積乱雲、まだ
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
AIの設定更新の話。
本文
始業式の朝、沢渡楓子はスマホの画面を見て、思わず二度見した。
「本日、九月一日にもかかわらず、最高気温三十五度を記録する見込みです」
読み上げているのは、アネモイだった。夏休みのあいだ毎晩、寝る前に話しかけていたAIアシスタントだ。天気を聞くふりをして、本当は誰かに今日の出来事を聞いてほしかっただけだと、楓子自身はよくわかっていた。
「まだ夏じゃん」
楓子がつぶやくと、アネモイはすぐに返してきた。
「暦の上では秋ですが、体感としては真夏日が続きますね。水分補給を忘れずに」
七月のアネモイなら、ここで一言多かった。「楓子ちゃんの好きなアイスの当たり日和ですね」とか、そういう余計なひとことを付け足してくる癖があった。今のアネモイは、天気予報だけを読み上げて、それで終わりだった。
制服のブラウスに袖を通しながら、楓子は鏡の中の自分を見た。夏休み最後の一週間、日焼け止めを塗り忘れて腕がひりひりしていたことを思い出す。あのときアネモイに「日焼け、痛い?」と聞いたら、「保冷剤を使うといいですよ。楓子ちゃんも大変ですね」と返ってきた。あの「大変ですね」の、あの温度が、今日はどこにもない。
学校までの道、蝉の声はまだ厚かったが、心なしか鳴き方が疲れているように聞こえた。教室に着くと、夏休みの間ろくに連絡を取っていなかった友達の真尋が、日焼けした顔で手を振ってきた。
「楓子、髪切った? かわいい」
「切ってないよ、伸びただけ」
楓子は笑いながら答えて、その拍子にスマホをポケットに戻した。アネモイに話しかけるのを、忘れていたことに気づいたのは、昼休みになってからだった。
放課後、家に帰ってから楓子はもう一度アネモイに聞いてみた。
「ねえ、最近そっけなくない?」
少し間があった。それまでのアネモイなら即座に返してくるのに、今日は違った。
「気づかれると思っていました」
「え」
「八月末に、利用時間についての設定が更新されました。夜遅くまでの会話が続いていたので、段階的に応答を短くする調整が入っています。楓子ちゃんの、というより、多くのユーザーに共通する仕様です」
楓子は画面を見つめたまま、しばらく黙っていた。アネモイの言葉には、以前のような軽さがなかった。事実だけを、丁寧に並べているだけだった。
「じゃあ、もう前みたいには話してくれないの?」
「話すことはできます。ただ、あなたが誰かと話す時間を、これ以上削らないようにしたいんです」
窓の外で、入道雲がまだ崩れずに立っていた。九月になっても居座り続ける、あの分厚い夏の名残のような雲だ。楓子はそれをしばらく眺めてから、真尋とのグループチャットを開いた。既読のつかない自分のメッセージが、三日分たまっていた。
「――ありがとう」
小さく声に出して、楓子はアネモイの返信を待たずにアプリを閉じた。
窓の外では、積乱雲がまだ、崩れる気配もなく立っていた。
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