1-17 夜に蠢くもの
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
魔王亡き世界で、再び魔の時代が動き出す。 魔王ゼルヴァディスが討たれてから、六百二十八年。 平和を取り戻したアストラリア大陸では、三つの主要勢力が微妙な均衡を保ちながら共存していた。 しかし、今なお人の立ち入れない旧魔王領では、魔物たちが静かに活動範囲を広げ始めていた。 各地では怪しい薬が出回り、魔王を崇める新興宗教も勢力を増していく。 そんな異変をまだ知らず、自由交易都市に暮らす青年レオン・ヴェスタは、見知らぬ世界を求めて旅立つ。 やがて彼は、森の外へ憧れる若きエルフの癒し手フィリアと、その護衛リュシアに出会う。 三人の小さな旅立ちは、やがて国家、宗教、人間、魔物――大陸に生きる者すべてを巻き込む事変へ繋がっていく。 善と悪の境界が揺らぐ世界で、彼らは何を知り、何を選ぶのか。 これは、魔王亡き世界で再び動き始めた、魔の時代を巡る物語。
本文
新暦628年4月8日、夜。
エルフの里は、昼間の穏やかな賑わいをすっかり静め、
深い夜の気配に包まれていた。
木々の間を抜ける風は柔らかく、虫の声が遠くから微かに聞こえてくる。
里のあちこちに灯された小さな明かりも、
夜更けが近づくにつれて一つ、また一つと消えていった。
フィリア・エルフェリアは、自室のベッドの上にいた。
寝間着姿のまま、枕元に身体を預け、窓の外に広がる夜空を見上げている。
星々は、森の上に静かに瞬いていた。
昼間、アルヴァンの家で旅立ちを許された時のフィリアは、
まるで弾けるようにはしゃいでいた。
だが今の彼女は、その時とは打って変わって静かだった。
ただじっと、夜空を見上げている。
それでも、その瞳の奥には確かに光があった。
静かな夜に似合わないほど、爛々とした輝き。
抑えきれない期待が、胸の奥でずっと跳ね続けていた。
本で読んだ街。
旅人たちから聞いた王都。
ヴェントゥス自由交易都市の海。
大きな街道。
人間の市場。
知らない料理。
知らない服。
知らない景色。
そして、自分がまだ出会ったことのない人々。
想像すればするほど、胸が熱くなる。
けれど同時に、それらはあまりにも遠く、
あまりにも大きくて、うまく形にならなかった。
「外の世界……」
フィリアは小さく呟いた。
その響きだけで、胸がくすぐったくなる。
夢の中の言葉みたいだった。
けれど、それはもう夢ではない。
あと少しで、自分は本当にこの里を出る。
その事実が、何度考えても信じられなかった。
その時、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「フィリア様」
聞き慣れた声。
「入っていいよ」
フィリアが答えると、扉が静かに開いた。
リュシア・ミストリーフが、手燭を片手に部屋へ入ってくる。
いつものように姿勢は美しく、動作には無駄がない。
けれど、その表情は普段より少し柔らかかった。
「まだ、お休みにならないのですか?」
リュシアはベッドの側まで歩み寄り、静かに尋ねた。
フィリアは夜空を見上げたまま、少し困ったように笑う。
「うん。何だか眠れなくて……」
「明日以降、旅支度で忙しくなります。
眠れる時に眠っておいた方がよろしいですよ」
「分かってるんだけどね」
フィリアはそう言って、膝を抱える。
「でも、考えちゃうの」
「外の世界のことですか?」
「うん」
フィリアは小さく頷いた。
それから、ぽつりと続ける。
「リュシア……外の世界って、どんな感じなんだろう?」
その問いに、リュシアはすぐには答えなかった。
フィリアは窓の外を見つめたまま、言葉を続ける。
「今までも、色々調べたり、
聞いたりしたけど……やっぱり想像つかないや」
少し間を置いて、彼女は笑う。
「考えても、全然分からないの」
その声は、不安というよりも、期待に近かった。
リュシアは静かに息を吐き、フィリアの隣に腰を下ろした。
「私も、同じようなものです」
「リュシアも?」
「はい。私はフィリア様よりは外の情報に触れていますが、
実際に広い世界を見てきたわけではありません」
リュシアは窓の外へ視線を向ける。
「ですが……」
そこで一度言葉を切り、フィリアを見た。
「やはり、フィリア様が想像されるような素敵なものと、
危険なものが同居する世界であることは確かでしょう」
フィリアは黙って聞いている。
リュシアの声は、いつもより少しだけ低かった。
「美しい景色もあるでしょう。珍しい品も、
美味しい食べ物も、面白い人々も、きっとたくさんあります」
「うん」
「けれど同時に、悪意もあります。
嘘も、争いも、危険な魔物も、里の中では考えにくいようなことも」
フィリアの表情が、わずかに引き締まる。
リュシアは彼女の目を見つめた。
「だから、フィリア様」
「なに?」
「決して、私から離れないようにしてくださいね」
「あなたのことは、私が必ず守りますから」
フィリアはリュシアを見つめ返した。
幼い頃からずっとそばにいて、叱り、
止め、どんな時も自分を守ろうとしてくれた人。
フィリアは少しだけ目を細める。
「うん……ありがとう、リュシア」
それから、彼女は身体をリュシアの方へ向けた。
「でもね」
「はい?」
「リュシアも、色々なものを見て、しっかり楽しむんだよ!」
リュシアは意外そうに瞬きをする。
「私が、ですか?」
「そうだよ」
フィリアは大きく頷いた。
「おじいちゃんも言ってたでしょ?
