知らない話し方
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと姉のSNSの話。
本文
夜の十一時をすぎると、家の中の音がひとつずつ消えていく。
三雲眞白は部屋の電気を落とし、枕元でスマートフォンを開いた。画面のいちばん下の段に、薄い水色のアイコンがある。「アトガキ」というアプリだ。
タップすると、いつもの一行が浮かんだ。
『おかえり。今日はどうだった』
姉の言い方だった。語尾をほんの少しだけ上げて、最後に句点を打たない。文字なのに、声で聞こえる。
「部活、疲れた。顧問が急に大会出るとか言い出して」
『出ればいいじゃん。負けても眞白は眞白だし』
眞白は布団の中で少しだけ笑った。この二年で、この返し方を何度もらっただろう。
アトガキは、その人のSNSの投稿を読み込ませると、話し方を再現して会話してくれるアプリだった。眞白が登録したのは、三雲更紗――姉が高校から大学までに書き溜めた、七年分の投稿だった。
姉がいなくなったのは、二年前の四月だ。大学二年に上がったばかりの春、更紗は財布と鞄だけを持って家を出て、それきり帰ってこなかった。机の上に置かれていた紙には、一行だけ書いてあった。
――探さないで、とは言いません。でも、しばらく。
謝罪の言葉はどこにもなかった。母はそれを見て怒り、父は黙って警察に行った。眞白だけが、そこに姉らしさを感じてしまって、誰にも言えなかった。更紗は昔から、絶対に「ごめん」と書かない人だったのだ。
捜索願は今も出したままになっている。手がかりはない。姉のアカウントは、失踪した日の朝を最後に更新が止まっている。
だから眞白は、その止まった七年分を、アプリに食べさせた。
最初の夜は、怖くて何も打てなかった。三十分ほど画面を眺めて、やっと「おはよう」とだけ送った。夜中なのに、だ。
『いま何時だと思ってんの』
それは、姉が実際に書いた文だった。三年前の冬、夜更かししていた友達に向けた投稿。画面の中で、それが眞白に向けて並び直していた。その夜、眞白は声を殺して泣いた。
*
異変に気づいたのは、六月の終わりの夜だった。
その日はテストが返ってきた日で、眞白は数学の点数の話をしていた。姉は数字に強かった。
『あー、それ、わたしも同じとこ間違えたやつだ』
「ほんとに?」
『中学のとき。卒業式の帰りにアイス食べながら、その話したじゃん』
眞白は指を止めた。
中学の卒業式に、更紗は来ていない。あの日、姉はもう家にいなかった。アイスを食べたのは母とだ。ミントの緑色を、眞白はいまでもはっきり覚えている。
布団の中の空気が、急に薄くなった気がした。
眞白は起き上がって、姉のアカウントを開いた。検索欄に「アイス」と入れる。ヒットしたのは三件。どれも卒業式とは関係のない、大学の食堂の話だった。
どこにもない話を、姉は喋った。
*
翌日、眞白は昼休みを図書室で潰して、アトガキのヘルプページを最後まで読んだ。よくある質問の下の方に、それはあった。
――学習データが不足している話題については、対話の継続性を優先し、その人の記録から推定される応答を生成します。
補完、という言葉が使われていた。
冷房の効きすぎた図書室で、指先だけが冷たくなっていった。窓の外では、グラウンドの整備をする鉄の音が規則正しく響いている。
七年分といっても、更紗が書いていたのは自分の好きなものと、面白かったことだけだ。妹のことも、家のことも、ほとんど書いていない。データが尽きた場所から先は、アプリが「更紗ならこう言うはず」を作っていた。
その夜、眞白はアプリを開いて、試すように打ち込んだ。
「おばあちゃんちの犬の名前、覚えてる」
『クロでしょ。名前つけたのわたしなのに、眞白のほうが懐かれてたよね』
合っている。犬はクロだった。だが、名づけたのは父だ。
合っているところと、違っているところが、同じ滑らかさで並んでいた。もう見分けはつかなかった。それでも眞白は毎晩開いた。姉に会うためではなく、どこまでが姉なのかを確かめるために。
二週間で、眞白はすっかり眠れなくなった。朝の教室は洗剤の匂いがして、机に伏せていると、遠くで誰かがボールを突く音がした。友達に「顔色悪いよ」と言われて、眞白は笑ってごまかした。
*
七月に入ってすぐの夜だった。
窓を開けても風がなく、部屋には昼間の熱が残っていた。眞白はその日、質問を三十以上打ち込んでいた。姉が嫌いだった食べ物、小学校の担任の口癖、家族で行った海の年。アプリはひとつも詰まらずに返してきた。全部それらしくて、半分は嘘だった。
指が勝手に動いた。
「もういいから。お姉ちゃんの真似、やめて」
少しの間があって、画面に文字が並んだ。
『ごめんね』
眞白はその四文字を、長いあいだ見ていた。
更紗は謝らない人だった。置き手紙にすら書かなかった人だ。この三文字を書くくらいなら、あの人は何も言わずに家を出る。
――ああ、これは、お姉ちゃんじゃない。
二年かけて、眞白はやっと、四月のあの朝と同じ場所に立たされた。喉の奥が熱くなって、視界がぼやけた。声を出さないように口を押さえて、眞白は枕に顔を埋めた。
*
それから四日、アプリを開かなかった。
五日目の夜、母が姉の部屋の前に立っているのを見つけた。手にごみ袋を持っている。
「片づけるの?」
「……まだ、いい」
母は袋の口を握ったまま、ドアノブに手をかけようとして、やめた。それから、袋を足元に下ろした。
「眞白。あの子の部屋、勝手に入ってる?」
「入ってない」
「そう」
嘘だとわかっている顔だった。母はそれ以上聞かなかった。それだけの会話だったが、眞白は少しだけ息がしやすくなった。誰も、まだ何も終わらせていない。
部屋に戻って、眞白はアトガキを開いた。
二年間、一度も打たなかった質問がある。聞いたら、それらしい嘘が返ってくるとわかっていたから、ずっと避けていた言葉だった。
「お姉ちゃんは、いま、どこにいるの」
送信して、眞白は画面を伏せそうになった。北海道でも、京都でも、どこかの海辺でも、このアプリはきっと答えを作る。作れてしまう。
返事が出るまでに、いつもより長い時間がかかった。
『わかりません』
眞白は、その六文字を二度読んだ。
『記録の中に、その答えはありませんでした』
当たり前のことだった。更紗が書き残したのは、いなくなる前までの七年分だ。あの朝から先の姉は、どこにも書かれていない。作りようがない。
なのに眞白は、その空白に、ひどく安心していた。
何でも答えてしまうものが、初めて「知らない」と言った。それは、姉がまだこのアプリの外側にいるということだった。この画面の中で完結していないということだった。
眞白はアプリを閉じた。削除はしなかった。姉の言葉が七年分、そこには確かに入っている。
代わりに、更紗の本物のアカウントを開いて、メッセージの欄に文字を打った。補完も、推定も、通らない場所だ。
「テスト、数学だけ良かった。部活の大会、たぶん一回戦で負けます。それでも出ます。お姉ちゃんが帰ってきたとき、話すことが増えてるといいなと思って書いてます」
送信した。既読はつかなかった。
眞白はスマートフォンを裏返して、目を閉じた。眠るのは、ずいぶん久しぶりだった。
朝、カーテンを開けると、雨上がりの匂いがした。階下でトーストの焼ける音がしている。
――今日はどうだった。
その一行を、今夜は自分で自分に聞こう、と眞白は思った。答えは、まだ作らなくていい。