二秒半
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
わたしは、たぶん、そこそこ顔がいい。自慢ではなくて、そういうものとして扱われてきた、という話だ。中学のときからずっとそうだった。告白された回数は数えていないけれど、数えなくてもいいくらいには、ある。だから、選ぶ側にいた時間のほうが長い。
本文
1
わたしは、たぶん、そこそこ顔がいい。
自慢ではなくて、そういうものとして扱われてきた、という話だ。中学のときからずっとそうだった。告白された回数は数えていないけれど、数えなくてもいいくらいには、ある。
だから、選ぶ側にいた時間のほうが長い。
そして、選べたことが一度もない。
三年前に買った腕時計が、二十四時間ずっと心拍を測ってくれている。わたしの安静時心拍は六十二。低いほうらしい。走ると百七十くらい。怖い映画で九十八。ジェットコースターで百三十四。
誰かと向かい合っているときに、これが八十を超えたことは、まだない。
体を触られたら、上がる。それは知っている。でもそれは誰でもそうなるので、意味がない。走ったら心拍が上がるのと同じで、あれはただの運動だ。あれを「好き」と呼んでいる人が世の中には大量にいるらしいけれど、わたしはそこまで馬鹿じゃない。
わたしが探しているのは、そういうのじゃない。
服を着たまま、離れて座っていて、何もしていないのに上がるやつ。
二十七年生きて、まだ一度もない。
2
去年別れた人は、たぶん、客観的には完璧だった。
背が高くて、仕事ができて、人当たりがよくて、わたしの誕生日に何が欲しいかを三ヶ月前から探っているような人だった。友達には全員に褒められた。ここで断ったら罰が当たる、と言われた。
一年つきあって、心拍の最高値は七十六だった。
別れ話をしたとき、彼は泣いた。何が足りなかったのかと聞かれた。
「なにも足りなくないよ」と答えた。それが本当のところだった。彼は本当に何も欠けていなかった。欠けていたのは、わたしのほうにある何かだ。
そのとき自分の時計を見たら、六十四だった。
人が目の前で泣いていて、六十四。
わたしはたぶん、どこかが壊れている。でも、壊れているなら壊れているで、直す前にまず、本当に動く条件を知りたいと思った。動かないまま誰かと結婚して、六十四のまま四十年過ごすほうが、よっぽど残酷だと思うから。
3
うちは、母がずっと体調を崩していた。
弟がよく熱を出す子で、母の手はそっちにいった。わたしは大丈夫な子だった。家のことは半分やっていたし、誕生日に何が欲しいかと聞かれて、本当に何も浮かばなくて困った記憶がある。
我慢していたわけじゃない。思いつかなかっただけだ。
こういう話をすると、みんな「それだよ」みたいな顔をする。過去を聞いて、勝手に線を引いて、わかった気になる。あれが一番いやだ。
わたしのことは、わたしが一番見ている。
4
戸倉さんに会ったのは、去年の四月だった。
わたしは小さなイベント会社で、夏の花火大会の運営をやっている。その年から花火の発注先が変わって、挨拶に行くことになった。
山のふもとの、工場というより納屋みたいな建物だった。
「すみません、こんにちは」
奥から出てきた男は、四十手前くらいで、背は普通で、顔は普通で、手が真っ黒だった。
名刺を差し出したら、「手、汚いんで」と言って受け取らなかった。
代わりに顎で作業台のほうを指して、そこに置いといて、と言った。そして戻っていった。
会話は二分で終わった。
わたしはそのとき、生まれて初めてに近い経験をしていた。
この人は、わたしの顔を一度も見ていない。
見ないようにしている、でもなかった。興味がなくて、視界に入れる必要がなかった、という感じだった。
車に戻って時計を見たら、六十三だった。安静時より低い。
腹が立った。
5
そのあと、打ち合わせで何度も通うことになった。
戸倉さんは、いつも同じだった。あいさつは適当で、質問には答えるけれど、それ以上は喋らない。世間話をしない。わたしを女として扱わないし、若い担当者として扱いもしない。
ただ一つだけ、例外があった。
玉の話をしているときだけ、この人は別人になる。
「これ、何ですか」
「四号玉」
「中に入ってるの、これ全部手で詰めるんですか」
「そう」
「何個ぐらい」
「この一個で、星が二百くらい」
「二百」
「同心円で並べる。ずれると、開いたとき歪む」
彼は玉の断面図を紙に描き始めた。何も聞いていないのに、二十分喋り続けた。色を変えるための薬、燃える速さの違い、開いてから消えるまでの時間。
わたしはそのとき、初めて聞いた。
「一発、何秒くらいなんですか」
「二秒半」
「……二秒半」