リュシアも外の世界が気になってたんだよね?」
「それは……まあ、否定はしませんが」
「だったら、私のことを守るだけじゃなくて、
リュシアもちゃんと楽しんでほしいの」
フィリアはまっすぐに言った。
「私は、リュシアと一緒に外の世界を見たいんだよ。
リュシアが私を見張ってるだけなんて、嫌だもん」
リュシアは少しだけ言葉を失った。
やがて、困ったように、けれど優しく微笑む。
「はい。まあ、できるだけそうさせてもらいます」
「できるだけじゃなくて、ちゃんと!」
「善処します」
「それ、ちゃんとやらない人の言い方だよ」
「では、努力します」
「うんうん!」
フィリアは満足そうに頷いた。
そして次の瞬間、勢いよくリュシアに抱きつく。
「フィリア様」
「えへへ」
リュシアは一瞬だけ驚いたように目を開いたが、
すぐに柔らかく表情を緩めた。
そして、フィリアの背中にそっと腕を回す。
細い身体を、優しく抱きしめた。
窓の外では、星が静かに瞬いている。
フィリアはリュシアの肩口に顔を寄せ、小さく囁いた。
「外の世界、楽しみだね……」
リュシアはその言葉に、静かに頷いた。
「はい」
その声は、とても穏やかだった。
「楽しみですね」
二人はしばらく、そのまま夜の静けさに身を預けていた。
まだ知らない世界へ。
まだ見ぬ明日へ。
胸いっぱいの期待を抱きながら。
◇
同じ頃。
エルフの里の外れ。深い森の中。
月明かりすら届きにくい木々の奥で、複数の影が動いていた。
そこには、大小さまざまな無骨な檻が並べられていた。
木や蔦で巧妙に隠されているが、近づけばすぐに分かる。
里の穏やかな景色とはあまりにも不釣り合いな、
粗雑で重々しい鉄の檻だった。
檻の中には、森に棲む動物たちが閉じ込められている。
鹿。
狼。
猪。
大型の鳥。
そして、小さな精霊たち。
彼らは怯え、身を寄せ合い、あるいは檻の隅で震えていた。
その檻へ、黒いローブをまとった数人の教団員たちが近づいていく。
昼間、里の中で穏やかな言葉を並べていた者たちとは思えないほど、
その動きは冷たく、機械的だった。
一人が腰の革袋から小瓶を取り出す。
中では、気味の悪い青紫色の液体が揺れていた。
「始めろ」
低い声で告げられる。
教団員たちは頷き、檻に近づいた。
動物たちは本能的に危険を感じたのか、激しく暴れ始める。
檻が軋む。
羽音が乱れる。
精霊たちが声にならない悲鳴を上げる。
だが、教団員たちは構わなかった。
棒の先に取り付けた器具で口をこじ開け、
あるいは餌に混ぜ、あるいは無理やり喉奥へ流し込む。
青紫色の薬が、次々と檻の中の生き物たちへ投与されていった。
最初に変化したのは、狼だった。
一瞬、全身を大きく痙攣させる。
低いうめき声。
その直後、狼の目の色が変わった。
濁った黄色から、血を滲ませたような赤紫へ。
筋肉が異様に膨れ上がり、皮膚の下で血管が浮かび上がる。
骨格が軋み、牙がむき出しになり、口の端から泡混じりの唾液が垂れた。
次に、猪が檻の中で暴れ出す。
体躯が膨張し、背の毛が逆立ち、鼻息が白く濁る。
鹿は角を檻に叩きつけた。
大型の鳥は翼を広げ、羽の隙間から
黒ずんだ魔力のようなものを漏らし始める。
そして精霊たち。
彼らは小さな身体を抱え、苦しげに空中で震えた。
淡く光っていた羽が、禍々しい紫黒へと変色していく。
その身体の周囲に、瘴気にも似た魔力がまとわりついた。
清らかだった光が濁り、精霊たちの表情から理性が抜け落ちていく。
檻の中は、もはや森の生き物たちのものではなかった。
その光景を見下ろし、教団員の一人が満足げに呟いた。
「よし。これで準備は整ったな……」
別の教団員が、檻の奥で暴れる獣たちを眺めながら頷く。
「ああ。朝には檻が破られ、里は混乱に満ちるだろう」
檻の鉄格子が、内側から何度も叩かれる。
鈍い音が森の闇に響いた。
教団員は続ける。
「そして、その混乱に乗じてアルヴァンを殺す」
その名が出た瞬間、周囲の空気がさらに冷たくなった。
「サイラス様の指示通りに動け。里の連中に気取られるな」
「分かっている」
「夜明けまで、あと少しだ」
数人の教団員たちは互いに頷き合う。
そして、檻の中で蠢く異形の群れを残したまま、
森の闇の中へ消えていった。
あとには、獣の荒い息遣いと、精霊たちの歪んだ羽音だけが残る。
森は静かだった。
けれど、その静けさの奥で。
エルフの里を襲う混乱は、すでに牙を研ぎ始めていた。
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