第二章 梶棒①
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。 人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。 急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。 ※本作は、生成AIを利用しています。
本文
一 頭を下げる
秋は、まだ浅かった。
日盛りの光は存外強いのに、朝夕の風だけが、いつのまにか涼しくなっている。それでも、着物の襟元には、まだ夏の湿りが残っていた。
辰次は、歩いていた。
俥ではない。両の脚だけで、地面を踏んでいる。肩には、荷縄の痕が、まだ赤く筋になっていた。半日、米俵を担いだ人足仕事の帰りだった。担ぐ肩は、覚えている身体だった。だが、こうして俥抜きに、ただの二本の脚で道を歩くのは、妙に頼りなかった。歩幅が合わない。急いでも、急いだ気がしない。
二の腕には、まだ肉のだぶつきが残っている。日に灼けきらぬ肌は、どこか土気色だった。木賃宿〈きちんやど〉で幾晩か荒れた名残が、まだ身体から抜けきっていなかった。
この夏、女房と、別れた。去り状に、爪印〈つめいん〉だけを捺して、渡した。所帯を畳んでからの坂は、思い出したくもなかった。だが、ある晩を境に、辰次は酒を断った。俥をやる、と決めた晩だった。決めたところで、脚を使わせてくれる先など、あるわけもなかった。あるとすれば、一人しかいなかった。
辰次は、辻の角に立って、待っていた。
この道を、源太が流していると聞いていた。人力車が二台、三台と行き過ぎるたび、辰次は目で追った。梶棒を握る男の顔を、一人ずつ確かめる。違う。違う。
四台目に、見知った顔があった。
軽い足取りで、客を乗せて走ってくる。手拭いの締め方に、覚えがあった。辰次は、辻の陰から出ていかず、その場に立ったまま、動かなかった。声をかけるのは、客を降ろしてからだ。それくらいの分別は、まだ残っていた。
源太は、客を近くの店先で降ろすと、梶棒を下ろし、手拭いで顔を拭った。それから、辻に立っている男に、ふと目を止めた。
目が、合った。
源太の顔から、一瞬、愛想の色が消えた。それから、驚いたように、口が開いた。
「……兄い?」
辰次は、頭を下げた。
深く、下げた。腰から折るように。
「……すまねえ」
声が、掠れた。
「この通りだ。今さら虫のいい話だが――もういっぺん、おれに脚を使わせてくんな」
喉が、詰まった。言いたいことは、まだ山ほどあった。詫びも、礼も、あのとき断った不義理も。だが、口に出せたのは、それだけだった。
源太は、しばらく、何も言わなかった。
梶棒を握ったままの手が、少し、揺れた気がした。それから、大きく息を吐いて、笑った。笑うと、目がなくなる顔だった。
「よしてくんな、兄い」
軽く、いなすような調子だった。
「頭なんぞ下げられたら、こっちの調子が狂わあ。――ま、脚は錆びてねえんだろ? なら話は早えや」
源太は、辰次の頭を上げさせるように、肩のあたりを、軽く小突いた。触れた手が、思いのほか、優しかった。
「あっしの宿に、口を利いてやる。今からでも、行こう」
早口だった。喜んでいるのを、隠すように早口だった。辰次には、それが分かった。分かったが、それを言葉にすれば、また源太は茶化して流すだろう。だから、黙って頭を上げた。
源太の目の底に、ほんの一瞬、うかがうような色が走った。あのとき断った男が、いま、こうして頭を下げに来た――その意味を測るような色だった。だが、それも、すぐに軽口の下に沈んだ。
「行こうぜ、兄い。陽のあるうちに」
三ツ辻横丁のだるま屋へ着いたのは、陽が傾きかけた時分だった。
帳場に座っていたのは、ずんぐりと丸い身体の男だった。煙管を使う手つきに、無駄がない。源太が耳打ちすると、その男は、煙管を置いて、辰次を見た。目だけが、鋭かった。
「脚を見せろ」
言われるまま、辰次は裾をからげた。丸太のように太い脛〈すね〉が、陽に晒される。亀蔵は、それを、しばらく見ていた。
「……ふん。担ぐ脚だな、まだ」
煙管を、また一服する。
「引く脚になるにゃ、ひと月かかる」
それだけだった。使うとも、使わぬとも、言わなかった。だが、亀蔵の目は、もう帳面のほうへ向いていた。決まった、ということらしかった。
宿入りの証文を、亀蔵は自分で書いた。身元請けと、借り俥の約定を兼ねた請け状〈うけじょう〉だった。請け人の欄に、源太が、慣れた手つきで自分の判を捺した。
「兄いの請け人は、あっしだ」
源太は、それを、何でもないことのように言った。だが、口を利いてくれた上に、判まで捺してくれる――その重みを、辰次は測りかねた。測りかねたまま、頭を下げようとして、源太の目に止められた。
「名は」
亀蔵が、筆を構えたまま言った。
辰次は、一瞬、詰まった。
「……早川だ」
舌の先に、覚えのある重みがあった。あの日は、名乗ることに、何の障りもなかった。いまは、違った。どん底で名乗るこの二文字は、何倍も重かった。
「早川、と」
亀蔵は、それだけ書き取った。詮索はしなかった。
傍らで、源太が、思い出したように、にやりとした。
「亀蔵の親方、知ってやすか。こいつの姓は、御上の御触れより前から、自分で名乗ってたんでさあ。去年、みんなが慌てて戸長のとこへ駆け込んで付けてもらった姓とは、わけが違う」
「……つまらねえことを言うな」
辰次は、短く返した。だが、悪い気はしなかった。源太は、それ以上は言わず、話を、笑いのほうへ流した。
筆を、辰次に渡そうとして、亀蔵は、その手つきを見て、途中で止めた。
「……書けねえのか」
辰次は、答えなかった。答える代わりに、右手の親指を、亀蔵の差し出した朱肉に押しつけた。指の腹に、ひやりと朱が広がる。それを、証文の名の下に、押した。
爪印だった。
丸く、赤い痕が、紙の上に残った。字の代わりに、自分の身体の一部を押しつける。それが、いま、辰次にできる、精一杯の名乗りだった。
亀蔵は、その爪印を、一瞥しただけだった。
「損料は日締めだ」
証文を畳みながら、言った。
「払えねえ日は、俥を置いていけ。それだけだ。鑑札〈かんさつ〉は、宿のほうで世話をする」
ねぐらは、二階の大部屋。若い連中と相部屋になる、と一言だけ告げられた。
帰りがけ、蔵の戸が半分開いているのが見えた。薄闇の奥に、埃を被った一挺の駕籠が、忘れられたように置かれている。轅も梶棒もない、古い担ぎ物だった。
辰次は、それを、一瞬だけ見て、目を逸らした。何かを問う気には、なれなかった。
その夜から、辰次は、だるま屋の人間になった。
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