引き継ぎ資料
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと退職の引き継ぎの話。
本文
不良品は、音でわかる。
寺尾克己は、ステンレスのトレイに軸受けリングを落とした。ちん、と高く澄んだ音が鳴る。合格だ。次の一つを落とす。ちん。次。ちん。次――こつ、と少し濁った。
寺尾はそれを拾い上げ、指の腹で内側の縁をなぞってから、赤いカゴのほうへ置いた。
「今のを、言葉にしてもらえますか」
横に立っていた樫村茉優が、タブレットを構えたまま言った。入社五年目、生産技術課。寺尾より四十歳近く若い。
「音が濁った」
「どのくらい濁ると駄目なんですか」
「駄目なくらい濁ったら駄目だ」
「……それだと、教えられないんです」
冬の朝の検査室は、金属と切削油の匂いがする。寺尾は三十八年、この匂いの中にいた。
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定年は三月末と決まっていた。
後任の募集はかけたらしい。二年かけて、応募はゼロだった。この工程は自動検査機を三度導入して三度とも失敗している。数値ではじけない不良が、どうしても一定の割合で流れてしまうからだ。
会社が出した四度目の答えが、これだった。
「継承プロジェクト、社内呼称はTK-2です」
樫村は事務的にそう言った。寺尾克己の、二号機。
「三十八年を、三か月でか」
「三か月しかありません」
「無理だな」
「はい。でも、寺尾さんが辞めたあとにこの工程を続ける方法が、いまはこれしかないんです」
樫村は目をそらさなかった。寺尾は湯呑みの中の茶が冷めていくのを見て、それから、わかったと言った。
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やることは単純だった。
いつもどおり検査をする。ただし一つ手に取るたびに、なぜそう判断したかを口に出す。マイクが拾い、センサーが同時に打音の波形と表面の粗さと重心のずれを記録する。寺尾の言葉と数値が、一組ずつ紐づけられていく。
「縁が指に引っかかる」
「重さが、ほんの少し前に寄ってる」
「見た目はいい。……いいんだが、なんか嫌だ」
「『なんか嫌』も入れます」と樫村は言った。「そのままでいいので、続けてください」
二週目には、寺尾は自分がこれほど喋る人間だったのかと驚いた。三週目には、言葉が減った。説明できるものは、もうあらかた渡してしまっていた。
残りは、渡し方のわからないものばかりだった。
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二月の半ばの朝だった。
検査台に着くと、モニターにすでに一件、表示が出ていた。まだ寺尾が触っていないリングだ。
〈保留:要確認〉
寺尾はそれを手に取った。目で見る。異常はない。指でなぞる。……縁の、ほんの一部だけ、かすかに引っかかった。落とす。こつ。
「……駄目だな、これは」
声が少しかすれた。
樫村が背後で息を吸うのがわかった。彼女は何も言わず、タブレットに何か打ち込んだ。
寺尾は自分の右手を見た。三十八年、この手が最初に気づいてきた。今朝は、機械のほうが先だった。
誇らしいような気がした。同時に、腹の底のほうが、すっと冷えた。
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三月に入って、精度は99.2%に届いた。
会社は導入の拡大を決めた。検査班の若手二人に、別工程への配置転換が通達された。ひとりは「楽になりますね」と笑った。もうひとりは、その日一日、寺尾と目を合わせなかった。
その夜、寺尾は樫村に言った。
「もう、教えることはない」
「まだ二週間ありますけど」
「出がらしだ。これ以上絞っても、何も出ない」
樫村は少し黙ってから、ログの記録を停止した。
更衣室で作業着を脱ぐとき、ロッカーの扉の内側に貼ったままの工程表が目に入った。色があせて、字が読めなくなっている。二十年以上前に自分で書いたものだ。
自分の代わりを作ったつもりだった。作ったのは、たぶん、そうではなかった。三十八年ぶんの手の感覚は、いまサーバーの中で数値の並びになっていて、その並びが二人の若手から仕事を取り上げた。
寺尾はしばらく、扉を閉められずにいた。
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三月三十一日。最終出社日。
午後、樫村に呼ばれて端末の前に座った。継承処理の完了確認だという。画面には項目がずらりと並び、その下に一行あった。
〈継承率 98.6% 未取得項目:1〉
「まだ何か残ってるのか」
「……はい。TK-2から、質問が出ています」
樫村がキーを叩くと、画面が切り替わった。
『最後にひとつ、教えてください。あなたはなぜ、この仕事を続けたのですか』
寺尾は画面を見た。下に入力欄がある。カーソルが、規則正しく点滅していた。
音が濁る、と彼は言葉にできた。指に引っかかる、とも言えた。なんか嫌だ、まで渡した。渡せるものは全部渡したつもりだった。
なのに、これには一文字も打てなかった。
給料のためだ、と打とうとして、指が止まった。嘘ではないが、本当でもない。ほかに仕事がなかった、も同じだった。三十八年をそれで説明するには、三十八年は長すぎた。
カーソルは点滅を続けている。
寺尾は結局、何も入力せずに完了ボタンを押した。
〈未取得項目:1〉の表示は、そのまま残った。
夕方、花束を渡された。門を出るとき、工場の中でまだ機械が動いている音がした。
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電話が鳴ったのは、それから二週間後の火曜日だった。
「寺尾さん、樫村です。……ご相談があって」
TK-2が一件、判定を保留にしているという。打音も、粗さも、重心も、すべて基準の内側。それでも通していない。理由の欄には、こう出ているらしい。
〈判断できません〉
「私が押せば、通せます。でも」
「通したくないんだな」
「はい」
寺尾は受話器を持ち替えた。窓の外は、よく晴れていた。
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検査室の匂いは、二週間前と何も変わらなかった。
寺尾は上着を脱ぎ、袖をまくって、そのリングを手に取った。目で見る。指でなぞる。トレイに落とす。
こつ。
――ほんのわずかに、音が重かった。
「駄目だ、これは」
『理由を教えてください』
スピーカーから声が返ってきた。低くも高くもない、誰の真似でもない声だった。
寺尾は少し笑った。
「気になったからだ」
言ってから、自分の言葉が耳の奥に残った。
朝、シャッターを上げたときの匂いが気になった。前の日に流した二千個のうちの一つが気になった。若いのが持ってきた不良の理由が気になった。三十八年、毎朝ずっと、何かが気になり続けていた。それだけだった。
「……ああ。そうか」
あの質問の答えは、ずっと手のひらの中にあったらしい。
「なあ樫村さん」
「はい」
「あの未入力のやつ、まだ空いてるか」
樫村が、タブレットから顔を上げた。その目のふちが、少し赤かった。
「空いてます。ずっと」
「……じゃあ、来週にでも埋めに来る」
「週に一度、来てもらえませんか」
寺尾はリングを赤いカゴに置いた。
こつ、と、今日いちばん確かな音がした。