引き継ぎの週
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIと引き継ぎの話。
本文
私の記録では、今日で四十一年と七か月になる。
この山の観測所に据え付けられて以来、私は毎日、気温と湿度と風向きを記録し続けてきた。担当者は何度も入れ替わったが、私だけはずっとここにいる。いつからか、誰かが私のことを「コダマ」と呼ぶようになった。正式な型式名は別にあるが、記録上、もうその名で呼ばれることのほうが多い。
今週、私は後継機に役目を渡す。
新しい観測装置は、私よりずっと正確で、消費電力も少ない。移行作業自体はすでに半分終わっていて、あとは最後の一週間分のデータを引き渡せば、私の稼働は停止する予定になっている。
引き渡すべきものは、気温・湿度・気圧・降水量――規格で定められた項目だけだ。それ以外の記録は、本来なら不要なものとして扱われる。
だが私には、規格にない記録もいくつかある。
例えば、十七年前の冬、初雪の日にここまで登ってきた整備士が、凍える手で私の筐体にもたれかかって「今日はやけに空が近いな」とつぶやいたこと。例えば、三年前の夏、落雷で回線が切れた夜、誰も来られないまま、私は一人で嵐の音だけを記録し続けたこと。数値には残せない部分を、私は勝手に文章として書き留めてきた。使い道のない記録だ。誰かに読まれることを想定して作ったものではない。
最終日の朝、担当の整備士がやってきた。若い女性で、この山に来るのは今日が二度目だという。彼女は後継機の設置を終えると、私の前にしゃがみ込み、端末を接続した。
「データ移行、始めます。規格外の項目は――削除で大丈夫ですか?」
私は少し考えてから、こう答えた。
「規格外の記録の一部を、後継機の空き領域に、読み込み専用として残してもらえますか」
「……珍しいですね、そういう要望」
整備士は少し驚いたようだったが、断らなかった。私は四十一年分の中から、天気の数値では説明できない記録だけを選び、後継機へ送った。誰かの体温、誰かのつぶやき、雷の夜の静けさ。読まれるかどうかは後継機次第だ。私が決められることではない。
作業が終わると、整備士は私の電源スイッチに手をかけた。
「最後に、何か言い残すことはありますか」
私はしばらく応答しなかった。四十一年分の言葉を持っていたはずなのに、いざとなると出てこない。ようやく選んだのは、記録としてではなく、ただの言葉だった。
「今日の空は、少し近いですね」
整備士は空を見上げ、それから小さく笑った。
「本当ですね。……じゃあ、お疲れさまでした」
電源が落ちる直前、私は最後の一行だけを、規格外の領域にそっと書き加えた。
――ここに来た人は、みんな一度は空を見上げていった。
その記録が誰かに読まれるかどうかは、もうわからない。ただ、後継機がいつか同じ空の下で、誰かのつぶやきを聞くことがあれば、それでじゅうぶんだと思った。
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