第二章 梶棒②
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
明治九年、神田・三ツ辻横丁の俥宿だるま屋。人力車に生業を奪われ、酒に沈んだ元駕籠舁きが、意地を捨てて頭を下げ、憎んだ当の俥の梶棒を握った。急ぎの客、詫びに行けぬ客、雪の夜の産——行き先の数だけ人生を乗せて、男は今日も走る。※本作は、生成AIを利用しています。
本文
二 引く脚
梶棒は、担ぎ棒とは、まるで別物だった。
肩に乗せて運ぶのではない。腰から先で、俥ごと引きずる。曲がり角で、力の抜き方を間違えれば、客の身体が、大きく外へ振られる。止まるときは、逆だった。急に力を抜けば、俥は前へつんのめり、背の客の頭が、がくりと前に落ちる。
辰次は、その両方を、その日のうちに、両方ともやった。
曲がりで客を振り、止まりでつんのめらせた。客は、舌打ちだけ残して、行ってしまった。銭は、置いていったが、顔は見なかった。
「おい、爺つぁん」
軒先で、若い車夫の一人が、遠慮のない声を投げた。
「その脚で、よく客を乗せる気になったな。担ぐ稽古と間違えてねえか」
どっと、笑いが起きた。若い連中は、四十に手の届く新参を、遠慮なく値踏みした。年季も、駕籠時代の名も、ここでは通じない。脚が全てだった。
「昔取った杵柄も、こっちじゃ勝手が違わあ」
辰次は、何も言い返さなかった。言い返す言葉を、持たなかった。ただ、拳を握って、それを、腹の底に沈めた。以前の辰次なら、拳を出していたかもしれない。だが、いまは、そういう張り方を、しなかった。
悔しさは、飲み込むしかなかった。飲み込んで、また、梶棒を握った。
「兄い、そう力むこたぁねえ」
源太が、通りすがりに、軽く言った。
「梶棒は、突っ張るもんじゃねえ。抱くようにして、脇を締める。曲がるときは、内側の腕を、ちょいと下げてやりゃあ、輪が勝手に曲がってくれまさあ。止まるときも、同じでさ。梶棒に聞きゃあいい。客が止まるのを察して身構えると、重みが、ふっと前へ来まさあ。来たぶんだけ、脚を落としてやりゃあいい」
言葉数は少ないのに、中身は的確だった。辰次は、それを、身体で試した。試して、また失敗した。だが、前よりは、少し、揺れが小さくなった気がした。
夜、稽古の帰り道に、縄暖簾の下がった店の前を通った。
灯りが、赤く漏れている。酒の匂いが、風に乗って流れてきた。
辰次の脚が、ふと、鈍った。喉の奥が、覚えている感触を、勝手に思い出した。あの生ぬるい、焼けるような味。忘れたわけではなかった。断って、まだ、日が浅い。
辰次は、足を止めなかった。
その代わり、手にした梶棒の柄を、強く握り直した。脇に挟んだ手拭いを、意味もなく、もう一度巻き直した。手と脚に、余計な仕事をさせる。それだけで、店の前を、通り過ぎることができた。
縄暖簾は、後ろへ流れて、見えなくなった。
辰次は、何も考えなかった。考えれば、また足が鈍る。ただ、歩幅を、少し速めた。
幾日か経った、ある日の午下がりだった。
乗せたのは、年配の商家の女房らしい客だった。荷物を膝に抱え、始終、身体を固くしている。曲がりで、辰次の脚は、また、いつものように迷った。だが、その拍子に、ふと、身体の奥から、覚えのある感覚が浮いた。
肩ではなく、脚で。だが、あの担いでいたころと、同じ呼吸だった。
客の身体が、右に傾いだ瞬間を、脚が読んだ。腰を、わずかに沈める。輪の当たりが、すっと、逃げた。次の角では、梶棒に来る重みを、待った。待って、脚を緩めた。
俥が、すうっと、滑るように止まった。
客が、荷物を抱え直しながら、ふと、辰次の背に声をかけた。
「……なんだか、駕籠みてえだね。昔、乗せてもらったことがあるよ」
