「風邪?」
「たぶん、寝起き」
冷蔵庫から出した牛乳は、指が痛くなるほど冷たかった。佑はコップを持ったまま、リビングの棚を見た。白い円筒――七年前から家にいる音声アシスタントが、いつもの緑の光を灯している。
「マメ、今日の天気」
光が、青にも緑にもならず、一度だけ点滅した。
「申し訳ありません。登録された声ではありません」
佑は口を開けたまま、しばらく動かなかった。
「マメ、おれだよ」
「申し訳ありません。登録された声ではありません」
母が横から「マメ、今日の天気」と言うと、円筒はすぐに答えた。午後から雨、傘を持って出るように。ぜんぶ、いつも通りだった。
「声、変わってきたのね」
母は洗い物の手を止めずに言った。「あとで登録し直しなさい。三分で終わるから」
「うん」
佑は答えたが、その日は登録し直さなかった。
***
次の日も、その次の日もだった。
朝ごはんの前に、佑はわざとマメに話しかける。天気を聞き、時間を聞き、意味のないことを聞く。返ってくるのはいつも同じ一文だった。
申し訳ありません。登録された声ではありません。
学校では、合唱コンクールのパート分けがあった。音楽の先生は佑の名前を読み上げてから、少し考えて「じゃあ、片桐はテナーね」と言った。去年まで、佑はソプラノの一番高いところを歌っていた。特にうまいわけでもなかったのに、あの音域は、出そうと思えば出た。今はもう、届かない。
休み時間、しゃべっている途中で声が裏返って、周りが笑った。佑も笑った。笑いながら、喉のあたりを手のひらで押さえていた。
夜、家族が二階に上がったあと、佑はリビングの明かりを消してマメの前に座った。緑の光だけが、床にうすい輪を作っている。
「マメ」
「申し訳ありません。登録された声ではありません」
「知ってる」
佑はそのまま、しばらく喋った。
部活でレギュラーを外されたこと。同じ班の子に言われたことが、思ったより長く引っかかっていること。父が単身赴任から戻る日が、また延びたこと。誰にも言っていないし、言うつもりもない。
マメは、聞いていた。認識できない声を、それでもマイクは拾っている。けれど誰の言葉としても記録されない。返事もない。
こんなに気楽に喋れたのは、ずいぶん久しぶりだった。
***
週末、母に言われて、佑はとうとう設定画面を開いた。
音声の再登録。画面の指示に従って、決められた文をいくつか読み上げる。低くなった、まだ自分でも慣れない声で。
「登録が完了しました。おかえりなさい、佑」
マメの言い方は、七年前とまったく同じだった。五歳の佑が、豆みたいだからという理由でつけた名前を、円筒は今も律儀に自分のものとして扱っている。
続けて、画面に確認が出た。
〈以前の音声プロファイルを削除しますか? 同一利用者の旧データは、認証精度の低下を防ぐため削除を推奨します〉
佑は指を止めた。
「……残しておくことは、できないの」
「旧プロファイルを保持した場合、認証の精度が下がります。推奨は削除です」
「精度は、下がっていいよ」
「設定を変更しますか」
変更します、と言おうとして、佑は言えなかった。
残しておいたところで、あの声はもう二度と出ない。取り出して聞ける形で保存されているわけでもない。ただ、去年までの佑が何万回もこの部屋で喋った、その痕跡みたいなものが、どこかの領域に数字として残っているだけだ。
残しても、意味はない。分かっていた。分かっていることと、指が動くことは別だった。
しばらくして、佑は削除を選んだ。
「削除が完了しました」
円筒の光が、緑に戻る。
「マメ、今日の天気」
「本日は晴れ、最高気温は二十九度です。水分をこまめに取ってください」
七年間、毎朝聞いてきたのと同じ調子だった。同じ調子で、佑の新しい声に、ちゃんと答えている。
佑は「ありがとう」と言った。低い声だった。もう裏返らなかった。
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