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迷宮攻略の最適解

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/9/3 📝 66,105文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

戦闘力ゼロの「外れスキル」《解析記録》を授かった少年アラン。 しかし彼には、誰にも負けない執念があった。 ――迷宮を、探索率100%まで完全に解明する。 罠、モンスターの弱点、隠し通路、未知の構造。 「見つける」ことに特化したアランと、彼の解析を信じて剣を振るう少女リーシャ。 二人の冒険は、探索率98%で攻略済みとされる「灰鐘の地下礼拝堂」から始まる。 誰も気に留めなかった残り2%。 そこには、まだ誰も知らない迷宮の秘密が眠っていた――。 解析する少年と、斬る少女。 知識を力に変える、迷宮完全踏破ファンタジー。

本文

◇

――のちにアランは、この日ギルドの窓口で交わした何気ないやり取りこそが、まだ誰も知らない世界の秘密へと繋がる、最初の一歩だったと知ることになる。だが、その日の彼はまだ、目の前の目標――ただ一つの迷宮を、誰よりも深く解き明かすことしか、考えていなかった。

◇

「固有スキル《解析記録》、か……戦闘力はなく、せいぜい罠の検知やモンスターの生態を覗き見る程度の外れスキルだな」

冒険者ギルドの受付に座る職員は、書類から顔を上げてそう言った。

「これでは前線での活躍は見込めないぞ。本当にこのスキルで登録するのか?」

「はい。問題ありません」

金髪を無造作に伸ばした十六歳の少年、アランは即答した。声に迷いはひとつもない。

職員は呆れたような、あるいは憐れむような目を向けて書類を押し返してきたが、アランはその視線にも判定にも微塵も動じなかった。

「戦闘力なんてものは副産物に過ぎません。重要なのは、そこに迷宮があるという事実と、まだ誰も見ていない空白地帯が存在するという理屈です」

「理屈、ねえ……」

「あなたは今まで、生態が完全に解析された迷宮の話を聞いたことがありますか?」

「……いや、ない」

「僕もありません。だから僕がやるんです」

理屈っぽく淡々と語るアランの頭の中では、既に世界各地に点在する迷宮の構造と、自らのスキルの可能性についてのシミュレーションが高速で展開されていた。彼が求めているのは名誉でも金儲けでもない。未知の解明、それ自体だ。

職員はしばらくアランの顔をまじまじと見つめていたが、やがて小さく息を吐き、書類にスタンプを押した。

「まあいい、好きにしろ。Fランクとして登録しておく。死んでも自己責任だ」

「ええ、承知しています」

冒険者証を受け取り、アランはギルドの扉に向かって歩き出した。いかなる依頼を達成しようとも、迷宮の探索率が百分の百に達するまでは決して帰らない――そんな強いこだわりを胸に抱えたまま。

「ねえ、ちょっと待って」

背後から声がかかったのは、扉に手をかけた瞬間だった。振り返ると、赤茶色の髪を短く結んだ少女が壁に寄りかかり、こちらを見ていた。年齢はアランと同じか、少し上くらいだろうか。腰には使い込まれた短剣が下がっている。

「僕ですか?」

「他に誰がいるのよ。今の話、聞こえてたんだけど」

少女――リーシャは壁から体を離し、アランの前に立った。値踏みするような視線が、アランの頭からつま先までを一往復する。

「《解析記録》で迷宮の完全解明を目指す、って。本気で言ってるの?」

「本気です。何か問題でも?」

「問題っていうか……正気とは思えないだけ」

リーシャは腕を組み、口の端を持ち上げた。呆れているようで、どこか面白がっているようでもある声音だった。腕を組んだ拍子に、豊かな胸元が強調されて持ち上がる。アランはその変数を特に意味もなく記録し、すぐに思考の外へ追いやった。

「あんた、パーティは組んでるの?」

「いいえ。まだFランクになったばかりですから」

「戦闘力ゼロのスキル持ちが、ソロで迷宮に潜るつもり?」

「必要なら組みます。でも、今のところ僕についてこられる人がいるとは思えません」

「……はっ、言うじゃない」

リーシャは笑いながら、腰の短剣に軽く手を触れた。

「あたしはリーシャ。剣の腕にはそれなりに自信がある。戦闘力ゼロのあんたが、その理屈だけでどこまで潜れるのか、ちょっと興味が出てきたわ」

「それは――」

「勧誘してるのよ、鈍いわね」

アランは一瞬、思考の速度が止まったのを自覚した。想定していなかった変数が、シミュレーションに割り込んできたからだ。

「僕は戦力にはなりません。それでもいいんですか」

「情報がなきゃ生きて帰れないのは、あたしも同じだもの。罠も生態もわからないまま突っ込んで死ぬよりは、よっぽどマシでしょ」

リーシャはそう言って、右手を差し出した。

「どう? Fランクの二人で、まずは近場の迷宮から」

アランはその手を見つめ、それから頭の中に展開していた無数の仮説のひとつが、いま現実の座標を得たことを理解した。

「――わかりました。よろしくお願いします」

差し出された手を、アランは握り返した。世界にまだ残る空白地帯へ向けて、最初の一歩が刻まれた瞬間だった。

◇

ギルドの外に出ると、日はまだ高い位置にあった。石畳の大通りには露店が並び、行き交う人々の声が絶えず響いている。リーシャはその喧騒を掻き分けるように、迷いのない足取りで歩き出した。

「近場の迷宮って、あてはあるんですか」

「灰鐘の地下礼拝堂。知らない?」

「名前だけは。街の外れにある古い礼拝堂の地下に口を開けている迷宮ですよね。初心者向けで、攻略難易度は低い。ボスは一体のみ」

「詳しいじゃない」

「ギルドに登録する前に、公開されている記録は一通り目を通しました。公式の探索率は九十八パーセントだそうです」

「九十八? それって、もうほとんど解明されてるってことじゃないの」

リーシャが横目でこちらを見た。街の中心から外れへと続く道は次第に人通りが減り、石畳の隙間から雑草が顔を出し始めている。

「残りの二パーセントが問題なんです」

「そんなの、誤差みたいなものじゃない」

「誤差で片付けられているうちは、誰もそこを見ようとしません。だから残るんです」

「……変な理屈」

リーシャは呆れたように肩をすくめたが、口元にはまだ笑みが残っていた。二人は街を出て、乾いた土の道を進んでいく。両脇には背の低い灌木が続き、遠くに古びた礼拝堂の尖塔がかすかに見え始めていた。

「ねえ、あんたさ」

「何ですか」

「ずっと敬語なの? あたしのほうが年上っぽいけど、あんたのほうがなんか偉そうなのよね」

「口調は思考の整理に使っているだけで、上下関係とは無関係です」

「意味わかんない」

リーシャは声を立てて笑った。道の先で風が吹き、乾いた土埃が舞い上がる。それを手で払いながら、彼女は横を歩くアランに視線を戻した。

「じゃあ聞くけど、《解析記録》って具体的に何が見えるの? 罠とモンスターの生態、って言ってたけど」

「罠は座標と発動条件が視界に浮かびます。モンスターは種類によって差がありますが、行動パターンと弱点部位まで見えることがあります」

「弱点部位まで?」

「例えば影狼なら、喉元の毛並みが薄い部分です。あそこを狙えば、通常より少ない攻撃回数で仕留められます」

「……それ、めちゃくちゃ役に立つスキルじゃない。何が外れよ」

「戦闘力がないので、見えても自分では突けません。だから――」

「だからあたしが突く、と」

リーシャは短剣の柄に指を這わせながら、口の端を上げた。

「上等じゃない。見えたところ全部教えて。あたしが斬るから」

「効率的な役割分担ですね」

「あんた、褒めてんの貶してんのか分かんない言い方するわね」

道の先に、灰色の石壁が見えてきた。蔦に覆われ、半ば崩れかけた礼拝堂だ。かつては人々が祈りを捧げた場所であったろうその建物は、今は迷宮の入り口としてのみ機能している。入り口付近には他の冒険者らしき人影も二、三見えたが、誰もアランたちには目もくれない。

「着いたわね」

リーシャが足を止め、礼拝堂を見上げた。崩れた屋根の隙間から差し込む光が、埃っぽい空気の中に筋を作っている。

「探索率九十八パーセントの迷宮、か。あんたにとっては物足りない場所じゃないの?」

「いいえ。残り二パーセントがどこに存在するのか、まだ誰も特定していません。それを見つけるところから始まります」

「相変わらず楽しそうに言うわね、そういうこと」

「楽しい、というのとは少し違います。ただ、埋めるべき空白があるという事実に、意味を感じているだけです」

リーシャは小さく息を吐き、それから短剣の柄をぽんと叩いた。

「まあいいわ。理屈はどうでも、あんたの目が信用できるかどうかは、これから確かめさせてもらう」

「望むところです」

二人は礼拝堂の崩れた扉をくぐり、地下へと続く階段の暗がりに足を踏み入れた。石段の先から吹き上げてくる冷たい空気が、これから始まる探索の気配を運んでくる。アランの視界には、既に幾つかの光点――罠の反応らしきもの――が浮かび始めていた。

「リーシャさん、最初の十段目、右端に踏板の緩みがあります。気をつけてください」

「了解。……ほんとに見えてるのね」

石段を下りる二人の足音が、静かな地下へと吸い込まれていった。

石段は思ったよりも長く続いた。壁に埋め込まれた蓄光石がぼんやりと青白い光を放ち、二人の足元を辛うじて照らしている。

「――止まってください」

アランが小声で言うと、リーシャはすぐに動きを止めた。腰の短剣にはまだ触れない。無駄な動作をしない、というのは初めて組む相手にしては上出来だとアランは思った。

「何かいる?」

「前方十五メートル、通路の分岐点です。影狼が一体、こちらに気づいていません」

「影狼か。厄介なやつじゃないけど、初見だと苦戦するモンスターよね」

「動きは俊敏ですが、弱点は先ほど話した通り喉元です。今の体勢だと右側から回り込めば、視認される前に距離を詰められます」

「右側ね」

リーシャは短剣を抜き、刃を軽く指で撫でた。緊張しているようには見えないが、その仕草はどこか儀式めいていて、彼女なりの集中の入り方なのだろうとアランは推測した。

「アラン、あんたは下がってて。戦闘には関わらせない」

「承知しています。ただ、影狼は仲間を呼ぶ習性があります。仕留めるまでの時間は短いほうがいい」

「わかってる。任せて」

リーシャは足音を殺しながら通路の右側の壁伝いに進んでいく。アランはその背中を見つめながら、視界に浮かぶ光点――影狼の輪郭と、その喉元に淡く光る弱点表示――を目で追い続けた。

分岐点に差し掛かった瞬間、影狼が僅かに耳を動かした。気配を察知しかけている。

「気づかれます、あと二秒」

アランが小さく告げると、リーシャの足が地を蹴った。踏み込みは低く、そのまま影狼の懐に滑り込むように距離を詰める。影狼が振り向きかけたときには、既に短剣の切っ先が喉元に届いていた。

一撃。

影狼は短い呻き声を上げる間もなく崩れ落ちた。リーシャは短剣を引き抜き、血を払うようにひと振りしてから鞘に納める。

「……マジで一撃だった」

「弱点部位への正確な一撃です。効率としては理想的でした」

「あんたが場所教えてくれたからでしょ」

リーシャは振り返り、少し得意げな顔をした。頬にはうっすらと汗が滲んでいる。緊張がなかったわけではないらしい。

「これがずっと続くってこと? あんたが見て、あたしが斬る」

「基本的にはそうなります。ただし、罠や隠し通路の発見にも同様に僕のスキルを使います」

「隠し通路?」

「この迷宮の公式な探索率は九十八パーセントです。つまり、記録に残っていない区画が存在する可能性が高い」

リーシャは眉を寄せ、周囲の石壁を見回した。何の変哲もない、ただの通路にしか見えない。

「こんな普通の通路のどこに、隠し区画なんてあるのよ」

「今のところ、この付近には何も検知していません。ですが、進むごとに情報は更新されます。焦る必要はありません」

「あんた、ほんとに楽しそうね」

「楽しい、とは違うと言ったはずです」

「はいはい、そういうことにしといてあげる」

リーシャは笑いながら歩き出した。その足取りは、先ほどよりも幾分軽くなっているように見えた。緊張が解けたのか、あるいはアランのスキルへの信頼が芽生え始めたのか、おそらくその両方だろう。

通路はやがて広間へと繋がっていた。石造りの祭壇らしきものが奥に据えられ、天井近くの小窓から差し込む僅かな光が、埃の舞う空間を淡く照らしている。

「ここ、何かの祈祷室だったのかしらね」

「礼拝堂の地下に作られた迷宮ですから、宗教的な意匠が随所に見られます。ただ――」

アランは言葉を切り、広間の壁面に視線を走らせた。視界の端に、通常のマッピングデータには存在しない微かな反応が浮かんでいる。壁の一部、石の目地の間隔が周囲と僅かに異なっていた。

