今日の要約
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
日記AIの話。
本文
一 変わったことは、ありませんでした
夜の十二時をまわると、スマートフォンが小さく震える。
舟越環はベッドの上で寝返りを打ち、画面を明るくした。通知はいつも同じアプリからだ。「あらすじ」という名前の、一日を自動で日記にまとめてくれるアプリ。
――八月三日(月)のあらすじができました。
タップすると、白い紙のような画面に、たった一行だけが浮かんだ。
『今日はとくに変わったことは、ありませんでした』
環は画面を見つめたまま、少しのあいだ動かなかった。
同じ一行が、これで十七日続いている。
このアプリを入れたのは五月の終わりだ。クラスの子が「勝手に日記書いてくれるからラク」と言っていて、面白半分で入れた。学期中のあらすじは、もっとにぎやかだった。
『午前中は眠そうでしたが、昼休みから急に元気になりました。放課後、部活の話題で長く盛り上がりました。今日いちばん多く出てきた言葉は「無理」でした』
読み返すと恥ずかしくなるくらい、そこには環がいた。
それが、夏休みに入った日から、ぱたりと一行になった。
環はアプリを閉じて、天井を見上げた。エアコンの風が、カーテンの裾をゆっくり揺らしている。窓の外では、まだ蝉が鳴いていた。夜なのに鳴くんだな、と思って、それを誰にも言わないまま目を閉じた。
二 言葉にしないと、残らない
次の日、環は自転車で三十分かけて、行ったことのない駅まで行った。
商店街を端まで歩いて、古そうな喫茶店に入ってクリームソーダを頼んだ。緑色の炭酸がぱちぱち鳴るのを、スプーンでつついて眺めた。駅前の本屋で二時間立ち読みをして、帰りに川沿いの土手で夕日を見た。写真も撮った。汗だくで帰宅して、シャワーを浴びて、麦茶を三杯飲んだ。
これだけやれば、さすがに何か書かれるだろう。
その夜、通知が震えた。
『今日はとくに変わったことは、ありませんでした』
環は思わず声を出しそうになって、こらえた。
こらえたことにも、誰も気づかなかった。
アプリのヘルプページを開いたのは、その次の日だ。細かい文字を指でたどっていって、環はある一文の前で止まった。
――あらすじは、その日にあなたが《《書いた言葉》》をもとに作成されます。メッセージ、投稿、メモ帳の記録などが対象です。
環は自分の送信履歴をさかのぼった。
七月十九日を最後に、そこは真っ白だった。
家族とは話している。母に「ごはんいる」と聞かれて「いる」と答えている。父の車で買い物にも行った。でもそれは、打ってはいない。打った言葉が、ひとつもない。
グループのやりとりは毎日流れてくる。花火大会の写真も、誰かのぼやきも、全部見ている。既読だけつけて、環は何も打たなかった。何を打っても、七月十九日の話に触れないのは嘘みたいで、触れるのはもっと無理だった。
その夜、環はメモ帳を開いた。
誰にも送らないなら、いくらでも書ける気がした。実際、書けた。部活を辞めた日のこと。顧問に呼ばれて、うなずいて、それだけで終わってしまった放課後のこと。辞めることを袴田音羽に言わなかったこと。次の日、音羽が体育館の入口で待っていた顔のこと。
千二百字くらい打って、環は保存した。
これなら、さすがに何か変わるだろう。
十二時。通知。
『今日、あなたは長い文章を書きました。どこにも送りませんでした』
環はスマートフォンを裏返して、枕に顔を押しつけた。
機械にまで言われるのか、と思った。
三 二十三時四十一分
八月の終わりが近づいた夜、遠くで花火の音がした。
どん、と腹に響く音が、少し遅れて窓を鳴らす。ここからは見えない。ベランダに出ても、空の端がぼんやり明るくなるだけだ。環はサンダルを引っかけて、手すりに肘をついた。
音が三回続いて、途切れた。
去年の同じ日、環は音羽と河川敷にいた。人が多すぎて、はぐれて、結局最後の十分だけ並んで見た。汗と、焼きそばのソースと、火薬の匂いがした。音羽は花火が上がるたびに「うわ」としか言わなかった。
あのときのことを書けば、また千二百字くらい書けるだろう。書いて、保存して、また一行が増えるのだ。『どこにも送りませんでした』と。
環は部屋に戻って、七月十九日で止まっているトーク画面を開いた。
最後のメッセージは音羽からだった。
『なんで先に言ってくれなかったの? それだけ』
一か月半、この八文字と十一文字を、何十回も読んだ。返せる言葉を探して、探すたびに時間が経って、時間が経つほど返しにくくなった。
環は文字を打ち込んだ。打っては消して、また打った。
うまい説明も、ちゃんとした謝り方も、結局ひとつも出てこなかった。
最後に残ったのは、これだけだった。
『花火の音、そっちも聞こえた?』
指が震えた。それでも送信を押した。
押してしまうと、画面はただの画面に戻った。何も起きない。既読もつかない。環はスマートフォンを枕元に置いて、電気を消して、目を閉じた。まぶたの裏で、心臓の音がやけに大きかった。
どのくらい経ったのか、通知が震えた。
目を開けて、環は画面を見た。
『八月二十七日(木)のあらすじができました』
タップする。白い画面に、文字が浮かぶ。
『今日はとくに変わったことは、ありませんでした』
その下に、もう一行あった。
『ただし、二十三時四十一分に、一通』
環はその二行を、何度も読み返した。おかしな日記だと思った。何も変わっていないと書いておきながら、わざわざ時刻まで書いている。
画面の上に、別の通知が重なった。
音羽の名前だった。
『聞こえた』
環は布団の中で、声を立てずに笑った。それから、返事を打ち始めた。今度は、消さなかった。