「うん」
「作るのに、どれくらいかかるんですか」
「一年」
わたしは思わず笑った。
「もったいなくないですか」
戸倉さんは顔を上げて、そこで初めてまともにわたしを見た。
「もったいないのがいいんだよ」
その日、車に戻って時計を見たら、八十四だった。
6
それから、わたしは用がなくても行くようになった。
理由はいくらでも作れた。仕様の確認、警備の相談、市への提出書類。半分くらいはメールで済む話だった。
戸倉さんは何も言わなかった。来れば作業の手は止めないまま喋るし、帰るときも顔を上げない。わたしがなぜ来ているのかを、聞かなかった。
たぶん、考えてもいなかったと思う。
そこがよかった。
わたしはずっと、見られる場所に立たされてきた。誰かがわたしを見ている、という前提のもとで、二十七年ぶんの生活をしてきた。それが当たり前すぎて、重いとも思っていなかった。
戸倉さんの納屋には、その視線がなかった。
数字は上がり続けた。七十九。八十一。八十四。八十八。
これだ、と思った。
7
八月の初めに、試し打ちがあると聞いた。
「見に行っていいですか」
「だめ」
「なんでですか」
「危ないから」
わたしは行った。
夜の九時、河川敷。軽トラのそばに戸倉さんと若い人が二人いて、わたしを見て固まった。
戸倉さんは、そのとき初めて怒った。
「なんで来た」
「見たかったからです」
「危ないっつっただろ」
「わたし、真剣なんですけど」
言ってから、自分でもいい台詞だと思った。実際そうだったから。わたしは真剣に、この人の作るものを見たかった。それを危ないの一言で断られるほうが、よっぽど失礼だと思った。
戸倉さんはしばらく黙って、それから「そこ動くな」と言った。
三発上がった。
一発目は失敗だったらしい。二発目もいまいちだと言っていた。三発目のとき、わたしは息を止めていた。
開いて、広がって、色が変わって、消えた。
二秒半。
時計を見たら、百六だった。
8
わたしは、その場で言った。
「戸倉さんのこと、好きだと思います」
戸倉さんは、玉の残骸を拾っていた手を止めた。
長い沈黙があって、それから、こう言った。
「……あー。ええと」
「返事、いらないです。言いたかっただけなので」
これも本当だった。わたしは答えが欲しかったんじゃない。二十七年待った数字が出たことを、誰かに言いたかった。
戸倉さんは困った顔をして、頭をかいて、それから、思いのほか丁寧に言った。
「悪くないと思うよ。あんたのこと」
9
その言葉を聞いた瞬間のことを、いまでもよく覚えている。
何かが、すっと下がった。
物理的にそう感じた。喉のあたりから、胃のほうへ、温度が落ちていく感じ。
わたしはあとで時計の記録を見た。
百六から、六十九まで、四十秒だった。
10
次に納屋へ行ったとき、戸倉さんはわたしの顔を見た。
「おう」と言って、手を止めて、お茶いる? と聞いた。
七十一だった。
その次は、六十八。
その次は、六十四。
わたしは三回ほど確かめて、それから行くのをやめた。
やっぱり違ったんだと思う。あの夜のは、花火のせいだったのかもしれない。あるいは、怒られて緊張していただけかもしれない。人間の体はいい加減なので、こういう誤検出はある。
きちんと確かめてよかったと思っている。もし確かめずに付き合っていたら、また一年、六十四のまま過ごすことになっていた。
戸倉さんからは、一度だけ連絡が来た。
「最近来ないけど、なんかあった?」
わたしは、返さなかった。
なんて返せばいいのか、本当にわからなかったから。あの人に悪いことをしたとは思っていない。わたしは嘘をついていないし、期待させたわけでもない。好きだと言ったのは本当で、そのあと違ったのも本当だ。両方本当なら、それはもう仕方がないことだと思う。
11
八月の終わりに、花火大会があった。
運営側なので河川敷の端にいて、無線を持って立っていた。上がったのは全部、あの納屋で作られたものだった。
最後の一発が、大きかった。
開いて、広がって、色が変わって、消えた。
わたしはそのとき、なんとなく思った。二秒半だから綺麗なんだろうな、と。あれが十分続いたら、みんな途中で飽きて帰ると思う。すぐ消えるから、消えるまでのあいだ、誰も目を離さない。
いいものって、たぶんそういうものだ。
時計を見たら、九十二だった。
思わず笑った。花火にはちゃんと反応するのだ、この体は。
じゃあ、大丈夫だ。壊れてはいない。
わたしの心拍は、ちゃんと上がる。百六まで上がるなら、上がる人はどこかにいるはずだ。何もしていないのに、離れて座っているだけで、二秒半じゃなくてもっと長く、上がり続ける人が。
そういう人が、どこかにいる。
今度は、もう少し早く見つけたい。