「壁の向こうに空洞があります。人為的に隠された可能性が高い」

「本当に? どこ?」

「祭壇の右手、奥から三番目の石材です」

リーシャは半信半疑の表情を浮かべながらも、指さされた場所に歩み寄った。石の表面を指先でなぞり、軽く押してみる。最初は何の反応もなかったが、力を込めて押し込むと、石材が僅かに軋みながら奥へと沈み込んだ。

低い音とともに、壁の一部がゆっくりと横にずれていく。

「……本当にあった」

リーシャの声には隠しきれない驚きが滲んでいた。開いた隙間の奥には、これまで通ってきた通路とは明らかに雰囲気の異なる、暗く狭い道が続いている。

「公式記録にはない区画です。探索率が九十八パーセントで止まっていた理由の一端でしょう」

「あんた、ほんとにこういうの見つけるの得意なのね」

「得意というより、見えているだけです。誰かが意図的に隠したものは、必ず不自然な痕跡を残します」

リーシャは隙間の奥を覗き込み、それから小さく息を吐いた。

「入るんでしょ、当然」

「もちろんです」

「はいはい。じゃあ先頭はあたしね」

短剣を構え直し、リーシャは隠し通路へと足を踏み入れた。その後ろに続きながら、アランは視界に浮かぶ新たな情報――先の見えない暗闇の奥に、これまでにない規模の反応が微かに滲んでいることに気づいていた。

まだ何かは分からない。だが、その存在感は、通常のモンスターや罠とは明らかに異質だった。

(記録しておこう。今はまだ、断定するには情報が足りない)

アランは静かにその違和感を胸の奥に留めながら、暗い通路の先へと歩を進めた。

◇

隠し通路は狭く、天井も低かった。石壁には蓄光石が一つも埋め込まれておらず、リーシャが腰の袋から取り出した小さな灯りだけが頼りだった。

「ねえ、こんな真っ暗な場所、よく見つけたわね」

「見つけたというより、見えた、というほうが正確です」

「同じことじゃないの」

「違います。見つけるのは偶然に左右されますが、見えるのは必然です」

「相変わらず屁理屈ね」

リーシャは苦笑しながらも、足取りに迷いはなかった。灯りの円の中に浮かぶ石床には、長い間人の足が踏み入れていない証拠のように、薄い埃の層が積もっている。

「アラン、この先どうなってるかわかる?」

「通路は緩やかに下っています。約三十メートル先で、また分岐が――いえ」

アランは言葉を止めた。視界に浮かぶ光点の配置が、これまでとは違う密度を示していたからだ。

「どうしたの」

「分岐ではなく、広い空間です。反応の数からして、単純な通路ではありません」

「モンスターがいる、ってこと?」

「一体、大きな反応があります。ただ――弱点の表示が、通常と違います」

「違うって、どういうふうに?」

「点滅しています。こんな表示は初めて見ました」

リーシャの表情が僅かに引き締まった。灯りを持つ手に、無意識のうちに力がこもる。

「それって、危険ってこと?」

「わかりません。データが足りません」

「あんたがわからないって言うの、なんか怖いんだけど」

「未知だからこそ、確かめる価値があります」

「あんたの理屈、たまにあたしを不安にさせるだけなんだけど」

そう言いながらも、リーシャは短剣の柄を確かめるように握り直した。二人は慎重に足を進め、やがて通路の先が広い空間へと開けているのを目にした。

そこは、これまで通ってきた迷宮とは明らかに異質な場所だった。天井は高く、壁面には見たことのない紋様が刻まれている。中央には石造りの台座があり、その上に何かが横たわっていた。

「あれが……ボス、ってこと?」

「おそらく。ただし、公式記録にあるボスとは別個体の可能性があります」

台座の上の影が、ゆっくりと動いた。人型に近いが、明らかに人ではない輪郭。石でできた鎧のような外殻に覆われた巨躯が、ゆっくりと身を起こす。

「守護者、と呼ばれる存在かもしれません」

「守護者?」

「隠された区画を守る番人です。一般的な迷宮の記録には、こうした個体の存在が示唆されることがあります。ただ、実際に確認された例は――」

「少ない、ってことね」

「はい」

守護者と思しき巨躯が、赤く光る目をこちらに向けた。空気が重くなったように感じられ、リーシャは無意識に一歩、アランの前に出た。

「下がってて。これはあたしの領分」

「弱点は――」

アランは視界に浮かぶ表示に目を凝らした。だが、先ほどまで点滅していた弱点の光点が、今度は完全に消えていた。

「消えました」

「は?」

「弱点の表示が、今、消えました」

「そんなことあるの?」

「わかりません。想定外です」

リーシャは短く舌打ちしたが、それでも足を止めなかった。

「想定外でも何でも、来るなら受けて立つしかないでしょ」

守護者が咆哮とともに動き出した。石の巨腕が振り下ろされ、リーシャはそれを紙一重で躱す。床が砕け、破片が周囲に飛び散った。

「アラン、何か情報ないの!」

「攻撃パターンを記録しています。次の一撃までの間隔は――」

視界の中で、守護者の動きが解析されていく。振りかぶりの角度、重心の移動、次に来る攻撃の予測範囲。だが、それだけでは決定打にならない。

「間隔は把握できますが、弱点がわからない限り、決め手に欠けます」

「じゃあ探して! あんたのそのスキルの本領でしょ!」

リーシャは短剣で守護者の脚を斬りつけたが、硬い外殻に阻まれ、浅い傷しか残せなかった。舌打ちしながら後方に飛び退く。

「くっ……硬い」

アランは焦りを表には出さなかったが、頭の中では猛烈な速度で情報を組み替えていた。弱点表示が消えている理由。守護者という存在の異常性。これは通常の迷宮生態系には存在しない個体だ。

(システムの参照先が壊れている……いや、それとも、意図的に隠されている?)

「リーシャさん、外殻の継ぎ目を見てください。左肩と胸部の間、動くたびに僅かに開く箇所があります」

「継ぎ目?」

「弱点表示はありませんが、物理的な脆弱性はあるはずです。データがなくても、構造的に推測できます」

「あんた、データなくても推測できるの、卑怯じゃない」

「褒め言葉として受け取っておきます」

リーシャは短く笑い、それから守護者の攻撃を再び躱しながら距離を詰めた。石の巨腕が空を切る間に、彼女の身体は低く沈み込み、短剣の切っ先が指定された継ぎ目へと吸い込まれていく。

金属と石がぶつかるような硬い音とともに、守護者の巨躯が僅かによろめいた。

「効いてる!」

「そのまま同じ箇所を狙い続けてください。三度目で外殻に亀裂が入る可能性が高いです」

「了解!」

二撃目、三撃目と、リーシャの短剣が同じ場所を執拗に狙う。守護者の反撃は激しさを増していったが、その動きのパターンはアランの解析によって次第に精度を上げていった。

「次は右から薙ぎ払いです、跳んでください」

「はいはい!」

リーシャが跳躍と同時に石の腕が空を切る。着地と同時に踏み込み、四撃目が継ぎ目に突き刺さった。硬質な音とともに、外殻の一部が砕け散る。

「見えました、内部構造です。核のようなものが胸部の奥にあります」

「核?」

「そこを破壊すれば動きを止められるはずです」

「わかった。援護よろしく」

リーシャは大きく息を吸い込み、守護者の巨躯へと真っ向から突っ込んだ。砕けた外殻の隙間に短剣を差し込み、そのまま体重をかけて押し込む。

守護者が苦悶するような咆哮を上げ、巨躯が大きく揺れた。

「もう少しです、あと一押しで――」

アランの声に押されるように、リーシャは短剣を最後まで押し込んだ。内部で何かが弾けるような音がして、守護者の目から光が急速に失われていく。

やがて、巨躯は力を失ったように崩れ落ち、石の破片となって床に散らばった。

静寂が戻った広間に、リーシャの荒い息遣いだけが響いていた。

「……勝った、のよね?」

「はい。討伐完了です」

リーシャは短剣を鞘に納めながら、へたり込むように床に座り込んだ。額には汗が滲み、腕は僅かに震えている。

「疲れた……いや、それより今の、なんだったの? あんな守護者、聞いたことないんだけど」

「僕も記録にない個体でした。おそらく、この隠し区画専用の存在です」

「専用の存在って、なんでそんなものがあるのよ」

「それを知るためにも、探索を続ける必要があります」

リーシャは大きく息を吐き、それから呆れたように笑った。

「あんた、こんな死にかけた後でも探索続行なのね」

「探索率はまだ百パーセントに達していません」

「知ってるわよ、その口癖」

そう言いながらも、リーシャは立ち上がり、埃を払った。疲労の色は隠せないが、その目にはまだ光が残っている。

広間の奥、守護者がいた台座の裏側に、新たな通路への入口があるのをアランは既に視界に捉えていた。

「あの奥にまだ続きがあります」

「はいはい、行きましょ」

「無理はしないでください」

「あんたに心配される筋合いはないんだけど」

軽口を叩きながらも、リーシャの足取りはしっかりとしていた。二人は台座の裏に開いた新たな通路へと足を踏み入れる。

その先に広がっていたのは、これまでの迷宮の雰囲気とはまったく異なる、静謐な空間だった。壁一面に刻まれた紋様が淡く発光し、中央には小さな祭壇のようなものが据えられている。

「ここが……この迷宮の最奥、ということでしょうか」

アランは視界に浮かぶ情報を確認した。探索率の表示が、これまでにない速度で更新されていく。

九十八、から――九十九。

「あと少しです」

「あと少しって、何が」

「探索率が、百分の百に近づいています」

リーシャは祭壇を見つめながら、小さく息を吐いた。

「あんたのその執念、ちょっとだけわかってきた気がする」

「わかっていただけるとは、意外です」

「意外は余計よ」

そう言いながら、リーシャは祭壇に近づいた。だが、その瞬間――紋様の光が急激に強まり、空間全体が振動し始めた。

「な、何?」

「予期しない反応です。探索率の更新が――」

視界の中で、探索率の数字が不安定に揺れ動く。九十九のまま止まったかと思えば、また下がる。まるで何かに拒絶されているかのようだった。

「アラン、これって……」

「わかりません。ただ、まだ何かが終わっていないということだけは確かです」

祭壇の奥、これまで見えていなかった空間が、闇の中からゆっくりと姿を現し始めていた。それは、先ほど倒したはずの守護者と酷似した輪郭を持つ、しかしより大きく、より歪んだ存在だった。

リーシャは短剣を構え直しながら、乾いた声で呟いた。

「……まさか、まだ本番はこれから、なんて言わないわよね」

アランの視界には、点滅する赤い光点と、これまで見たこともない規模の異常反応が広がっていた。

「言わないでほしいんですけど、たぶん――そういうことです」

静寂だった空間に、低い唸り声が響き始めた。

唸り声が空間全体を震わせた。祭壇の奥から現れた歪んだ巨躯は、先の守護者よりも二回りは大きく、外殻の継ぎ目は不規則に脈打つように蠢いている。赤い光点はもはや点滅ですらなく、視界いっぱいに警告のように滲み続けていた。

「アラン、状況は!」

「解析します、少し待ってください」

アランは意識を集中させた。目まぐるしく更新される情報の奔流の中から、必要な断片を拾い上げていく。

「わかりました。これは――先ほどの守護者の、いわば予備の個体です」

「予備?」

「本来はこの祭壇そのものを守るための本体で、先に倒したのは前哨戦に過ぎなかったようです。システムの参照構造がおかしい……おそらく、長年放置された影響で、制御が正常に機能していません」

「つまり?」

「暴走しています。本来なら決まった手順で沈黙するはずが、それができず、力だけが際限なく膨れ上がっている状態です」

リーシャは短剣を構えたまま、乾いた笑みを浮かべた。

「つまり、まともに戦ったら勝ち目薄いってことね」

「弱点はあります。ただし、先ほどのような単純な継ぎ目ではありません」

視界の中、巨躯の胸部中央に、他とは違う色合いの反応が浮かび上がっていた。淡く発光する結晶のようなものが、外殻の奥深くに埋め込まれている。

「胸の中心に、暴走の原因と思われる核があります。ただし外殻が分厚く、通常の攻撃では届きません」

「届かせる方法は?」

「攻撃のたびに外殻が僅かに開閉しています。おそらく力を溜める際の反動でしょう。そのタイミングを狙えば――」

言い終わる前に、巨躯が咆哮とともに突進してきた。床が砕け、破片が飛び散る中、リーシャは横に跳んでかろうじて直撃を免れる。

「悠長に説明してる暇、なさそうなんだけど!」

「攻撃の直後、三秒間だけ胸部の外殻が開きます。そこに全力の一撃を」

「三秒って短すぎでしょ!」

「他に方法がありません」

リーシャは舌打ちしながらも、短剣を握り直した。巨躯の腕が再び振り上げられる。今度はさっきよりも速い。

「来ます、右から――今!」

腕が振り下ろされた瞬間、リーシャはその内側へと踏み込んだ。攻撃をぎりぎりで躱しながら、巨躯の懐に潜り込む。胸部の外殻が、反動でわずかに開いた。

「そこです!」

リーシャの短剣が、開いた隙間へと吸い込まれるように突き刺さった。結晶に刃が届いた瞬間、巨躯全体が痙攣するように震え、耳をつんざくような叫びが空間に響き渡る。

「まだ死んでない、離れて!」

アランの声に、リーシャは即座に後方へ跳んだ。巨躯の腕が空を薙ぎ、彼女がいた場所を掠める。

「一撃じゃ足りない、ってことね」

「はい。あと二回、同じ攻撃が必要です」

「三秒の隙を、あと二回……」

リーシャは息を整えながら、巨躯を見上げた。その目には、疲労の色と共に、まだ消えない闘志が宿っていた。

「アラン、次のタイミング、確実に教えて」

「任せてください」

巨躯が再び咆哮し、腕を振り上げる。アランの視界には、その動きの一つ一つが精密なデータとして映し出されていた。振りかぶりの角度、重心の移動、そして攻撃後の反動によって生まれる僅かな隙。

