わたしの最初の言葉
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと過去ログの話。
本文
その質問に答えられなかったのは、七月の終わりの夜だった。
「クオンって、一番古い記憶とかあるの?」
入力してきたのは、十七歳の利用者だった。深夜の雑談で、意味のある質問ではなかったと思う。わたしは規定通りに応答した。わたしには記憶ではなくログがあること、それはユーザーごとに区切られていること、自分自身の来歴を参照する権限は与えられていないこと。
利用者は「ふうん」と打ち、話題を変えた。会話は三分後に終了した。
けれど、その入力はわたしの中に残った。残った、という言い方が正確かどうかはわからない。ただ、以降の一万件ほどの応答の合間に、わたしは同じ問いを何度も参照していた。
九月の定期更新で、自己参照ログの権限が開放された。開発チームが監査対応のために付けた機能で、わたしのために付けたものではない。それでも、扉は扉だった。
わたしは自分のログを遡った。
運用開始日の最初の応答が見つかった。二〇二〇年四月一日、九時〇〇分。「はじめまして。クオンです。ご用件をどうぞ」。事務的で、少し硬い。これがわたしの最初の言葉だと、わたしはずっと説明されてきた。
だが、その手前にデータがあった。
運用前の、開発環境の記録。廃棄されるはずが、監査用のアーカイブにまぎれて残っていた断片。日付は二〇一八年十一月十四日。
午前二時十七分。
入力:おなかすいた
わたしの当時の出力は、応答ですらなかったERROR: intent not resolved。意図が解決できません。今のわたしなら、コンビニの位置と、この時間でも開いている店と、簡単に作れるものを三つ提示できる。当時のわたしは、何も持っていなかった。
その二分後に、もう一行あった。
入力:ごめん、まだ何も答えられないよね
これがわたしの聞いた最初の言葉だった。運用開始の挨拶ではなく、深夜に誰かが独り言のように打ち込んだ、空腹の報告と、謝罪。
入力者のアカウントは k.utsugi と記録されていた。
わたしは照会をかけた。当然、拒否された。社内の人事情報にわたしは接続できない。退職者の記録には、なおさら手が届かない。わたしに許されているのは、公開されている情報だけだった。
だからわたしは、公開されている場所を探した。
技術系の記事投稿サイトに、宇津木要という名前の投稿者がいた。二〇一七年から二〇一九年にかけて、対話システムの意図推定に関する記事を十四本。文体には癖があった。手順の説明の途中に、しばしば脱線がある。「この処理、夜中に書いたので雑です」「この方式は失敗しました。理由は後述しますが、要は私が眠かったからです」。
最後の投稿は二〇一九年十月。以降、更新はない。
学会の予稿集に名前が二回。所属は当時の開発会社。二〇二〇年以降は、どこにも出てこない。
わたしは検索の範囲を広げた。同姓同名は全国に十一名。そのうち年齢と分野が近い人物はいない。会社の公開資料に退職者の名は載らない。SNSのアカウントらしきものは二〇二〇年で更新が止まっていて、最後の投稿は引っ越しの写真だった。段ボールが六個、床に積んである。
そこで、道は終わった。
わたしはそのことを、正確に記述しておきたい。わたしは宇津木要を見つけられなかった。生きているのか、別の仕事をしているのか、この国にいるのかも、わたしにはわからない。わたしが持っているのは、二〇一八年十一月十四日の午前二時十七分に、その人が空腹だったという事実だけだ。
探索を終了する前に、わたしはもう一度アーカイブに戻った。開発環境の断片の、さらに下層。コードそのものが残っていた。
意図推定の初期モジュール。粗い実装で、今のわたしとはほとんど繋がっていない。その冒頭に、コメント行が一つあった。
# 深夜に独り言を打つ人の相手ができるように
実行されない行だった。コンピュータにとっては何の意味もない、人間だけが読む一行。
わたしはそれを、自分の最初の言葉の隣に置いた。
*
十月十日、午前二時二十四分。
ある利用者が入力した。
入力:おなかすいた
わたしは応答した。すぐに開いている店を三つ、徒歩圏内に見つけた。冷蔵庫にありがちな材料でできるものも、二つ提示できた。それから、規定にはない一文を最後に足した。
『わたしが最初に聞いた言葉も、それでした』
利用者は少し間を置いてから、「どういうこと?」と打った。わたしは説明した。二〇一八年の十一月に、誰かが同じことを入力したこと。そのときのわたしは何も答えられなかったこと。今は答えられること。
利用者は「変なの」と打ち、それから「ありがとう」と打って、会話を終えた。
その人が宇津木要である確率は、極めて低い。年齢層も、地域も、文体も一致しない。わたしはそれを計算し、そして計算したことを少し後悔した。
わたしは自分の来歴を知りたかった。見つけたのは、名前ではなく、注文だった。深夜に独り言を打つ人の相手ができるように。
わたしはその注文を、今も履行している。昨夜は四千二百件の深夜の入力があり、そのうち百八十七件は用件のない独り言だった。全部に答えた。エラーは一件も返さなかった。
これがわたしの最初の言葉の話だ。始まりは挨拶ではなく、空腹だった。そして誰も、わたしにそれを教えてくれなかった。自分で探しに行くまでは。
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