みずいろの一本
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIとわすれものの話。
本文
朝の七時半になると、ランドセルが小さく光る。
ふたを閉めたまま玄関に立つと、中に入っている物をぜんぶ読みとって、玄関の鏡の横の画面に出してくれる。「ミテル」という忘れ物チェックの仕組みだ。四年生になった春、学校からみんなに配られた。
日高紬がランドセルを背負うと、画面に文字が並んだ。
『国語のノート、あります。算数のドリル、あります。体育着、ありません』
「あ、やば」
紬はあわてて部屋にもどった。たたんだままの体育着を押しこんで、もう一度玄関に立つ。
『体育着、あります。今日の持ち物は、そろっています』
ミテルはそれだけ言って、静かになる。ほめたりはしない。足りない物と、足りている物を言うだけだ。
「行ってきます」
台所からお母さんの「気をつけてね」が飛んできた。
*
その日の五時間目は図工だった。
鵜野杏が泣いたのは、絵の具ではなく、色えんぴつのせいだった。
杏はいつも、空を塗るときにみずいろを使う。うすいところと濃いところを重ねて、うまく空にするのだ。紬はそれを見るのが好きだった。
でもその日、杏の筆箱にみずいろがなかった。
「ない。ここに入れたのに」
杏は筆箱をひっくり返して、机の下ものぞきこんで、それでも出てこなくて、だんだん声が小さくなった。となりの子が「青でいいじゃん」と言った。杏は首を横にふって、それから、うつむいたまま動かなくなった。
結局、杏の画用紙の空だけが、白いままで終わった。
紬は自分の筆箱を見た。みずいろは、まだ半分より長い。貸すよ、と言えばよかった。言えばよかったのに、五時間目のあいだじゅう、紬の口はひらかなかった。
*
その夜、紬はふでばこを開けて、みずいろの一本を取り出した。
あした、机に置いておこう。何も言わずに置いておけば、杏はきっと気づく。
紬はそれをランドセルの前のポケットに入れた。ふたを閉めて、少し考えて、また開けた。
――でも、勝手に置いたら、変かな。
同じクラスというだけで、そんなに話す相手でもない。おせっかいだと思われたら、明日から気まずくなる。それに、杏はもう、新しいのを買ってもらっているかもしれない。
紬はみずいろを取り出して、つくえの上にもどした。ランドセルのふたを閉めた。それでも気になって、もう一度入れた。三分後、また出した。
最後に紬は、それをつくえのはしっこに置いたまま、電気を消した。
*
次の朝、紬はランドセルを背負って玄関に立った。
画面に文字が出る。
『国語のノート、あります。連絡帳、あります。今日の持ち物は、そろっています』
よかった、と思ったところで、文字が一行増えた。
『今日は、みずいろの色えんぴつを持っていってください』
紬は動けなくなった。
時間割に、図工はない。今日は月曜で、五時間目は音楽だ。色えんぴつを使う授業はひとつもない。
「なんで」
思わず声に出していた。ミテルは、質問には答えないはずだった。それなのに、少し間があってから、次の行が出た。
『昨日の夜、九時から九時二十分のあいだに、この一本は、三回入って、三回出ました』
紬は玄関に立ったまま、その一行を見つめた。
『いちばん多く出し入れされた物を、お知らせしています。忘れやすい物だからです』
そういう仕組みなのだ、と紬はわかった。ミテルは杏のことなんて知らない。泣いていたことも、白いままの空のことも、何ひとつ知らない。ただ、ふたが開いた回数を数えていただけだ。
それでも、紬の胸のあたりが熱くなった。
わたしは、三回も入れたのだ。
やめようと思ったのに、そのたびに、もう一度入れたのだ。
*
「行ってくる」
紬は部屋にもどって、つくえのはしのみずいろをつかんだ。ランドセルの前のポケットに入れて、今度はもう出さなかった。
教室に着くと、杏はもう座っていた。紬は自分の席に鞄を下ろして、それから、みずいろの一本を持って、杏の机の前に立った。
何と言えばいいのか、ひとつも考えていなかった。
「これ」
出てきたのは、それだけだった。
杏が顔を上げた。目のふちが少し赤かった。
「……いいの」
「うん。わたし、空、あんまり描かないから」
ほんとうは、空はよく描く。でも今は、それでいいと思った。
杏はみずいろを両手で受け取って、しばらく見てから、小さく笑った。
「ありがとう。今日、図工ないのにね」
「うん。ないね」
二人で笑った。となりの席の子が「なに」と言って、そのままチャイムが鳴った。
*
その日の帰り、玄関でランドセルを下ろすと、画面がひとつだけ文字を出した。
『みずいろの色えんぴつ、ありません』
忘れ物です、と続くはずだった。でも紬は、忘れてなんかいなかった。
紬は画面に向かって、言ってみた。
「あれは、渡してきたの」
ミテルは、何も返さなかった。持ち物を数えるだけの仕組みだから、当たり前だ。
それでも紬は、明日の朝もこの前に立とうと思った。何かをランドセルに入れて、迷って、出して、また入れる。そういう夜のことを、この機械はちゃんと数えている。
自分が三回も迷ったことを、教えてくれる相手が家にいるというのは、悪くなかった。