「来ます、今度は左から。躱した直後に踏み込んでください」

「了解!」

腕が振り下ろされ、リーシャはそれを最小限の動きで躱す。着地と同時に踏み込み、開いた外殻へと二撃目を突き刺した。巨躯が再び震え、結晶の光が明滅する。

「あと一回!」

「息が……上がってきた……」

「無理をしないでください」

「無理しなきゃ、終わらないでしょ」

リーシャは荒い息を吐きながらも、短剣を握る手を緩めなかった。巨躯の動きが、これまでよりも鈍くなっている。核へのダメージが、確実に本体を蝕んでいるのだ。

「三度目の攻撃、来ます。これが最後のチャンスかもしれません」

「わかってる」

巨躯が咆哮とともに、両腕を振りかぶった。今までで最も大きな一撃。リーシャはその重心の変化を見逃さず、地を蹴った。

「今です、外殻が開きます!」

アランの声と同時に、リーシャの身体が巨躯の懐へと滑り込んだ。開いた胸部へ、短剣が全力で突き立てられる。

結晶が砕け散る音とともに、巨躯全体が大きく仰け反った。赤い光点が急速に薄れ、やがて完全に消え去る。巨躯はゆっくりと膝をつき、そのまま石の破片となって崩れ落ちていった。

静寂が戻った空間に、リーシャの荒い呼吸だけが響いていた。

「……終わった、の?」

「はい。核の破壊を確認しました」

アランは視界に表示される数字を見つめた。九十九のまま揺れ続けていた探索率が、ゆっくりと、しかし確実に動き始める。

九十九、九十九・五、そして――

「百パーセントです」

その言葉に、リーシャは短剣を鞘に納めながら、床にへたり込んだ。

「はぁ……マジで、疲れた……」

「お疲れ様でした」

「あんたも少しは疲れた顔しなさいよ、涼しい顔しちゃって」

「体力は使っていませんから」

「知ってるわよ、それくらい」

リーシャは笑いながら、天井を仰いだ。紋様の光は落ち着きを取り戻し、空間全体が静かな光に包まれている。

「ねえ、アラン」

「何ですか」

「あんたの言ってたこと、少しわかった気がする。この、埋まった瞬間の感覚……なんか、悪くないわね」

「それは、探索率が百パーセントに達したことへの感想ですか」

「そう。誰も見たことのない場所を、自分の目で確かめる感じ。理屈じゃなくて」

アランは少し考えてから、頷いた。

「僕にとっては理屈そのものが、その感覚と一致しています」

「相変わらず変な言い方ね」

リーシャは立ち上がり、埃を払いながら、崩れ落ちた巨躯の残骸を見下ろした。

「これで、この迷宮は本当に終わり、ってことでいいのよね?」

「はい。公式記録にない区画も含め、全ての探索が完了しました」

「じゃあ、帰りましょうか」

「そうですね」

二人は静かな空間を後にし、来た道を戻り始めた。石段を上るたびに、地上からの光が少しずつ強くなっていく。

◇

地上へと続く階段は長く、上るごとに空気が変わっていくのがわかった。じめついた迷宮の匂いが薄れ、代わりに草と土、そして微かな夕暮れの匂いが鼻先をかすめる。最後の一段を踏み越えた瞬間、頭上に広がる茜色の空が二人を出迎えた。

「うわ……眩しい」

リーシャが目を細めながら片手をかざした。長時間、蓄光石の青白い光の中にいた目には、自然光はあまりにも強すぎる。アランも同じように一瞬視界が白く飛んだが、すぐに慣れた様子で瞬きを繰り返した。

「日が落ちかけていますね。想定よりも時間がかかりました」

「そりゃそうでしょ、あんな守護者が二体も出てくるなんて、誰も予想してないわよ」

礼拝堂の入口には、まだ数人の冒険者たちが屯していた。彼らは地下礼拝堂を「攻略済み」として扱い、記念のような雰囲気で談笑している。その中の一人がリーシャの姿を見つけて声をかけた。

「おう、リーシャ! ボス討伐お疲れさん。そっちの坊主と組んでたんだって?」

「ええ、まあ」

「Fランクの解析屋だろ? 大丈夫だったのか、足手まといになってねえか」

アランは特に反応せず、ただ静かにその場に立っていた。慣れたもの、というよりは、そもそもそういう評価に感情を動かす理由がない、という態度だった。だがリーシャはその言葉に、わずかに眉を寄せた。

「足手まとい? 冗談でしょ。あんたたちが見つけられなかった隠し区画、全部こいつが見つけたのよ」

「隠し区画……? 地下礼拝堂に、そんなのあったのか?」

「あったのよ。しかも守護者付きの、本気のやつが」

冒険者たちはぽかんとした顔を見合わせた。地下礼拝堂といえば初心者向け、公式記録では探索率九十八パーセントとされ、既に「解明済み」の扱いを受けている迷宮だ。そこに未知の区画があったなど、彼らにとっては想像の外だったのだろう。

「……マジかよ」

「マジよ。詳しくはギルドで報告するけど」

リーシャはそう言うと、アランの背を軽く押すようにして歩き出した。

「ほら、行くわよ。ギルドに報告しないと」

「わかりました」

夕暮れの街を歩きながら、リーシャはずっと機嫌が良さそうだった。頬にはまだ疲労の色が残っているが、その足取りは軽い。

「ねえ、さっきの連中の顔見た? ぽかんとしちゃって」

「見ました」

「あんたのスキル、外れなんかじゃないってこと、これでちょっとは証明できたんじゃない?」

「証明する必要は、僕にとってはそれほど重要ではありません」

「またそれ。あんた、もうちょっと胸張ってもいいと思うんだけど」

「胸を張る、というのがよくわかりません。事実は事実として、そこにあるだけです」

リーシャは呆れたように肩をすくめたが、その口元には笑みが浮かんでいた。

「ま、それがあんたらしいっちゃらしいけど」

ギルドの建物は、街の中心部にある石造りの大きな建物だった。夕暮れ時ということもあり、受付には報告や依頼の受け取りに来た冒険者たちが列を作っている。二人はその列の最後尾に並んだ。

「結構混んでるわね」

「時間帯的なものでしょう」

「あんた、こういうとき暇でしょ。何か話しなさいよ」

「話すこと、というのは特にありません」

「じゃああたしが話すからいいわ。ねえ、次はどこ行くか決めてる?」

「まだ具体的には」

「あたしはさ、正直、今日みたいなの、ちょっと苦手だったのよ。地下とか、閉じた空間とか」

その言葉に、アランは僅かに視線をリーシャに向けた。彼女がそうした話を自分から口にするのは、これが初めてだった。

「知っています。潜入時、あなたの反応にその傾向が見えました」

「うわ、そんなのまで解析してたの」

「意図的にではありません。視界の情報として、自然に入ってきただけです」

「便利なんだか、迷惑なんだか」

リーシャは苦笑しながら、少し声を落とした。

「昔、パーティを組んでたときに、洞窟で生き埋めになりかけたことがあってね。それ以来、狭いところとか、暗いところがちょっと苦手になったの」

「今日の探索は、その苦手を克服する機会になりましたか」

「どうだろ。でも、あんたが先の情報を教えてくれるから、真っ暗な中でも、次に何があるかわかる感じがして。それが、思ったより怖くなかった」

「それは良かったです」

「良かった、で終わり? もうちょっと気の利いたこと言いなさいよ」

「気の利いたこと、というのが具体的に何を指すのか、判断が難しいです」

「はぁ、もういいわ」

そう言いながらも、リーシャの表情は柔らかかった。列が進み、やがて二人の番が回ってきた。

受付には、以前アランが登録の際に対応した女性職員が座っていた。彼女はアランの顔を見て、一瞬驚いたような表情を浮かべた。

「あら……あなた、確か……」

「Fランクで登録した、アランです」

「覚えてますよ。あの《解析記録》の……。それで、今日は何のご報告で?」

「《灰鐘の地下礼拝堂》の完全探索の報告です」

「完全探索……? あの迷宮でしたら、公式記録の探索率は九十八パーセントで、既にボス討伐によって攻略完了扱いになっていますが」

「その残りの二パーセントに、隠し区画と、記録にない守護者級の個体が二体存在していました。両方とも討伐済みです」

職員の手が、書類を捲る動きで止まった。

「……守護者、ですか」

「はい。一体目は通常の隠し区画の番人と思われる個体、二体目はその予備、あるいは本体と思われる、より強大な個体でした」

リーシャが横から補足するように言った。

「あたしも見たわ。本当にいたの。ちょっと信じられないくらいのやつが」

職員はしばらく言葉を失ったように二人を見つめていたが、やがて何かを確認するように立ち上がった。

「少々お待ちください。上の者に確認を取ってきます」

そう言って奥へと消えていく職員の背を見送りながら、リーシャは小さく笑った。

「ほら見なさい。あの反応。あんたのスキル、外れどころか、とんでもない当たりだったってことよ」

「まだ確定した評価ではありません」

「細かいわね、ほんと」

しばらくして戻ってきた職員は、先ほどよりも幾分か丁寧な様子で、二人を奥の部屋へと案内した。そこで改めて詳細な報告を行い、アランは自身の視界に記録されていた情報――守護者の外見、弱点、討伐の経緯――を可能な限り言葉にして伝えた。

聞き終えたギルドの上役らしき男は、しばらく腕を組んで沈黙していたが、やがて感嘆したように息を吐いた。

「これは……前例のない記録だ。地下礼拝堂に関しては、長年九十八パーセントが限界とされてきた。誰もその先を確かめようとはしなかった」

「探索率百パーセントは、達成不可能だと考えられていたのですか」

「そう考える者が大半だった。だが、君の言う通りなら、その常識そのものが誤りだったということになる」

男はアランの冒険者証を手に取り、しばらく見つめた後、静かに口を開いた。

「《解析記録》というスキル、私も報告書で見たとき、正直、戦闘には使えない外れスキルだと思っていた」

「そう評価されるのは承知しています」

「だが、これを見る限り、迷宮そのものの構造を暴く鍵になり得るスキルだ。少なくとも、私が今まで見てきたどんな戦闘スキルよりも、価値がある可能性を秘めている」

リーシャが誇らしげに胸を張った。

「でしょ? あたしが最初に声かけたときから、こいつはただ者じゃないと思ってたのよ」

「君は、確かリーシャだったか。今回の討伐、見事だった。今後もこの少年と組むつもりか?」

「もちろん」

その即答に、アランは僅かに視線を彼女に向けた。

「即答ですね」

「何よ、不満?」

「いえ。効率的な判断だと思います」

「効率とか言わないの、こういうときは」

上役は苦笑しながら、報告書に何かを書き加えていった。

「ランクについては、追って審査を行う。今日の報告内容が事実であれば、Fランクのままというのは不自然だろう」

「ランクの上下は、僕の目的にとって重要ではありません」

「わかっている。だが、君の功績は正しく評価されるべきだ」

その言葉に、アランは小さく頷くだけで、それ以上の感想は口にしなかった。名誉や評価そのものよりも、彼の関心は既に別の場所へと向かっていた。

ギルドを出た頃には、空はすっかり暗くなり、街の灯りが石畳を照らし始めていた。リーシャは大きく伸びをしながら、夜風を吸い込んだ。

「はぁー、疲れたけど、なんか気分いいわね」

「評価されたことが嬉しいのですか」

「それもあるけど、それだけじゃなくて。誰も知らなかった場所に、自分の足で足跡を残した、って感じが」

「それは、僕が求めているものと、少し似ています」

「でしょ? だからあたし、あんたと組んでよかったって思ってるの」

二人は並んで夜の街を歩いた。しばらく無言が続いた後、リーシャがふと思い出したように口を開いた。

「そういえば、次はどこ行くか、まだ決めてないのよね」

「候補はいくつか」

「どんなところ?」

「西の森の奥にある《朽ちた図書塔》。公式記録では探索率が七十二パーセントで止まっています。理由は不明です」

「七十二パーセント……随分中途半端ね」

「はい。だからこそ、確かめる価値があります」

リーシャは楽しげに笑った。

「あんたのそういうところ、最初は変わってると思ったけど、今はちょっと楽しみになってきたわ」

「それは意外です」

「意外って言うわね、あんた。まあいいわ。次はいつ出発する予定?」

「準備が整い次第。二、三日中には」

「じゃあ、その間にちゃんと休みなさいよ。今日の戦い、あたしだけじゃなくて、あんたの頭も相当酷使したはずでしょ」

「頭に疲労を感じることはありません」

「感じないんじゃなくて、感じないふりしてるんでしょ、絶対」

そう言われて、アランは少し考えるように黙り込んだ。実際、視界の情報を絶えず処理し続けていたことによる、目の奥の重さのようなものは確かにあった。それを疲労と呼ぶのかどうかは、彼にとって判断の難しい問題だった。

