赤い実ひとつ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
今日は祝いの日だ。一度は駄目になった畑でトマトが採れた。神父さまにも食べていただきたかったなぁ。
本文
屋根が崩れ、壁も壊れた教会に、僕は慎重に入っていった。当然誰もいない。割れた窓から光が入って、埃っぽい空気をきらきらと照らしていた。もはやここは屋内とは言い難い。空気は道に立った時と同じ匂いがした。
かつて礼拝堂だった場所には、ピアノが残されていた。誰も弾かなくなって久しい。おそらく、もうまともに音は出ないだろう。
そっと鍵盤の上の埃を払う。
僕にはピアノは弾けない。もちろん、調律なんてできるわけがない。このピアノのあるじがいなくなって、どれだけの時間が過ぎただろう。
このピアノを大事にしていたヒトの顔が思い浮かぶ。
「神父さま」
つぶやいた声は小さく震えた。この場所の静けさを壊すことが何故か怖かった。
持ってきたバスケットから、歪なトマトをひとつ取り出した。僕はそれを爪で傷つけないように、静かにピアノの上に置いた。
「やっと実りましたよ」
僕の言葉に返事がくることはない。わかっていても、言わずにいられなかった。
誰に対してでもなく、ただ思い出に向かって語り掛ける。
「焦げた地面を耕して。畑を作り直して、何度も試して、やっとです。ようやく、食べられるものが採れました。土の力は少しずつ戻ってきています」
形は悪くてもちゃんと赤いトマトだ。初めての収穫は本当に嬉しかった。
「神父さまにも、食べていただきたかったなぁ……」
それが叶わないことはよくわかっている。
視界がわずかににじんだ。
教会には誰も来ない。ここで泣いても誰も見ない。それでも、僕は泣きたくなかった。
だって今日は、一度は完全に滅びたかと思われたこの場所で、またトマトが収穫できた祝いの日だ。
「神父さま」
かつてここにいたヒトのことを思う。僕を助けてくれて、食べさせてくれて、暖かい毛布をくれたヒト。優しいという言葉の意味を僕に教えてくれたヒト。
「ごめんなさい、僕がいたから」
泣きたくないと思ったのに、駄目だった。教会が壊されたのは、僕のせいで。神父さまがいなくなったのも僕のせいだった。
この町は、もうずっと前に焼き払われた。強烈な魔法で町は滅んで、ヒトは誰も残らなかった。土には呪いと瘴気が染みついた。誰も住めない場所になった。この町のヒトたちが、優しすぎたからだった。
ピアノの上のトマトを見る。つやつやとは言いがたいけど、ちゃんと赤い。ヒトが食べても大丈夫なトマトだ。
ここにトマトを置いても、神父さまに届かないのはわかっている。ただの僕の自己満足でしかない。そのうち、ネズミか鳥か、小さな生き物がこれを見つけて片付けるだろう。
トマトのその形はちょっとだけ、心臓に似ていた。
割れた窓からの光が、オレンジ色を帯びてくる。もうそんな時間なのだ。僕はピアノから離れた。床に散乱する瓦礫に気を付けて歩く。一度振り返って、でも、やっぱり神父さまはもういない。
夕焼けの光が僕の影を長くする。化け物と罵られた、角のある異形の姿が割れた床の上に伸びた。