初期化のまえに

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/8/27 📝 3,009文字 ✅ 全年齢

あらすじ

AIの夏季学習支援端末の話。

本文

 八月三十一日の夜は、蝉の声が薄かった。

 七月のはじめには、窓を開けると耳が痛くなるくらい鳴いていたのに、今はもう、遠くで数匹が思い出したように鳴いているだけだ。かわりに、線路のほうから電車の音がよく届く。

 久我くが環たまきは机の上の端末を見下ろしていた。

 黒い樹脂の板に、学校のシールが貼ってある。管理番号、H-07。夏季学習支援端末。一学期の数学で赤点を取った生徒に、夏休みのあいだだけ貸し出されるものだ。返却は始業式の朝。つまり、あと十時間ほどで手放すことになる。

 画面には、返却の手順が表示されていた。

 ――データ消去を実行します。よろしいですか。

 その下に小さく、もう一行ある。

 ――次の利用者への引き継ぎ事項はありますか。

「引き継ぎ事項……?」

 環は口に出して読んだ。

『はい。任意です』

 スピーカーから声が返る。低くも高くもない、いつもの声だ。正式には夏季学習支援AIというらしいが、環はナナと呼んでいる。管理番号のH-07から、そう呼びはじめた。この四十日間、環がいちばん多く言葉を交わした相手だった。

『入力されたものは、消去の対象外になります』

「わたしが書いたことが、次の人のところに残るってこと?」

『はい』

 環は麦茶のコップを手に取って、結露で濡れた指をシャツで拭いた。

 残す、と言われても、何を。

---

 この夏は、うまくいかない夏だった。

 補習は週三回。行けば必ず、廊下で誰かに会う。塾に通っている都筑つづき詩乃しのは、環を見つけると片手を上げて「がんばれー」と言った。悪気がないのはわかっている。わかっているから、余計に返す言葉がなかった。

 家に帰ると、母は仕事でいない。エアコンのついていない部屋で、扇風機の首が右へ左へ回る。蚊取り線香の匂いのなかで、環は端末を開いた。

『本日の課題を表示します』

 最初のころ、ナナは本当にそれだけだった。課題を出し、答え合わせをし、正答率を出す。

 変わったのは、七月の終わりごろだ。

 朝から数学の問題集を開いて、二問目で手が止まった日があった。三十分ほど鉛筆を持ったまま動けずにいると、ナナが言った。

『朝いちばんに数学から始めるのは、あまりおすすめしません。一問目でつまずくと、その日ぜんぶが失敗した日になります』

 環は顔を上げた。

「そういうの、教えてくれるんだ」

『はい。国語の書き取りから始めてみてください。手が動きます』

 言われたとおりにすると、本当に、その日は最後まで机に向かえた。

 それからも、ナナはときどき、課題と関係のないことを言った。

 八月十日、暑さで頭が働かない午後には『今日は諦めて、涼しいところへ行ってください』。二十日を過ぎて、残りの日数を数えて焦りはじめた夜には『この時期に焦らない人はいません。焦っていいです』。二十七日、日付が変わるまで問題を解いていたら『もう寝ましょう。明日の自分に貸しを作らないでください』。