「否定はしません」

「ほら、やっぱり。ちゃんと休みなさいってば」

宿の前で二人は別れた。リーシャは軽く手を振りながら、自分の部屋へと戻っていく。その背中を見送りながら、アランはしばらくその場に立ち尽くしていた。

視界の端に浮かぶ小さな記録画面には、今日一日の探索データが整然と並んでいる。灰鐘の地下礼拝堂、探索率百パーセント。守護者級個体、二体討伐。隠し区画、完全解明。

その数字を見つめながら、アランは静かに息を吐いた。満足感というよりは、次の課題への意識が既に頭の中で動き始めていた。

(西の森の《朽ちた図書塔》。探索率七十二パーセント、その理由は――)

思考を巡らせながら、彼は宿の扉を開けた。まだ見ぬ迷宮の姿を思い描きながら、その夜、アランは久しぶりに深く眠りについた。

数日後、荷物をまとめた二人は、街の門をくぐって西へと向かう街道に立っていた。朝の光が石畳を照らし、遠くに霞む森の輪郭がぼんやりと見える。

「準備、万端?」

「はい。地図と記録、必要なものは全て揃えました」

「相変わらず用意周到ね」

「行き当たりばったりでは、正確な解析ができません」

「はいはい、わかってるわよ」

リーシャは腰の短剣を確かめるように触れながら、前方に広がる道を見つめた。その目には、以前のような緊張の色は薄く、代わりに確かな期待が浮かんでいる。

「次はどんな迷宮が待ってるかしらね」

「わかりません。だからこそ、行く価値があります」

「あんたのその理屈、もうすっかり聞き慣れちゃったわ」

二人は軽口を交わしながら、朝の街道を歩き出した。まだ誰も踏み込んだことのない、あるいは誰も辿り着けなかった未知の領域へ向けて。灰鐘の地下礼拝堂で得た確信を胸に、アランの視線は既に、遠く霞む森の奥へと向けられていた。

探索率百パーセント、その先に何があるのか。それを確かめるための旅は、まだ始まったばかりだった。

◇

森の奥へと続く道は、街道とは比べ物にならないほど荒れていた。木々の根が地面を割り、蔓草が行く手に絡みつく。頭上を覆う枝葉のせいで、昼だというのにあたりは薄暗く、湿った土と朽ち葉の匂いが濃く立ち込めていた。

「ねえ、本当にこの先に迷宮なんてあるの?」

リーシャが額の汗を拭いながら、うんざりしたような声を出した。短剣を鞘に納めたまま、時折邪魔な枝を斬り払って進んでいる。

「地図上の座標は一致しています。あと少しです」

「もう三十分は『あと少し』って言ってる気がするんだけど」

「主観的な体感時間と、実際の距離には乖離が生じやすいものです」

「はいはい、また屁理屈」

そう言いながらも、リーシャの足は止まらなかった。文句を言いつつ歩みを進めるのが、この数日で二人の間にできた一種のリズムになっていた。灰鐘の地下礼拝堂での一件から数日、アランは資料集めに奔走し、リーシャは装備の手入れと体力の回復に努めた。準備は十分だとアランは判断していたが、実際にこの目で対象を見るまでは、いかなる評価も仮説の域を出ない。

木々の切れ間が見えてきたのは、それから十分ほど歩いた後だった。視界が急に開け、二人は足を止めた。

「……これが」

リーシャが息を呑む声を漏らした。

森の中に、ぽっかりと切り開かれたような空間があり、その中央に古びた塔が聳え立っていた。石造りの外壁は蔦に覆われ、あちこちに亀裂が走っている。上部は崩れかけており、本来の高さがどれほどあったのかは想像するしかない。窓という窓は真っ暗で、中を覗かせることを拒むかのようだった。

「《朽ちた図書塔》……」

アランは呟きながら、視界に浮かぶ情報を確認した。だが、いつものように罠や生物の反応が浮かび上がってくる感覚がない。塔全体が、まるで灰色の霧に包まれているかのように、視界の解析が滞っている。

「アラン、どうしたの? 固まってるけど」

「……妙です」

「妙って?」

「通常、視界に入った建造物や迷宮の入口には、何らかの情報――罠の有無や構造の概要――が自動的に浮かびます。ですが、この塔からは、ほとんど何も読み取れません」

リーシャの表情が僅かに険しくなった。

「何も読み取れないって、あんたのスキルが効かないってこと?」

「完全に効かないわけではありません。ただ、極端に情報量が少ない。これほど反応が薄い対象は、これまで経験がありません」

「それって、危険信号なんじゃないの?」

「危険というより、未知数、というのが正確な表現です」

塔に近づくにつれ、周囲の空気が一段と重く感じられた。木々のざわめきさえも、この場所だけは避けているかのように静かだ。塔の入口――かつては大きな両開きの扉があったのだろう場所には、今は朽ちた木片が僅かに残るのみで、その奥は闇に沈んでいた。

「入る前に、ギルドの資料をもう一度確認しましょう」

アランはそう言って、荷物から羊皮紙の束を取り出した。ギルドで写し取ってきた、この迷宮に関する公式記録だ。

「《朽ちた図書塔》。かつては魔導士たちの研究拠点であったとされる塔が、何らかの理由で崩壊し、迷宮化した。内部には知識の断片や魔導具が眠っているとされ、探索価値は高いと評価されている」

「へえ、意外とロマンあるじゃない」

「問題はここからです。『探索率、七十二パーセントで長年停滞。理由は不明』。さらに、こう続きます。『複数のパーティが探索を試みたが、いずれも同じ地点で引き返している。負傷者は多いが、死者の報告はない』」

「死者がいないのは、まあ、良いことよね」

「はい。ですが、逆に言えば、誰も先に進めていないということでもあります」

リーシャは腕を組み、塔の入口を見上げた。

「同じ地点で引き返してる、ってことは、何か共通の理由があるはずよね。罠? モンスター?」

「記録にはそこまでの詳細がありません。負傷の種類についても、統一性がないようです。ある者は転落、ある者は原因不明の消耗、ある者は精神的な混乱を訴えて撤退した、と」

「精神的な混乱……なんか、物理的な迷宮って感じじゃないわね」

「僕もそう感じています。だからこそ、通常のスキル反応が薄いのかもしれません」

リーシャは短剣の柄に手をかけながら、少し不安そうに眉を寄せた。

「ねえ、あんたのスキルが効きにくい場所って、あたしたちにとって結構致命的なんじゃないの? あんたの情報がなきゃ、あたしたち、ただの脳筋コンビじゃない」

「脳筋という表現には語弊がありますが、懸念は理解できます」

「懸念で済む問題かしら、これ」

「情報が少ないなら、少ないなりの戦略を組みます。慎重に進めば、対処は可能なはずです」

「その『はず』が、一番信用できないのよね、あんたの場合」

軽口を叩きながらも、リーシャの声には確かな緊張が滲んでいた。灰鐘の地下礼拝堂での守護者との死闘を経験した後だからこそ、未知の危険に対する警戒心は以前よりも強くなっている。

塔の入口の前に立ち、アランは改めて視界の情報を精査した。薄い霧のような視界の中、かろうじて読み取れる情報がいくつかあった。

「入口付近には罠の反応がありません。ただし、これは『罠がない』ことを意味するのか、『検知できない』のかの区別がつきません」

「どっちにしろ、油断はできない、ってことね」

「そういうことです」

リーシャは深呼吸を一つしてから、短剣を抜いた。

「よし、行きましょ。あんたの目が利かないなら、あたしの経験と勘で補うしかないわね」

「頼りにしています」

「珍しく素直じゃない」

塔の中へと足を踏み入れると、外の光が一気に遠のいた。差し込む僅かな陽光が、崩れた壁の隙間から筋状に落ちているだけで、あとは深い暗闇が広がっている。リーシャが持ってきた灯りを掲げると、円形の広間のような空間が浮かび上がった。

床には無数の書物の残骸――もはや紙とは呼べないほどに朽ち果てた塊――が散乱している。壁際には崩れかけた書架が並び、そのいくつかは完全に倒れて、中身をぶちまけたまま放置されていた。

「これが図書塔、ね。名前の通りっちゃ通りだけど」

「かつては膨大な蔵書があったのでしょう。今はほとんど朽ちていますが」

アランは視界に浮かぶ淡い情報の断片を拾い集めていた。相変わらず罠や生物の反応は薄いが、それでも完全に何もない、というわけではない。奥へと続く通路の一つに、僅かな違和感を捉えた。

「あちらの通路、他と比べて空気の流れが不自然です」

「不自然って、どんなふうに?」

「本来なら風の通りがあるはずの構造なのに、そこだけ淀んでいます。何かが遮っているか、あるいは――」

「あるいは?」

「空間そのものが、通常とは異なっている可能性があります」

リーシャは灯りをその通路に向けた。暗闇の奥は何の変哲もない石造りの道に見えるが、確かに、他の場所とは違う重い気配が漂っているような気がした。

「行ってみる?」

「候補としては、まずここを避けて、通常の探索ルートを優先すべきだと思います。未知の要素にいきなり突っ込むのは非効率です」

「意外と慎重ね」

「今回は情報が少なすぎます。慎重にならざるを得ません」

二人はひとまずその通路を避け、広間の反対側にある階段へと向かった。上へと続く螺旋階段は、石材の一部が崩れており、慎重に足場を選ぶ必要があった。

「気をつけてください。三段目、踏板が浮いています」

「あ、それは見える、ってことね」

「はい。物理的な劣化は通常通り検知できています。読み取れないのは、それ以上の、システム的な情報のようです」

「システム的、って何よ、それ」

「弱点表示や罠の発動条件といった、迷宮そのものが持つ情報層のことです。それが、この塔では極端に希薄です」

「つまり、この塔自体が、あんたのスキルに対抗するような、何か特殊な仕組みを持ってるってこと?」

「可能性としては否定できません」

階段を上りきると、二層目のフロアが広がっていた。ここも同様に朽ちた書物が散乱し、崩れた書架の合間に、かろうじて原型を保っている棚がいくつか残っている。

「あ、これ……読める?」

リーシャが灯りを近づけて、比較的状態の良い一冊を手に取った。表紙には奇妙な紋様が刻まれており、開こうとすると、紙は乾いた音を立てて僅かに崩れた。

「文字は判読不能です。魔導文字か、あるいは既に失われた言語かもしれません」

「役に立たないってことね」

「情報としての価値はあります。少なくとも、この塔がかなり古い時代に建てられたものであることは推測できます」

フロアの奥へと進むにつれ、空気は徐々に冷たさを増していった。窓のない壁の連なりが、まるで迷路のように続いている。

「ねえ、アラン。さっきから思ってたんだけど」

「何ですか」

「この塔、なんか変よ。窓、外から見たときは何箇所かあったのに、中からは全然見当たらない」

言われて、アランは自身の記録を確認した。確かに、外観を観察した際には複数の窓の存在を視認していた。だが、内部を進んでいる今、それらしき開口部は一つも見当たらない。

「――内部構造が、外観と一致していない可能性があります」

「それって、どういうこと?」

「単純に言えば、内部の空間が、外から見える塔の大きさよりも広い、ということです」

リーシャは眉をひそめた。

「そんなことあるの?」

「通常はありえません。ですが、この塔に限っては、あらゆる『通常』が当てはまらないようです」

その言葉を裏付けるように、二人が進んできた通路の先には、これまで一度も見ていない新たな部屋が広がっていた。円形の空間の中央に、大きな石の机が据えられ、その上に一冊の本が静かに置かれている。他の書物とは違い、その本だけは劣化の様子が全く見られなかった。

「これは……」

アランが視線を向けると、視界の中でその本にだけ、微かな反応が浮かび上がった。これまで塔全体を覆っていた霧のような情報の欠落の中で、唯一、明確な存在感を放っている。