独り言のような声だった。それだけ言って、客は、銭を渡し、去っていった。
辰次は、しばらく、その場に立っていた。
まだ、板についたわけではない。いまのは、たった一度、拾えた呼吸に過ぎなかった。次にまた同じようにできる自信は、なかった。だが、いま確かに、担いでいたころの脚が、この俥の上に、生きていた。
それだけで、その日の疲れが、いくらか軽くなった気がした。
その夜、だるま屋の二階から、若い連中のいびきが聞こえはじめても、辰次は、まだ土間にいた。竈のぬくもりが、まだいくらか残っているあたりに、膝を抱えて座り込んでいる。行灯の火を、一つだけ、細く灯していた。
その日の稼ぎを、掌〈てのひら〉に広げる。
損料を、亀蔵の帳場に納めた残りだった。雀の涙ほどの銭だった。木賃宿で食いつないでいたころとは、桁が違う。だが、確かに、自分の脚で稼いだ銭だった。人足仕事の日当とも違う重みが、そこにはあった。
一枚、また一枚と、指の腹で確かめるように数えた。銭の勘定は、苦手だった。だが、数えるだけなら、できた。数え終えて、ぼろに包み、懐の奥へ仕舞う。
それから、土間へ向き直った。
竈の脇に、灰が、うっすらと溜まっている。そばに、焚き付けの残りらしい、短い棒切れが転がっていた。辰次は、それを手に取った。
なぜ、こんなことを思いついたのか、自分でも、はっきりしなかった。ただ、指がむずむずして、じっとしていられなかった。手が空くと、余計なことを思い出す。昼間、縄暖簾の前で足が鈍ったときの、あの喉の疼きが、まだ消えていない。
だが、それだけでもない気がした。灰の面を、掌で均す。棒切れの先を、そこへ、下ろした。
書こうとしたのは、二文字だった。
――早川。
舌の先には、すぐに乗る。だが、棒切れの先は、思うところへ、ちっとも運べなかった。線が、あらぬ方向へ跳ねる。「早」の字どころか、まっすぐな一本の線すら、引けなかった。梶棒なら、一日じゅう握って、俥ごと客を運べる指だった。だが、この軽い枝一本の先を、意のままにするのは、まるで別の技だった。
辰次は、それを、掌で消した。
消して、また、線を引いた。何度やっても、字の形にすらならなかった。子供の手習いにも及ばない。いい年をした男が、竈の脇で、灰に向かって、まっすぐな線一本にてこずっている。人に見られたら、いい笑い草だった。
だから、夜に、一人でやった。
なぜ、いまさら、字なぞ。
そう問う声は、胸の底に、確かにあった。担いでいたころ、字なぞ、一度も要らなかった。要らずに、何十年も生きてきた。脚さえあれば、飯は食えた。いまだって、そうだ。
それでも、辰次は、棒切れを、灰に下ろし続けた。
理屈は、うまく言えなかった。ただ、この手が、何かを覚えたがっている。それだけは、確かだった。
行灯の火が、じ、と鳴った。
辰次は、棒切れを置いた。灰の上には、あらぬ方向へ跳ねた線が、いくつも残っている。字にはほど遠かった。それでも、辰次は、その線を、しばらく眺めた。
朝になれば、婆やが竈に火を入れる。灰はかき混ぜられ、今夜の跡形は、消えてなくなるだろう。それでいい、と思った。まだ、誰にも見せる字ではなかった。
辰次は、灰を、掌でそっと均した。行灯の火を、吹き消す。
闇の中で、脚が、じんと重かった。よく働いた日の、心地よい疲れだった。担ぐ脚から、引く脚へ。ひと月かかる、と亀蔵は言った。まだ、その端緒についたばかりだった。
脚は、今日も、飯の種になった。
字は、まだ、線にすらならない。
だが――と、辰次は、暗がりの中で、思った。
脚は、日ごとに、少しずつ、温まってきている。それだけは、確かだった。
辰次は、梯子段を、そっと上った。二階のいびきの隅に、身体を横たえる。
秋の夜は、まだ、浅かった。