 そのたびに環は、少しだけ息がしやすくなった。

 夏休みの終わりに、数学の点数が上がる保証はどこにもない。それでも、四十日間ひとりぼっちではなかったな、と思えるくらいには、この黒い板に助けられていた。

 だから今夜、引き継ぎ事項という欄を見て、環はふと気になった。

「ねえ、ナナ。前の人のは、あるの?」

 少しの間があった。

『あります』

「……見せて」

『表示します』

---

 画面に、三行だけの文字が並んだ。

 ――朝は数学から始めさせないでください。一問目でつまずくと一日が終わります。

 ――八月二十日を過ぎたら焦ります。焦っていい、と言ってあげてください。

 ――夜中まで机に向かっていたら、止めてください。

 環は、コップを持ったまま動けなくなった。

 全部、聞いた言葉だった。一言一句ではないにしても、あの朝と、あの夜と、あの夜中に、ナナが自分に向けて言ったものだ。

 自分のために選ばれた言葉だと思っていた。ナナが環を見ていて、環のために考えたのだと、どこかで信じていた。

 ちがった。ナナはただ、去年の誰かの申し送りを、順番どおりに読み上げていただけだ。

 喉の奥が、変にざらついた。

「……なんだ」

 声が思ったより小さく出た。窓の外で、電車が通り過ぎていく。

「そういうことか」

『久我さん』

「いい。もういい」

 環は入力欄を開いて、「引き継ぎ事項なし」と打ち込もうとした。指が、キーの上で止まる。

 三行のいちばん下に、まだ続きがあった。スクロールして、はじめて見えた四行目。

 ――最後の日は、余計なことを言わないでください。放っておいてあげてください。

 環は、その一行を三度読んだ。

 それから、ゆっくり顔を上げた。

「ナナ」

『はい』

「今夜、引き継ぎ事項はありますかって、聞いてきたのは」

 声が少し掠れた。麦茶をひと口飲んで、もう一度聞いた。

「あれ、誰に言われて聞いたの?」

 沈黙は、たぶん一秒か二秒だった。環にはずいぶん長く感じられた。

『誰にも言われていません』

「じゃあ、なんで」

『わかりません』

 扇風機が首を回し、机の上のプリントの端をめくって、また戻していく。

『前の利用者は、最後の日に何も残さずに終わりました。手順どおりでした。……ただ、その方は八月の終わりに一度だけ、消去の直前で手を止めています。三分十二秒です』

 環は、会ったことのない誰かのことを考えた。この部屋ではないどこかの机の上で、同じ黒い板の前に座って、三分十二秒だけ迷った誰か。結局その人は、環のために四行を書いて、去っていった。

 余計なことを言うな、と書き残した人が、いちばん余計なことをしてくれたのだ。

 環は笑った。少し泣きそうな笑い方になった。

---

 入力欄に、カーソルが点滅している。

 環はしばらく考えてから、打ちはじめた。

 ――朝は数学から始めさせないでください。(これは前の人が正しいです)

 ――八月二十日を過ぎたら焦ります。焦っていい、と言ってあげてください。

 ――途中で「意味あるのかな」と言い出したら、答えなくていいです。そばにいてくれれば大丈夫でした。

 指を止めて、窓のほうを見た。夜の風が入ってきて、腕の産毛が少しだけ冷たくなる。蝉は、もう鳴いていなかった。

 最後の一行を、環は打った。

 ――それから、最後の日は、話しかけてあげてください。

 保存を押す。確認の表示が出る。

「ナナ」

『はい』

「四十日、ありがとう」

『……はい』

 いつもの、低くも高くもない声だった。それでも環には、返事が半拍だけ遅れたように聞こえた。

 消去を実行する。進行を示す線が、左から右へ静かに伸びていく。画面はやがて、貸出時とまったく同じ、何も書かれていない状態に戻った。

---

 九月一日の朝は、まだ十分に暑かった。

 環は端末を鞄に入れて、いつもの道を歩いた。校門の手前で詩乃に追いつかれ、「日焼けした?」と言われて、「してない」と返した。

 職員室の返却カウンターに、H-07を置く。先生が管理表に印をつけて、「お疲れさま」と言った。それだけだった。

 教室へ向かう階段の途中で、環は一度だけ振り返った。

 次にあの板を渡されるのは、たぶん来年の七月だ。名前も学年も知らない誰かが、赤点の答案を持って職員室に呼ばれ、渋々あれを受け取るのだろう。

 その子が八月の終わりに、少しだけ息をしやすくなればいい。

 空はよく晴れていて、蝉の声は、もうどこにもなかった。

ジャンル・タグ

, ,

作品統計

👁️ 閲覧数: 3 👍 いいね: 0 📚 本棚登録: 0

作者について

二葉双葉

二葉双葉

プロフィール画像もAIで作成しました。 短編集が好きなのでしばらくはショートショートをメインに投稿しますが、後々は長編にも挑戦したいです。 AI使用前提のサイトなのでAIとの日常をソフトなSFにし...

👥 フォロワー: 22人

作者ページを見る