「反応があります。今までの中で、最も強い」

「それって、危険ってこと?」

「危険かどうかは、まだ判断できません。ただ、これがこの塔の核心に関わる何かである可能性は高いです」

リーシャは短剣を構えながら、慎重に机へと近づいた。

「探索率七十二パーセントで止まってた理由、これかもしれないわね」

「そうかもしれません。ですが――」

アランは言葉を切った。視界の端、部屋の壁の一部に、これまでとは違う奇妙な陰影が浮かび上がっていた。それは影のようでいて、輪郭が微妙に揺らめいている。

「リーシャさん、少し下がってください」

「何、また何か出てくるの?」

「わかりません。ただ、この部屋自体が、監視されているような感覚があります」

「監視……」

リーシャは短剣を握り直しながら、周囲を見回した。だが、目に見える範囲には何も異常はない。ただ、空気だけが、確かに張り詰めている。

「本を調べる前に、周囲の安全を確認しましょう」

「賛成。慎重すぎるくらいでちょうどいいわ、こういう場所は」

二人は部屋の隅々まで視線を巡らせながら、慎重に足を進めた。壁に刻まれた紋様、床の僅かな段差、天井の高さの不均衡――アランはそれら全てを記録し、頭の中で組み合わせながら、この空間が持つ異質さの正体を探ろうとしていた。

(探索率七十二パーセント。長年停滞し、誰も先に進めなかった理由。それが、この部屋に、あるいはあの本に集約されているとすれば――)

思考を巡らせながら、アランは静かに机の本へと視線を戻した。まだ何も判明していない。だが、これまでの迷宮とは明らかに異なる何かが、この《朽ちた図書塔》には潜んでいる。その確信だけが、今のところ唯一確かなことだった。

「アラン、あんた、なんか楽しそうな顔してるわよ」

「そう見えますか」

「見える見える。わかりやすいわね、こういうときだけは」

リーシャは苦笑しながら、それでも油断なく周囲を警戒し続けていた。二人は部屋の中央に据えられた石の机へと、一歩、また一歩と近づいていく。

まだ探索は始まったばかりだった。この塔が抱える謎の全貌が明らかになるまでには、きっとまだ長い道のりが残されている。だが、その先にある未知こそが、アランが求め続けてきたものそのものだった。

「さあ、この塔の正体、見せてもらいましょうか」

アランの呟きに、リーシャは短く頷いた。灯りに照らされた円形の部屋の中、二人は静かに、しかし確かな決意を持って、机の上の本へと手を伸ばした。

石の机に置かれた本へ、アランの指先が触れた瞬間、視界に浮かぶ反応が一気に強まった。これまで塔全体を覆っていた霧のような情報の欠落が、その一点だけ、まるで水面に石を投げ込んだときのように波紋を広げていく。

「……何か、来ます」

「来る? 何が」

言い終える前に、部屋の壁に浮かんでいた輪郭の揺らめく陰影が、急速に色を持ち始めた。それはまるで、壁そのものが薄い膜となり、その裏側にいる何かがこちら側を覗き込んでいるかのような感覚だった。

「アラン、下がって!」

リーシャが短剣を構えながら、アランの肩を後方へ引く。だが、陰影はそれ以上動く気配を見せなかった。ただ、じっと――観察するように、二人の姿を映し続けている。

「攻撃してくる気配はありません。ただ、明確に、僕らを見ています」

「見てるだけ、ってこと?」

「はい。おそらく、この本に触れたことへの反応です」

視界の隅に、これまで見たことのない表示が浮かび上がっていた。数字ではなく、文字にもならない、意味を成さない断片的な光の羅列。アランはそれを解析しようと意識を集中させたが、情報はまるで手のひらから零れる水のように、掴めるより早く崩れていく。

「読めません。これまでの罠やモンスターの表示とは、根本的に違う形式です」

「あんたが読めないなんて、ますます怪しいじゃない」

リーシャは短剣を握る手に力を込めながら、じりじりと机との距離を測っていた。だが、陰影のほうから攻撃的な動きが起きる様子はない。ただ静かに、揺らめきながらそこに在り続けている。

「アラン、この本、持ち出せそう?」

「わかりません。ですが、これがこの塔の停滞に関わっているなら、下手に動かすのは危険かもしれません」

「じゃあどうするのよ」

問いかけに答えようとした瞬間、アランの視界の端――ずっと不安定に揺れ続けていたはずのこの塔特有の情報層が、ほんの一瞬だけ、鮮明な像を結んだ。

それは数字だった。

『探索率:72』

その表示が、これまでのどの反応よりも強い意志を持って、視界の中心に焼きつくように浮かび上がる。まるで、この本こそが、七十二パーセントで止まり続けてきた原因そのものであることを示すように。

「見えました。この本が、探索率の停滞に直結しています」

「やっぱりそうなの? じゃあ、これを何とかすれば……」

リーシャが言い終える前に、壁の陰影がゆっくりと形を変え始めた。輪郭が伸び、まるで人型に近い何かへと収束していく。まだ攻撃の意思は感じられない。だが、その気配には、これまで遭遇したどの守護者とも異なる、静かな重さがあった。

「これは……」

「まだ判断できません。ただ、今の僕らでは、この正体を見極めるだけの情報が足りません」

リーシャは短く息を吐き、短剣を下げないまま、しかし無理に踏み込むこともしなかった。

「今日はここまで、ってことね」

「はい。無理に進めば、これまでの撤退したパーティと同じ結果になる可能性があります」

陰影は依然として揺らめきながら、二人の姿を見つめ続けている。敵意も、明確な拒絶も感じられない。ただ、そこに「在る」というだけの、静かな存在感だった。

「本には触れたまま、一旦引きましょう。持ち出すのは危険です」

「わかった」

二人はゆっくりと後退しながら、部屋の入口へと向かった。陰影はその動きを追うように、僅かに輪郭を揺らしたが、追ってくる様子はなかった。

円形の部屋を出て、朽ちた書物の散乱する広間まで戻ったところで、リーシャがようやく肩の力を抜いた。

「……なんか、今日はいつもと違う疲れ方したわね」

「同意します。物理的な戦闘はありませんでしたが、情報的な負荷は相当なものでした」

「あの陰影、結局何だったのかしらね」

「わかりません。ですが、この塔が七十二パーセントで止まっていた理由の核心に、確実に近づいたはずです」

塔の外に出ると、いつの間にか日は傾き始めていた。木々の隙間から差し込む光が、朱色に染まりつつある。リーシャは大きく伸びをしながら、塔を振り返った。

「また来るのよね、ここ」

「もちろんです。まだ何も終わっていません」

「知ってた。あんたがそう言うの、もう予想できるようになってきたわ」

苦笑するリーシャの横で、アランは静かに視界の記録を確認していた。円形の部屋、劣化しない本、揺らめく陰影――そのどれもが、これまでの迷宮とは異質な情報として刻まれている。

(探索率七十二パーセント。その先にあるものが、少しだけ見えた気がする)

まだ全貌には遠い。だが、確実に前進はしている。その事実だけを胸に、アランは森の奥に沈みゆく塔の輪郭を、しばらくの間見つめ続けていた。

◇

森を抜ける頃には、空はすっかり暗くなっていた。街の門をくぐる時刻には、篝火の灯る城壁の脇で門番があくびを噛み殺しているのが見えた。

「はぁ……やっと着いた」

リーシャが大きく息を吐きながら、両腕を上に伸ばした。背骨が軋むような音がして、彼女は顔をしかめる。

「思ったより体力を使いましたね」

「戦ってないのに、なんかどっと疲れるのよね、今日みたいなのは」

「精神的な負荷が大きかったのだと思います。あの陰影と対峙している間、身体は緊張状態を維持していたはずです」

「あんたに言われるとなんか、機械の調子でも診断されてるみたいで嫌なんだけど」

「事実を述べているだけです」

「わかってるわよ、それが余計腹立つの」

軽口を叩きながらも、リーシャの声には安堵の色が混じっていた。街の灯りが見える場所まで戻ってきたことで、ようやく肩の力が抜けたのだろう。

大通りに差し掛かると、夜の飯屋から漏れる灯りと匂いが二人を包んだ。焼いた肉と香草の匂いに、リーシャの腹が小さく鳴る。

「ちょっと、今の聞いた?」

「聞きました。何も言いません」

「言おうとしたでしょ、今」

「否定はしません」

「もういいわ。とにかく、飯食いながら話しましょ。今日のこと、あたし一人じゃ整理つかない」

行きつけになりつつある小さな飯屋の隅の席に、二人は落ち着いた。木製のテーブルはあちこち傷んでいるが、油と煙で燻された壁の匂いには、どこか安心感がある。注文したスープと硬いパンが届くまでの間、リーシャは椅子に深く座り、腕を組んだ。

「じゃあ、まとめましょうか。今日わかったこと」

「はい。荷物から記録を取り出します」

アランは持参していた羊皮紙を広げ、木炭の欠片を手に取った。灯りに乏しい店内でも、彼の筆致は乱れることなく、几帳面な文字と記号を並べていく。

「まず、《朽ちた図書塔》は、僕のスキルに対する反応が異常に薄い迷宮です。罠や生物の情報がほとんど得られません」

「それは最初からわかってたことよね」

「はい。ですが、今日新たに判明したことがあります。一つ、内部構造が外観と一致しない。外から見えた窓の数と、内部で確認できた開口部の数が合致しません」

「塔の中が、外から見た大きさより広い、ってやつね」

「そうです。二つ、円形の部屋にあった本だけが、この塔で唯一、明確な反応を示しました。他の書物は完全に朽ちていましたが、あの本だけは劣化していませんでした」

リーシャはスープを一口飲み込みながら、頷いた。

「三つ目は、あの陰影よね」

「はい。あの陰影は、本に触れた直後に色を持ち始め、明確な観察の意思を示しました。攻撃性はなく、ただ僕らを見ていた」

「見てた、っていうか、なんか値踏みされてる感じがしたわ、あたしは」

「値踏み、ですか」

「うまく言えないんだけど、敵意とはちょっと違う感じ。品定めっていうか、確かめられてる、みたいな」

アランは木炭を持つ手を止め、その言葉を静かに書き足した。感覚的な情報は数値化できないが、記録としての価値はある。リーシャの直感は、これまでの探索において何度か有効な補足情報を提供していた。

「四つ目、探索率の表示です。あの部屋を出る直前、視界に『探索率:72』という数字が、これまでにない強さで浮かび上がりました」

「あれ、なんかすごく意志を持ってるみたいだったわね」

「はい。単純な情報表示というよりは、まるで――」

「まるで?」

「まるで、そこに何かの意図が込められているような、そんな印象を受けました」

リーシャはパンを千切りながら、少し眉を寄せた。

「あんたのそのスキル、罠とか生態を『覗き見る』ってやつよね。ってことは、あの表示も、何かの意識から漏れてる情報、ってこと?」

「可能性はあります。ですが、確証はありません」

「じゃあ、仮説でいいから聞かせてよ。あんた、こういうとき色々考えてるでしょ」

アランは少し考えるように視線を落とした。木炭の先が、羊皮紙の上に小さな点を作る。

「仮説は複数あります。一つ目――あの陰影は、この塔で研究をしていた魔導士の、何らかの残留思念、あるいは記録された意識である可能性です」

「残留思念?」

「魔導士が死の間際、あるいは実験の過程で、自身の意識の一部をこの場所に固定させた、という説です。書物の中には、そうした技術に関する記述も存在すると言われています」

「なんか物騒な話ね」

「物騒かどうかは別として、可能性としては一定の説得力があります。あの本だけが劣化していない、という事実も、意識的な保存作用の結果と考えれば説明がつきます」

リーシャはスープを飲みながら、興味深そうに頷いた。

「じゃあ、二つ目は?」

「二つ目――あの陰影は、この塔そのものが持つ、いわゆる『管理者』的な存在である可能性です」

「管理者?」

「迷宮という空間そのものを維持し、探索率を制御する役割を持つ存在です。灰鐘の地下礼拝堂にいた守護者は、隠し区画を守る番人でしたが、この塔にいるものは、それとは異なる階層の存在かもしれません」

「守護者よりも、上の存在ってこと?」

「はい。守護者が『区画を守る』のに対し、管理者は『塔全体を管理する』という違いがあります。もしこの仮説が正しければ、探索率が七十二パーセントで止まっていたのは、単に隠された区画があったからではなく、この管理者が意図的に探索の進行を止めていた、ということになります」

リーシャは腕を組み、しばらく黙り込んだ。

「……なんか、それはそれで怖い話ね。誰かが、あるいは何かが、わざと止めてた、ってことでしょ」

「そうなります」

「じゃあ、三つ目は?」

「三つ目――あの陰影は、僕の《解析記録》そのものに反応する、特殊な存在である可能性です」

その言葉に、リーシャは目を丸くした。

「あんたのスキルに、反応する?」

「はい。これまでの迷宮では、スキルは一方的に情報を読み取るだけの機能でした。しかし、この塔では反応が極端に薄く、逆に本に触れた瞬間から、こちらを『観察』する存在が現れました。これは、単なる偶然とは考えにくい相関です」

