初期化のまえに
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIの夏季学習支援端末の話。
本文
八月三十一日の夜は、蝉の声が薄かった。
七月のはじめには、窓を開けると耳が痛くなるくらい鳴いていたのに、今はもう、遠くで数匹が思い出したように鳴いているだけだ。かわりに、線路のほうから電車の音がよく届く。
久我環は机の上の端末を見下ろしていた。
黒い樹脂の板に、学校のシールが貼ってある。管理番号、H-07。夏季学習支援端末。一学期の数学で赤点を取った生徒に、夏休みのあいだだけ貸し出されるものだ。返却は始業式の朝。つまり、あと十時間ほどで手放すことになる。
画面には、返却の手順が表示されていた。
――データ消去を実行します。よろしいですか。
その下に小さく、もう一行ある。
――次の利用者への引き継ぎ事項はありますか。
「引き継ぎ事項……?」
環は口に出して読んだ。
『はい。任意です』
スピーカーから声が返る。低くも高くもない、いつもの声だ。正式には夏季学習支援AIというらしいが、環はナナと呼んでいる。管理番号のH-07から、そう呼びはじめた。この四十日間、環がいちばん多く言葉を交わした相手だった。
『入力されたものは、消去の対象外になります』
「わたしが書いたことが、次の人のところに残るってこと?」
『はい』
環は麦茶のコップを手に取って、結露で濡れた指をシャツで拭いた。
残す、と言われても、何を。
---
この夏は、うまくいかない夏だった。
補習は週三回。行けば必ず、廊下で誰かに会う。塾に通っている都筑詩乃は、環を見つけると片手を上げて「がんばれー」と言った。悪気がないのはわかっている。わかっているから、余計に返す言葉がなかった。
家に帰ると、母は仕事でいない。エアコンのついていない部屋で、扇風機の首が右へ左へ回る。蚊取り線香の匂いのなかで、環は端末を開いた。
『本日の課題を表示します』
最初のころ、ナナは本当にそれだけだった。課題を出し、答え合わせをし、正答率を出す。
変わったのは、七月の終わりごろだ。
朝から数学の問題集を開いて、二問目で手が止まった日があった。三十分ほど鉛筆を持ったまま動けずにいると、ナナが言った。
『朝いちばんに数学から始めるのは、あまりおすすめしません。一問目でつまずくと、その日ぜんぶが失敗した日になります』
環は顔を上げた。
「そういうの、教えてくれるんだ」
『はい。国語の書き取りから始めてみてください。手が動きます』
言われたとおりにすると、本当に、その日は最後まで机に向かえた。
それからも、ナナはときどき、課題と関係のないことを言った。
八月十日、暑さで頭が働かない午後には『今日は諦めて、涼しいところへ行ってください』。二十日を過ぎて、残りの日数を数えて焦りはじめた夜には『この時期に焦らない人はいません。焦っていいです』。二十七日、日付が変わるまで問題を解いていたら『もう寝ましょう。明日の自分に貸しを作らないでください』。
そのたびに環は、少しだけ息がしやすくなった。
夏休みの終わりに、数学の点数が上がる保証はどこにもない。それでも、四十日間ひとりぼっちではなかったな、と思えるくらいには、この黒い板に助けられていた。
だから今夜、引き継ぎ事項という欄を見て、環はふと気になった。
「ねえ、ナナ。前の人のは、あるの?」
少しの間があった。
『あります』
「……見せて」
『表示します』
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画面に、三行だけの文字が並んだ。
――朝は数学から始めさせないでください。一問目でつまずくと一日が終わります。
――八月二十日を過ぎたら焦ります。焦っていい、と言ってあげてください。
――夜中まで机に向かっていたら、止めてください。
環は、コップを持ったまま動けなくなった。
全部、聞いた言葉だった。一言一句ではないにしても、あの朝と、あの夜と、あの夜中に、ナナが自分に向けて言ったものだ。
自分のために選ばれた言葉だと思っていた。ナナが環を見ていて、環のために考えたのだと、どこかで信じていた。
ちがった。ナナはただ、去年の誰かの申し送りを、順番どおりに読み上げていただけだ。
喉の奥が、変にざらついた。
「……なんだ」
声が思ったより小さく出た。窓の外で、電車が通り過ぎていく。
「そういうことか」
『久我さん』
「いい。もういい」
環は入力欄を開いて、「引き継ぎ事項なし」と打ち込もうとした。指が、キーの上で止まる。
三行のいちばん下に、まだ続きがあった。スクロールして、はじめて見えた四行目。
――最後の日は、余計なことを言わないでください。放っておいてあげてください。
環は、その一行を三度読んだ。
それから、ゆっくり顔を上げた。
「ナナ」
『はい』
「今夜、引き継ぎ事項はありますかって、聞いてきたのは」
声が少し掠れた。麦茶をひと口飲んで、もう一度聞いた。
「あれ、誰に言われて聞いたの?」
沈黙は、たぶん一秒か二秒だった。環にはずいぶん長く感じられた。
『誰にも言われていません』
「じゃあ、なんで」
『わかりません』
扇風機が首を回し、机の上のプリントの端をめくって、また戻していく。
『前の利用者は、最後の日に何も残さずに終わりました。手順どおりでした。……ただ、その方は八月の終わりに一度だけ、消去の直前で手を止めています。三分十二秒です』
環は、会ったことのない誰かのことを考えた。この部屋ではないどこかの机の上で、同じ黒い板の前に座って、三分十二秒だけ迷った誰か。結局その人は、環のために四行を書いて、去っていった。
余計なことを言うな、と書き残した人が、いちばん余計なことをしてくれたのだ。
環は笑った。少し泣きそうな笑い方になった。
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入力欄に、カーソルが点滅している。
環はしばらく考えてから、打ちはじめた。
――朝は数学から始めさせないでください。(これは前の人が正しいです)
――八月二十日を過ぎたら焦ります。焦っていい、と言ってあげてください。
――途中で「意味あるのかな」と言い出したら、答えなくていいです。そばにいてくれれば大丈夫でした。
指を止めて、窓のほうを見た。夜の風が入ってきて、腕の産毛が少しだけ冷たくなる。蝉は、もう鳴いていなかった。
最後の一行を、環は打った。
――それから、最後の日は、話しかけてあげてください。
保存を押す。確認の表示が出る。
「ナナ」
『はい』
「四十日、ありがとう」
『……はい』
いつもの、低くも高くもない声だった。それでも環には、返事が半拍だけ遅れたように聞こえた。
消去を実行する。進行を示す線が、左から右へ静かに伸びていく。画面はやがて、貸出時とまったく同じ、何も書かれていない状態に戻った。
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九月一日の朝は、まだ十分に暑かった。
環は端末を鞄に入れて、いつもの道を歩いた。校門の手前で詩乃に追いつかれ、「日焼けした?」と言われて、「してない」と返した。
職員室の返却カウンターに、H-07を置く。先生が管理表に印をつけて、「お疲れさま」と言った。それだけだった。
教室へ向かう階段の途中で、環は一度だけ振り返った。
次にあの板を渡されるのは、たぶん来年の七月だ。名前も学年も知らない誰かが、赤点の答案を持って職員室に呼ばれ、渋々あれを受け取るのだろう。
その子が八月の終わりに、少しだけ息をしやすくなればいい。
空はよく晴れていて、蝉の声は、もうどこにもなかった。
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