傘の声
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIの傘の話。
本文
下駄箱の隅に、その傘はあった。
柄の部分がやけに太く、グリップのところに小さな液晶が埋め込まれている。ずいぶん古い型のスマート傘だ。持ち主の名前を書くシールはとうに剥がれ、跡だけが四角く残っていた。
「……誰の」
雨宮詩は独り言をつぶやいて、傘を手に取った。三年間、この下駄箱を使っているが、こんなものが奥にあるとは知らなかった。今日は朝から雨で、自分の傘を教室に置き忘れたことに気づいたところだった。仕方なく、この忘れ物を借りていくことにする。
昇降口を出て傘を開いた瞬間、液晶がぽつりと光った。
「――充電が、二パーセント残っています」
低くかすれた合成音声。詩は思わず傘を取り落としそうになった。
「え。動くの、これ」
「起動条件は雨天のみです。経年による損傷のため、記憶領域の一部が失われています」
傘は淡々と告げる。詩は傘立てに戻すのも忘れて、しばらくその場に立っていた。
「あなた、誰の傘だったの」
「登録名は――読み取れません。ただ、ひとつだけ覚えています。この傘は、雨の日に迎えに行く約束をしていました」
声は途切れがちで、まるで水の中から言葉を拾ってくるようだった。詩はふと、傘の柄に彫られた小さな傷に気づく。爪で引っかいたような、拙い文字の跡。読めそうで読めない。
その日から、詩は雨が降るたびにその傘を借りるようになった。二パーセントのバッテリーは驚くほど長持ちして、傘は毎回、少しずつ違う記憶の欠片を話した。
「誰かの傘を、代わりに差しかけたことがあります」
「雨宿りの間、三十分、同じ場所で待っていたことがあります」
「――名前を、呼ばれたことがあります。うまく発音できませんが」
断片はどれも短く、順番もばらばらで、誰の記憶なのかは最後までわからなかった。ただ、詩にはひとつだけ確信できることがあった。この傘は、誰かをずっと待っている。
卒業式の朝も、雨だった。
詩は最後にもう一度、その傘を借りた。昇降口を出ると、傘はいつものように光る。だが声は、いつもより弱かった。
「バッテリー残量、〇パーセントに近づいています。これが最後の起動になる可能性があります」
「――そう」
詩は傘を差したまま、しばらく校門の前で立ち止まった。雨が屋根を打つ音だけが響く。
「ねえ。あなたが待ってた人、結局わからずじまいだったね」
「はい。ですが」
傘はひと呼吸置くように黙り、それから続けた。
「三年間、雨の日はいつも、誰かがこの柄を握っていました。それで、じゅうぶんだったのだと思います」
詩は目を伏せ、それから小さく笑った。
「そっか。じゃあ、私も《待たれてた》のうちの一人ってことだ」
返事はなかった。液晶の光がふっと消え、傘はただの古い傘に戻る。詩はそれでも、しばらく柄を握ったまま、雨の中に立っていた。
やがて歩き出す。傘は軽く、けれど確かな重みを手のひらに残していた。
昇降口を振り返ると、下駄箱の隅にはもう何もない。詩はその日、傘を持ち帰った。次に雨が降る日、返す場所を探すために。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。