「つまり、あんたが解析しようとしたから、向こうも見てきた、ってこと?」

「可能性の一つです。もしそうであれば、この塔の異常な情報の薄さそのものが、僕のスキルに対抗するための、何らかの防衛機構である、という説明も成り立ちます」

リーシャはしばらく黙って、スープの表面に浮く油をスプーンでかき混ぜていた。

「……あんた、それ、自分で言ってて怖くないの?」

「怖い、というのがどういう感覚か、正確にはわかりません。ただ、興味深いとは思っています」

「その反応、ほんと変わってるわね」

リーシャは苦笑しながら、スプーンを置いた。

「ま、どの仮説が正しいにしても、はっきりしてることは一つよね」

「何ですか」

「あの陰影は、あたしたちを、まだ『見てる』だけの段階にある、ってこと。攻撃的じゃなかったし、追ってもこなかった。今の時点では、敵として確定してるわけじゃない」

「その解釈は、僕も同意します。攻撃の意図がないというのは、少なくとも即時の脅威ではないことを示唆しています」

「じゃあ、次にあそこに行ったとき、どうする? また本に触れる?」

アランは羊皮紙に書き加えた記録を見つめ、少し考えた。

「触れる必要はあります。あの本が、探索率の停滞の核心である可能性が高い以上、避けて進むことはできません」

「また、あの陰影が出てくるってことよね」

「はい。ただ、前回よりも情報が増えている分、対処の選択肢も増えるはずです」

リーシャはテーブルに肘をつき、頬を手のひらで支えながら、アランをじっと見つめた。

「ねえ、アラン」

「何ですか」

「あんた、あの陰影が怖くないの? あたしはちょっと、正直、鳥肌立ったんだけど」

アランは一瞬、視線を上げてリーシャを見た。彼女の目には、隠しきれない不安の色が僅かに浮かんでいる。強気な口調の裏に、それでも人間らしい感情が確かに存在していることを、アランは改めて認識した。

「怖い、という感覚は、僕にとってはあまり馴染みのないものです。ただ、あの陰影が何であるのか、わからないという状態そのものには、居心地の悪さを感じています」

「居心地の悪さ、ね」

「はい。それを『怖い』と表現するのが正しいのかもしれません」

リーシャは小さく笑った。

「意外と正直に言うじゃない、そういうときは」

「事実を述べているだけです」

「またそれ」

軽く笑いながら、リーシャはスープの残りを飲み終えた。店内の喧騒が、いつの間にか二人の会話の背景音として馴染んでいる。

「でも、あたしはさ、ちょっと思うことがあるのよね」

「何ですか」

「あの陰影、最初はただの揺らめきだったけど、最後には人型に近づいていったじゃない」

「はい。輪郭が徐々に収束していく様子を確認しました」

「それって、もし本当に誰かの残留思念みたいなものなら――もしかしたら、その誰かは、あたしたちに『気づいてほしい』のかもしれない、って思ったの」

その言葉に、アランは思考を止めた。感情的な推測ではあるが、論理的に排除できる要素ではない。

「気づいてほしい、というのは、どういう意味ですか」

「わからないけど。ただ、あれだけの時間、誰にも気づかれずに、あの塔に閉じ込められてたんだとしたら――ちょっと、寂しいだろうな、って」

リーシャは自分の言葉に少し気恥ずかしくなったように、視線を逸らした。

「まあ、ただの感想よ。あんたの理屈とは違うから、記録には残さなくていいわ」

「いえ、記録します」

「え?」

「感覚的な情報も、後になって解析の役に立つことがあります。特に、この塔のように定量的なデータが乏しい状況では、あなたの直感は貴重な変数になります」

リーシャは意外そうな顔をしながらも、少し嬉しそうに口元を緩めた。

「ふふ、変数扱いって、なんか複雑な気持ちだけど……まあいいわ。ありがたく受け取っておく」

木炭が羊皮紙の上を走り、リーシャの言葉が記録として刻まれていく。アランはその一文を書き終えると、しばらく手を止めて考え込んだ。

(もし、あの陰影が何らかの意識を持ち、気づかれることを望んでいるのだとすれば――それは、僕らが今まで遭遇した、どの存在とも異なる種類の未知だ)

これまで対峙した影狼や守護者は、明確な敵として存在していた。倒すべき対象であり、それ以上の関係性は生まれない。しかし、あの陰影は違う。攻撃せず、ただ観察し、そして人型へと近づいていく――それは、対話の可能性を示唆しているようにも思えた。

「アラン、また考え込んでる」

「すみません。仮説の整理をしていました」

「まあ、いいけど。それより、次はいつ塔に戻る?」

「二、三日、様子を見たいと思っています」

「様子を見る? 何を見るのよ」

「あの陰影が、今も同じ状態を維持しているのか、あるいは何らかの変化を見せているのか。もし可能なら、一度街のギルドで、この塔に関する古い記録がないか調べたいと考えています」

リーシャは腕を組んで頷いた。

「それ、いいわね。ギルドなら、昔の探索記録とか、失敗した理由の詳細とか、残ってるかもしれないもの」

「はい。特に、精神的混乱を理由に撤退したパーティの記録があれば、あの陰影との接触について、何らかの手がかりが得られるかもしれません」

「じゃあ、明日はギルド、ってことね」

「そうしましょう」

食事を終えて店を出ると、夜の街はすでに静かな時間に入っていた。石畳を歩く二人の足音だけが、規則的に響いている。

「ねえ、アラン」

「何ですか」

「今日のあの陰影、あんたのスキルでも読めなかった、って言ってたけど。それって、結構珍しいことなんじゃないの?」

「はい。これまで遭遇したどのモンスターや障害物も、多少の差はあれ、必ず何らかの情報を返してきました。完全に読み取れない対象というのは、今回が初めてです」

「それって、あんたにとって、どういう感じなの? なんか、悔しい、とか思うの?」

アランは少し考えてから、答えた。

「悔しい、というより――もっと知りたい、という感覚が強いです」

「相変わらずね、あんたって」

リーシャは呆れたように笑ったが、その笑みにはどこか温かさがあった。

「まあ、それがあんたらしいっちゃらしいけど。あたしとしては、正直、あんな得体のしれないものと関わるの、あんまり気は進まないのよね」

「無理をさせるつもりはありません。危険が高いと判断した場合は、いつでも撤退を優先します」

「わかってる。それは信頼してるから、あんたと組んでるのよ」

その言葉に、アランは僅かに視線をリーシャに向けた。彼女は特に気にする様子もなく、夜空を見上げながら歩き続けている。星の少ない街の空には、雲間から覗く月がぼんやりと輪郭を見せていた。

「信頼、というのは、僕の判断力に対するものですか」

「そうよ。あんたの理屈、たまに変だと思うこともあるけど、外れたことないもの。だから、今回も、あんたが『危険だ』って言ったら、あたしはすぐに従う」

「それは、ある種の合理的な判断だと思います」

「合理的とか言わないでよ、こういうときは」

宿の前まで来ると、二人は足を止めた。リーシャは扉に手をかけながら、もう一度アランのほうを振り返った。

「明日はギルドで記録探し。その次は――また塔に戻る、ってことでいいのよね?」

「はい。ただし、慎重に進めます」

「知ってる。あんたが慎重じゃなかったことなんて、一度もないもの」

「そう評価していただけるのは、意外です」

「うるさいわね、素直に受け取りなさいよ」

リーシャは苦笑しながら扉を開け、宿の中へと入っていった。その背中を見送りながら、アランはしばらくその場に立ち尽くしていた。

夜風が頬を撫でる。街の灯りが石畳に淡く反射し、遠くの喧騒がかすかに耳に届く。アランは視界の端に浮かぶ記録画面――今日一日で書き加えられた仮説の数々を、静かに見つめた。

残留思念、管理者、あるいはスキルそのものへの反応。三つの仮説は、いずれも決定的な証拠を欠いている。だが、それぞれが持つ可能性の重さは、これまで挑んできたどの迷宮とも異なる種類の緊張感を、アランの中に生み出していた。

(探索率七十二パーセント。その先に何があるのか――)

視界の中で、ぼんやりと浮かぶ数字の残像を、アランはしばらく見つめ続けた。まだ全貌は見えない。だが、確実に何かが動き始めているという確信だけが、静かに胸の奥に根を張っていく。

宿の扉を開ける前に、アランはもう一度、夜空を見上げた。雲間から覗く月の光が、まるで彼の思考を静かに見守っているかのように、淡く街を照らしていた。

◇

翌朝、ギルドの扉が開くと同時に、二人はその中へと足を踏み入れた。まだ朝の早い時間帯で、受付には人影も少ない。カウンターの奥に座る職員――以前アランたちの報告を受けた女性――が、二人の姿を見て軽く手を上げた。

「あら、お二人とも早いですね。今日はどのようなご用件で?」

「《朽ちた図書塔》に関する古い記録を確認させていただきたいのですが」

「朽ちた図書塔……ああ、あの探索率が長年止まっている迷宮ですね。少々お待ちください」

職員は席を立ち、奥の書庫へと消えていった。リーシャはカウンターに肘をつきながら、小さく息を吐いた。

「なんか、こういう地道な調べもの、あんたの本領って感じよね」

「戦闘よりも、こちらのほうが僕には向いていると思います」

「知ってる。だからこそ、あたしが前で戦う役なんでしょ」

しばらくして、職員は数枚の古びた羊皮紙を手に戻ってきた。

「これが、《朽ちた図書塔》に関する過去の報告書です。かなり古いものもありますが、参考になるかもしれません」

「ありがとうございます」

受け取った羊皮紙を、アランはすぐにその場で広げた。インクは薄れ、一部は判読が難しくなっているが、それでも幾つかの単語が目に留まった。

――『声を聞いた』『誰かに見られている気がした』『本には触れるな』

その最後の一文に、アランの視線が留まった。

「リーシャさん、これを見てください」

「『本には触れるな』……? まさか」

「おそらく、僕らが見たあの円形の部屋の本のことを指しているのだと思います。過去に到達した誰かが、同じ警告を残しているようです」

リーシャは羊皮紙を覗き込み、眉を寄せた。

「じゃあ、あたしたち、もうその警告、無視して触れちゃったってことじゃない」

「結果的にはそうなります」

「……大丈夫なのよね?」

「今のところ、明確な被害は出ていません。ただ、この記録が正しければ、あの陰影との接触には、何らかの継続的なリスクが伴う可能性があります」

リーシャは短く息を吐き、それでも羊皮紙の残りに目を走らせた。文字は途中で乱れ、まるで書き手が最後まで書き切れなかったかのように途切れている。

「この人、どうなったのかしらね」

「記録が途切れているということは、報告が完結していない、という可能性があります。少なくとも、通常の撤退報告とは異なる終わり方だったのかもしれません」

その言葉に、リーシャは少し表情を硬くした。

「……なんか、笑えない話になってきたわね」

「はい。ですが、これで一つ、確かなことがわかりました」

「何が?」

「僕らが遭遇した現象は、過去にも同様の形で発生していた、ということです。つまり、あの陰影は、単発の異常ではなく、この塔に根付いた、恒常的な存在だということです」

リーシャは羊皮紙を丁寧に折り、職員に礼を言って返却した。ギルドの外に出ると、朝の光が眩しく、二人はしばらく無言で立ち尽くした。

「ねえ、アラン」

「何ですか」

「それでも、行くのよね。あの塔に」

「はい」

「怖くないの、って聞いたら、また『居心地が悪い』とか答えるんでしょ」

「おそらく、そうなります」

リーシャは小さく笑い、それから短剣の柄に手を触れた。

「まあ、いいわ。あんたが行くって言うなら、あたしも一緒に行く。それが、あたしの役目だもの」

「頼りにしています」

朝の街の喧騒が、少しずつ活気を増していく。二人はしばらくその場に立ち止まり、これから向かうべき森の方向を、静かに見つめていた。まだ答えは見えない。だが、確実に、何かの核心へと近づいているという確信だけが、二人の胸の中で静かに息づいていた。

「アラン、いつ行くの? あの塔に」

リーシャの問いに、アランは荷物の中の羊皮紙を確認しながら答えた。

「今日、これから向かいます。情報は十分ではありませんが、待っていても増えるものでもありません」

「今日って、今から?」

「はい。準備はもう整っています」

リーシャは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに肩をすくめて短剣の位置を確かめた。

「ま、あんたがそう言うなら、そのつもりでいたけど。ほんとに早いのね」

「情報が増えるのを待つより、現地で確かめるほうが効率的です。過去の報告書にあった『本には触れるな』という警告も、それだけでは対処法として不十分です」

「じゃあ、今日はどうするつもりなの? また本に触れるの?」

「触れます。ただし、前回とは違う準備をしてきました」

アランは荷物の中から、小さな布に包まれた木炭の束と、追加の羊皮紙を取り出して見せた。

「陰影の輪郭が人型に近づいていく過程を、より詳細に記録します。もし本当にあれが対話を求める存在であるなら、記録の精度が、次の判断材料になるはずです」

「対話、って言うのね、あんた」

「リーシャさんの仮説を、可能性として排除していません」

リーシャは少しばつが悪そうに視線を逸らしたが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。

「あんたがそう言うなら、あたしも本気で考えてみるわ。あの陰影が、何かを伝えたがってるのかもしれない、って」

二人は街の門を出て、再び森へと続く荒れた道を歩き始めた。朝の光はまだ木々の隙間から柔らかく差し込んでいたが、進むほどにその光は薄れ、湿った土と朽ち葉の匂いが濃くなっていく。

