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赤い実ひとつ

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/8/6 📝 1,213文字 ✅ 全年齢

あらすじ

今日は祝いの日だ。一度は駄目になった畑でトマトが採れた。神父さまにも食べていただきたかったなぁ。

本文

 屋根が崩れ、壁も壊れた教会に、僕は慎重に入っていった。当然誰もいない。割れた窓から光が入って、埃っぽい空気をきらきらと照らしていた。もはやここは屋内とは言い難い。空気は道に立った時と同じ匂いがした。

 かつて礼拝堂だった場所には、ピアノが残されていた。誰も弾かなくなって久しい。おそらく、もうまともに音は出ないだろう。

 そっと鍵盤の上の埃を払う。

 僕にはピアノは弾けない。もちろん、調律なんてできるわけがない。このピアノのあるじがいなくなって、どれだけの時間が過ぎただろう。

 このピアノを大事にしていたヒトの顔が思い浮かぶ。

「神父さま」

 つぶやいた声は小さく震えた。この場所の静けさを壊すことが何故か怖かった。

 持ってきたバスケットから、歪なトマトをひとつ取り出した。僕はそれを爪で傷つけないように、静かにピアノの上に置いた。

「やっと実りましたよ」

 僕の言葉に返事がくることはない。わかっていても、言わずにいられなかった。

 誰に対してでもなく、ただ思い出に向かって語り掛ける。

「焦げた地面を耕して。畑を作り直して、何度も試して、やっとです。ようやく、食べられるものが採れました。土の力は少しずつ戻ってきています」

 形は悪くてもちゃんと赤いトマトだ。初めての収穫は本当に嬉しかった。

「神父さまにも、食べていただきたかったなぁ……」

 それが叶わないことはよくわかっている。

 視界がわずかににじんだ。

 教会には誰も来ない。ここで泣いても誰も見ない。それでも、僕は泣きたくなかった。

 だって今日は、一度は完全に滅びたかと思われたこの場所で、またトマトが収穫できた祝いの日だ。

「神父さま」

 かつてここにいたヒトのことを思う。僕を助けてくれて、食べさせてくれて、暖かい毛布をくれたヒト。優しいという言葉の意味を僕に教えてくれたヒト。

「ごめんなさい、僕がいたから」

 泣きたくないと思ったのに、駄目だった。教会が壊されたのは、僕のせいで。神父さまがいなくなったのも僕のせいだった。

 この町は、もうずっと前に焼き払われた。強烈な魔法で町は滅んで、ヒトは誰も残らなかった。土には呪いと瘴気が染みついた。誰も住めない場所になった。この町のヒトたちが、優しすぎたからだった。

 ピアノの上のトマトを見る。つやつやとは言いがたいけど、ちゃんと赤い。ヒトが食べても大丈夫なトマトだ。

 ここにトマトを置いても、神父さまに届かないのはわかっている。ただの僕の自己満足でしかない。そのうち、ネズミか鳥か、小さな生き物がこれを見つけて片付けるだろう。

 トマトのその形はちょっとだけ、心臓に似ていた。

 割れた窓からの光が、オレンジ色を帯びてくる。もうそんな時間なのだ。僕はピアノから離れた。床に散乱する瓦礫に気を付けて歩く。一度振り返って、でも、やっぱり神父さまはもういない。

 夕焼けの光が僕の影を長くする。化け物と罵られた、角のある異形の姿が割れた床の上に伸びた。

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夕月ねむ

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