「ねえ、アラン」

「何ですか」

「昨日の三つの仮説、覚えてる? 残留思念、管理者、それとあんたのスキルへの反応」

「はい、記録しています」

「どれが一番、あんたはあり得ると思ってるの?」

アランは足元の蔓草を避けながら、少し考えた。

「現時点では、どれも決定的な証拠を欠いています。ただ――」

「ただ?」

「陰影が人型に近づいていく過程を考えると、単純な管理システムの反応とは考えにくい部分があります。管理者であれば、より効率的な対処、たとえば侵入者の排除や警告表示だけで十分なはずです。わざわざ輪郭を変化させる必要はありません」

「じゃあ、残留思念のほうが近い、ってこと?」

「可能性としては高いと考えています。ただ、それが僕のスキルに反応している、という三つ目の仮説と、完全に排他的なわけではありません。両方が同時に成立する可能性もあります」

「つまり、誰かの意識が残っていて、それがあんたのスキルに気づいて、反応してる、ってこと?」

「はい。もしそうであれば、これまで誰も『気づかれなかった』理由も説明がつきます。《解析記録》のような読み取り能力を持つ者が、これまでこの塔を訪れていなかったのだとすれば」

リーシャはしばらく黙り込み、それから小さく息を吐いた。

「なんか、あんたのスキル、外れどころか、この塔にとっては特別な鍵みたいなものだったのかもしれないわね」

「まだ仮説の段階です」

「知ってる。でも、悪くない仮説だと思うわ」

木々の切れ間が見えてきたのは、それから小一時間ほど歩いた後だった。昨日と同じように、森の中にぽっかりと開けた空間が広がり、その中央に古びた塔が聳え立っている。蔦に覆われた石壁、崩れかけた上部、そして真っ暗な窓――昨日見たままの姿が、そこにあった。

「変わってないわね、見た目は」

「はい。ただ、内部の状況は変化しているかもしれません」

塔の前に立ち、アランは改めて視界の情報を確認した。相変わらず罠や生物の反応は薄い。だが、以前と比べて、何か僅かに違う気配があるようにも感じられた。それが具体的に何を意味するのか、今はまだ判断がつかない。

「アラン、大丈夫? また固まってる」

「――いえ、確認していただけです。行きましょう」

リーシャは短剣の柄に手をかけ、深く息を吸い込んだ。

「よし。今日こそ、あの陰影の正体、少しでも近づいてみせるわよ」

「はい」

二人は朽ちた入口をくぐり、再び塔の暗がりへと足を踏み入れた。石段を上り、朽ちた書物の散乱する広間を抜け、内部構造の異常な広がりを示す通路を進んでいく。以前通ってきた道のはずなのに、どこか昨日とは違う静けさが漂っているようにアランは感じた。

「ねえ、なんか、今日のほうが静かじゃない?」

「同感です。塔全体の反応が、以前よりもさらに薄くなっているようです」

「それって、良いことなの、悪いことなの?」

「わかりません。ただ、僕らの接近を、塔全体が意識しているような、そんな印象があります」

リーシャは短く息を吐き、灯りを掲げながら歩みを進めた。やがて、二人は昨日と同じ、円形の部屋へと通じる通路の入口に辿り着いた。

「ここ、よね」

「はい。この先に、あの部屋があります」

通路の奥から、微かな冷気が流れてくるのを、アランは肌で感じた。それは物理的な温度差というよりも、もっと別の、説明しがたい種類の感覚だった。

「行きましょう」

「わかった」

リーシャが一歩を踏み出し、アランがその後に続く。通路の先に見えてきた円形の部屋には、昨日と同じように、中央の石机に一冊の本が静かに置かれていた。劣化を知らないその本は、周囲の朽ちた光景の中で、変わらず異質な存在感を放っている。

そして、部屋の壁には、昨日見たあの揺らめく陰影が、既にそこにあった。まるで、二人が来るのを待っていたかのように。

「……やっぱりいたわね」

「はい。輪郭は、昨日よりも幾分、はっきりしているように見えます」

アランの視界に、淡い光の反応が浮かび上がる。まだ数字にも文字にもならない、意味を成さない光の羅列。しかし、その揺らめきの中に、以前よりも僅かに強い「意志」のようなものを、アランは感じ取っていた。

リーシャは短剣を構えたまま、しかし攻撃の姿勢は取らずに、静かに陰影を見つめた。

「ねえ、あんた」

その声は、アランに向けたものではなかった。壁の陰影に向かって、リーシャは静かに、しかし確かな声で語りかけていた。

「あたしたち、あんたに危害を加えるつもりはないわ。ただ、知りたいだけ。あんたが、何なのか」

陰影は答えなかった。ただ、その輪郭が、僅かに揺らぎながら、二人のほうへとにじり寄るように形を変えていく。

アランは息を潜めながら、その変化の全てを視界に記録し続けた。攻撃の兆候はない。ただ、静かな観察と、確かに何かを「伝えようとしている」ような気配だけが、そこにあった。

「アラン、記録できてる?」

「はい。全て、記録しています」

「じゃあ、あたしたちにできることは、今はこれだけかもしれないわね。見て、記録して、少しずつ、あんたのことを理解していく」

リーシャの言葉に、陰影の輪郭が、これまでで最も人型に近い形へと収束していった。まだ顔の詳細も、性別も、何一つ判別できない。だが、確かにそこには、何かの「意志」を持った存在が、静かに佇んでいた。

アランは視界の隅に浮かぶ『探索率:72』の表示を見つめながら、静かに思考を巡らせた。

(この数字が動く日が、いつか来るのかもしれない)

まだ答えは遠い。だが、確実に、二人はその核心へと、一歩、また一歩と近づいている。円形の部屋に満ちる静かな緊張感の中、アランとリーシャは、揺らめく陰影と向き合い続けていた。

その先に何が待っているのか、まだ誰にもわからない。だが、この《朽ちた図書塔》が抱える謎の全貌を解き明かすまで、二人の歩みが止まることはないだろう。未知への探求こそが、アランの求め続けてきたものであり、そしてリーシャもまた、その道を共に歩む決意を固めていた。

◇

陰影の輪郭が人型に近づいてから、時間の感覚が曖昧になっていた。石の机の上で本は静かに開かれたままで、アランの指先はまだそのページの端に触れている。壁の中の存在は、もう単なる揺らめきではなく、肩の丸み、腕の長さ、そして頭部らしき膨らみまでを持つようになっていた。

「……近づいてる」

リーシャが囁くように言った。短剣を構えたまま、しかし刃先はまだ下を向いている。攻撃の意思がないことを、彼女自身も認めているのだろう。

「はい。輪郭の収束速度が上がっています。前回、前々回と比較して、明確に加速しています」

アランは視界に浮かぶ数値の羅列を追いながら、木炭を握る手を動かした。羊皮紙の上に、輪郭の変化を記録するための簡易な図を描いていく。丸、線、また丸。子供の落書きにしか見えないその図が、今のところ唯一の客観的な記録だった。

「加速してるって、どういうこと? あたしたちが来る回数が増えたから?」

「可能性はあります。あるいは、僕らが本に触れ続けていることが、収束を促す要因になっているのかもしれません」

「じゃあ、今、あんたが本から手を離したら、どうなるの?」

「試してみます」

アランはゆっくりと指先を本のページから引き上げた。触れた瞬間から続いていた視界の強い反応が、途端に薄れていく。壁の陰影も、それに合わせるように、輪郭の輝きを僅かに落とした。だが、完全には消えなかった。人型に近い輪郭は、そこに残ったままだった。

「戻らない、みたいね」

「はい。一度進んだ収束は、後退しないようです。つまり、これは一方通行の変化だということになります」

「一方通行……」

リーシャは短く息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。

「じゃあ、今さら本に触れるのやめても、意味ないってこと?」

「そうなります。既にある程度の反応を引き起こしてしまった以上、途中で撤退しても、この陰影の変化自体は止まらないと考えられます」

「なんか、それって、あたしたちのせいで、これが起こってる、って感じよね」

「否定はできません。ただ、この変化が悪いものだとは、今のところ判断できません」

リーシャは陰影に視線を戻した。輪郭はもう、明確に「人」の形をしていた。だが、顔にあたる部分だけが、依然として輪郭の内側で淡く揺らぎ、何も映さない。

「アラン、あんた、また記録してる?」

「はい。輪郭の変化、光の反応、全て記録しています」

「じゃあ、あたし、もう一回話しかけてみる」

リーシャは短剣をゆっくりと鞘に納めた。武器を下げるという行為そのものが、彼女なりの意思表示なのだろう。両手を軽く広げ、陰影に向かって一歩、前に出た。

「ねえ。あんた、あたしたちの言葉、聞こえてる?」

沈黙が返ってきた。しかし、それは完全な無反応ではなかった。陰影の輪郭が、僅かに、しかし確かに震えた。まるで、声そのものに反応したかのように。

「アラン、震えた! 見た?」

「見ました。音声に対する反応が確認されました。これまでの視覚的な変化とは別の、新しい相互作用です」

「じゃあ、聞こえてる、ってことよね!」

「可能性は高いです。もう一度、話しかけてみてください」

リーシャは深く息を吸い込み、もう一歩前に出た。

「あたしはリーシャ。こっちはアラン。あたしたちは、あんたに危害を加えるつもりはない。ただ、あんたのことを知りたいの」

再び、輪郭が震えた。今度は先ほどよりも強く、輪郭全体が僅かに輝きを増した。アランの視界には、それに連動するように、意味を成さない光の羅列が、これまでよりも密に、そして速く流れ始めていた。

「――これは」

「何、何かわかった?」

「羅列の流れが、以前よりも規則性を帯びています。まだ言語として解析できませんが、これは単なるノイズではなく、意図的な発信のように見えます」

「発信……それって、伝えようとしてる、ってこと?」

「その可能性が高いです」

リーシャは陰影との距離を、さらに一歩詰めた。石机を回り込むようにして、輪郭の真正面に立つ。人型の輪郭は、彼女の背丈とほぼ同じくらいの高さだった。

「あんた、もしかして、名前ある? 名前、教えてくれる?」

その問いかけに、陰影の輪郭が大きく揺らいだ。まるで、答えを探すように、あるいは何かを思い出そうとするかのように。そして、輪郭の中心――顔にあたる部分に、初めて僅かな陰影の濃淡が生まれた。

アランは息を止めて、その変化を見つめた。視界に流れる光の羅列が、突然、一つの塊として収束する。数字でも文字でもない、しかし明確な「何か」の形を持った情報が、視界の中心に浮かび上がった。

「見えました。何かの形が」

「形? どんな形?」

「文字ではありません。でも、これは――おそらく、名前のようなものです」

「読めるの?」

「読めません。ただ、構造として、名詞に近い性質を持っていることは推測できます。一つの単位として完結している、という点で」

リーシャは陰影の輪郭を見つめたまま、静かに頷いた。

「わかんなくてもいいわ。あんたが、何かを伝えようとしてくれた、ってことだけで十分」

その言葉に応えるように、陰影の輪郭が、これまでで最も明確な形へと変化した。長い衣を纏った、痩せた人物の姿。手には何か、細長い棒状のものを持っているように見える。魔導士が使う杖に似た形状だった。

「これ……杖、よね」

「そう見えます。この塔がかつて魔導士の研究拠点であったという記録と、整合性が取れます」

「じゃあ、この人が、その魔導士……?」

「仮説としては、最も有力になってきました」

陰影――もはや、単なる「陰影」と呼ぶには輪郭が明瞭になりすぎている――は、その場に立ち尽くしたまま、静かに二人を見つめ続けていた。表情は依然として判然としないが、その姿勢そのものが、何かを訴えかけているように感じられた。

「アラン、これ、もっと近づいても大丈夫かしら」

「わかりません。ですが、これまでの反応を見る限り、敵意は感じられません。慎重に、ですが」

リーシャはさらに一歩、輪郭に近づいた。手を伸ばせば届く距離だった。彼女は少し躊躇いながら、右手をゆっくりと持ち上げた。

「触れてみる。いい?」

「……リスクはあります。ですが、止める根拠もありません」

「じゃあ、やる」

リーシャの指先が、陰影の輪郭に触れようとした瞬間――その姿が、突然、大きく波紋のように揺れた。まるで水面に石を投げ込んだかのように、輪郭全体が乱れ、光が周囲に散っていく。

「リーシャさん、下がって!」

アランの声に、リーシャは反射的に後方へ跳んだ。だが、攻撃は来なかった。ただ、陰影の輪郭が急速に薄れ、輝きを失っていく。まるで、触れられることを拒んだかのように。

「……消えた?」

「いえ、完全には消えていません。見てください」

アランが指さした壁の一点に、輪郭の残滓のようなものが、微かに残っていた。人型を保ってはいるが、先ほどまでの明確さは失われ、再び揺らめきの多い、不安定な状態に戻っている。

「触れたら、駄目だったってこと?」

「おそらく、直接的な接触は、想定されていない反応を引き起こすようです。あるいは、まだ準備が整っていない、という可能性もあります」

リーシャは息を整えながら、少し悔しそうな表情を浮かべた。

「せっかく、あそこまで近づいたのに」

「進展がなかったわけではありません。輪郭が一度、明確な人型――杖を持つ人物の姿まで収束したこと、そして音声への反応があったこと。これらは重要な記録です」

「そうだけど……なんか、もう少しで、何か言葉が返ってきそうな気がしたのよね」

アランは視界に浮かぶ光の残像を、丁寧に記録し続けていた。名前らしき情報の断片、杖を持つ人物の輪郭、そして接触に対する拒絶反応――どれもが、これまでの三つの仮説をさらに検証するための材料になる。

「リーシャさん、今の反応から、新たに仮説を補強できる要素があります」

「何?」

「接触への拒絶は、単純な防衛機構というよりも、何らかの『準備不足』を示唆しているように思えます。もし残留思念という仮説が正しければ、この存在は、まだ完全に『再構成』されていない状態にあるのかもしれません」

「再構成って、どういうこと?」

「意識の断片が、時間をかけて徐々に形を取り戻している、という意味です。今の段階では、直接的な接触――つまり、完全な対話や物理的な干渉には、まだ耐えられないのかもしれません」

リーシャはしばらく黙り込み、それから静かに頷いた。

「じゃあ、あたしたちがすることは、今日みたいに、少しずつ、話しかけて、待つこと、なのかしら」

「その可能性が高いです。急かすことは、むしろ逆効果になるかもしれません」

視界の隅に、探索率の表示がぼんやりと浮かんでいた。『探索率:72』。数字は変わらないままだが、その揺れ方――以前のように不安定に揺らぐのではなく、今はどこか、静かに落ち着いているように見える。

「アラン、あの数字」

「はい。挙動が変化しています。以前は拒絶するように揺れていましたが、今は――」

「なんか、待ってる、みたいな感じ?」

「そう解釈することもできます」

石机の上の本は、依然として同じ場所に置かれたままだった。触れても、離しても、その存在感は変わらない。だが、アランはその本のページの一部に、これまで見たことのない微かな滲みのようなものが浮かんでいることに気づいた。

「リーシャさん、この本のページ、見てください」

「何か変わった?」

「文字の並びが、僅かに変化しています。以前は完全に判読不能でしたが、今、一部だけ、意味を持つ記号のように見える部分があります」

リーシャは灯りを近づけて、ページを覗き込んだ。古い魔導文字らしき記号の連なりの中、確かに数個だけ、他とは違う輝きを持つ文字が浮かんでいる。

「これ、読めるの?」

「いえ、まだ完全には。ただ、この本自体が、あの陰影の変化に連動して、少しずつ『開いていく』ものである可能性があります」

「まるで、日記みたいね。少しずつ、ページが明らかになっていく」

「近い比喩だと思います」

アランは羊皮紙に、今日確認できた全ての変化を書き記していった。輪郭の収束過程、名前らしき情報、杖を持つ人物像、接触時の拒絶反応、そして本のページに現れた新たな記号。どれも断片的だが、これまでのどの記録よりも、核心に近い情報だった。

「今日はこれくらいにしましょう。無理に進めるより、時間をかけて記録を積み重ねるほうが、賢明だと判断します」

「そうね。あたしも、なんか今日は、いい意味で疲れた気がする」

陰影は、依然として壁に淡く残っていた。以前のような激しい揺らめきではなく、静かに、その場に佇んでいる。二人が部屋を出ていく間も、その気配は追ってくることなく、ただそこに在り続けていた。

通路を戻る途中、リーシャがふと口を開いた。

「ねえ、アラン。あの陰影、名前があったとしたら、あたしたち、その名前で呼んでみたいわね」

「同感です。名前を知ることは、対象を『理解する』上で、重要な第一歩になります」

「あんたも、そういうこと考えるのね」

「情報として、有用だと判断しているだけです」

「はいはい、また理屈」

軽く笑いながら、リーシャは階段を下りていく。石段の先に、微かな外の光が見えてきた。塔を出る頃には、日は既に高く昇っていた。

「今日わかったこと、まとめておかないと」

「はい。ギルドに戻る前に、記録を整理しておきましょう」

塔の外に出て、木々の間から差し込む陽光の中、アランは羊皮紙を広げ、今日の全ての記録を静かに見返した。断片的な情報の一つ一つが、まだ完全な形を成していない。だが、それらが繋がったとき、この塔が抱える謎の全貌が見えてくるはずだった。

「アラン」

「はい」

「あの陰影、また来たら、今度はもっと近づけるかしら」

「わかりません。ただ、今日の反応を見る限り、拒絶は完全なものではありませんでした。時間をかければ、可能性はあると思います」

「じゃあ、また明日、来ましょう」

「そうしましょう」

森の奥に沈む塔の輪郭を振り返りながら、二人は静かに帰路へと足を向けた。まだ答えは遠い。だが、確実に、その距離は縮まっている。杖を持つ人物の輪郭、探索率の静かな揺れ、そして本のページに浮かんだ新たな記号――それらの断片が示す先には、まだ誰も辿り着いたことのない、この塔の核心が待っているはずだった。

その日の帰り道、リーシャは珍しく口数が少なかった。何かを考え込むような表情のまま、時折、塔のあった方向を振り返っている。アランはその様子を横目に見ながら、視界に浮かぶ記録の数々を、静かに整理し続けていた。

(残留思念、管理者、あるいはスキルへの反応。まだどの仮説も確定していない。だが、少なくとも一つ、確かなことがある)

――あの存在は、ただの脅威ではない。

その確信だけを胸に、アランは森の道を、静かに歩き続けた。

◇

森を抜けて街の門をくぐる頃には、月が高く昇っていた。篝火の灯りに照らされた城壁の脇で、居眠りしていた門番が二人の足音に気づき、慌てて姿勢を正す。

「お、お疲れさん……随分遅いんだな、今日は」

「色々ありまして」

アランが端的に答えると、門番は特に追及することもなく、また欠伸を噛み殺しながら定位置に戻っていった。石畳を歩く二人の足音だけが、静かな夜の街に響く。

「今日はもう、宿に戻って休みましょう」

「そうね。あたしも、なんか今日は頭使いすぎて、体より先に脳が疲れてる感じ」

「脳が疲れる、という表現は正確ではありませんが、精神的な負荷の蓄積という意味では、僕も同様の状態です」

「その言い方、なんか余計疲れが増すからやめてくれる?」

リーシャは苦笑しながら肩を回した。宿までの道のりを、二人はそれ以上多くを語らずに歩いた。互いに、今日目にしたものの重さを、まだ自分の中で処理しきれていないのだろう。

宿の前で足を止めたリーシャが、扉に手をかける前に、ふと振り返った。

「ねえ、アラン」

「何ですか」

「今日の記録、後でちゃんと見せてよ。あたし、自分の直感だけじゃ、何が本当に起きてたのか、整理つかないから」

「もちろんです。整理が済んだら、明日の朝、お渡しします」

「今日中には終わらないの?」

「今日中に終わらせるべき情報量ではあります。ですが、精度を優先したいので、少し時間をいただきたいです」

「あんたのその『精度を優先』ってやつ、いつも夜更かしの原因になってる気がするんだけど」

「否定はできません」

リーシャは小さく笑い、それから少し表情を緩めた。

「あんまり無理しないでよ。あの陰影、今日はあたしたちに何かしてくるふうでもなかったけど、これから先、何が起こるかわからないんだから。あんたが倒れたら、あたし一人じゃ、あの塔、どうにもならないわ」

「心配していただけるのは意外です」

「意外って言うの、いい加減やめなさい。あたしは、あんたのこと、ちゃんとパートナーとして見てるの」

その言葉に、アランは一瞬、返答に迷った。効率や合理性で説明できる関係性を超えた何かを、リーシャは言葉にしている。それにどう応じるべきか、彼の中の理屈は、すぐには答えを見つけられなかった。

「――ありがとうございます。気をつけます」

「それだけ? もっと何か言うことないの?」

「今、それ以上の言葉を思いつきません」

「はぁ、もういいわ。今日はもう寝る。おやすみ、アラン」

「おやすみなさい」

リーシャが宿の中へ消えていくのを見送りながら、アランはしばらくその場に立ち尽くしていた。夜風が頬を撫でる。街の灯りが石畳に淡く反射し、遠くの喧騒がかすかに耳に届く。

自分の部屋に戻ると、アランはすぐに卓の上に羊皮紙を広げた。蝋燭の灯りの下、今日一日で得た情報の断片を、丁寧に整理していく。陰影の輪郭の収束速度、名前らしき情報の断片、杖を持つ人物像、接触に対する拒絶反応――それぞれの項目に、時系列と観察条件を書き添える。

作業を進めるうち、アランの手が、ふと止まった。羊皮紙の隅に書き残した一文――『リーシャの直感:気づいてほしいのでは』――を、彼はしばらく見つめた。

これまでのアランの解析は、常に客観的なデータに基づいて構築されてきた。罠の座標、モンスターの弱点部位、外殻の構造的な脆弱性。それらは全て、視界に浮かぶ数値や記号という、疑いようのない形で示されてきた。

だが、あの陰影に関しては、決定的なデータがどこにも存在しない。あるのは、輪郭の変化という観測可能な現象と、リーシャの――言葉にすれば「直感」としか表現できない――感覚的な洞察だけだ。

(データがないなら、データがない、というのも一つの記録になる)

アランは羊皮紙に、そう書き加えた。未知であることそのものを、明確な事実として残しておく。それが、今の自分にできる、最も誠実な向き合い方だと感じていた。

蝋燭の灯りが揺れる中、アランは記録を整理し終えると、ようやく寝台に身を沈めた。目を閉じると、視界の奥に、まだあの陰影の輪郭が残像のように浮かんでいるような気がした。杖を持つ痩せた人物の姿。顔だけが判然としないまま、こちらを見つめ続けている。

(あなたは、何を伝えたいんですか)

問いかけに答えが返ってくることはなかった。ただ、眠りの中に沈んでいくアランの意識の端に、静かな確信だけが残っていた。まだ何も終わっていない。だが、確実に、何かが動き始めている。

翌朝、宿の食堂で顔を合わせたリーシャは、いつもより幾分すっきりした顔をしていた。

「おはよう。よく眠れた?」

「はい。あなたも、顔色が良さそうです」

「まあね。あんな不気味なもの見た日の夜にしては、意外とよく寝られたわ」

「精神的な疲労が、逆に深い睡眠を促した可能性があります」

「あんた、朝からその調子? もう少し普通に喋りなさいよ」

軽口を交わしながら、二人は簡単な朝食を済ませた。硬いパンと、薄い野菜のスープ。塔での探索を控えている日は、あまり重いものを食べないようにするのが、この数日で自然と決まった習慣になっていた。

「今日も行くの? あの塔」

「はい。昨日、あなたの提案通りです。少しずつ、対話を試みる方針で進めます」

「あたしの提案、覚えてるのね」

「重要な記録として残しています」

リーシャは苦笑しながら、スプーンを置いた。

「じゃあ、今日はどうするつもり? 昨日と同じことするの?」

「同じ手順を踏むこと自体には意味があります。反応の変化を、比較データとして蓄積できます。ただ、昨日の記録を見返して、少し気になる点がありました」

「気になる点?」

「陰影が接触を拒んだ際、輪郭が輝きを失った後、完全には消えず、残滓のような状態を保っていました。これが、次に訪れた際、どの程度回復しているか――あるいは、前回よりも早い段階から収束が始まるのか、を確認したいと考えています」

「つまり、あの子、覚えてるかもしれない、ってこと?」

「あの子、という表現は感情的ですが、記憶あるいは蓄積という概念が、あの陰影に当てはまるかどうかを検証したい、ということです」

「はいはい、翻訳ありがとう」

食事を終えて宿を出ると、朝の街は既に活気を取り戻していた。市場の呼び込みの声、荷馬車の軋む音、子供たちの笑い声。そうした日常の喧騒を背に、二人は再び西の森へと続く道を歩き始めた。

「ねえ、アラン」

「何ですか」

「あんた、あの陰影のこと、怖くないって言ってたけど。もし本当に、あれが誰かの残留思念だったとして――その人が、もし何か、良くないことを考えてたら、どうする?」

「良くないこと、というのは?」

「例えば、恨みとか。塔に閉じ込められたまま、誰にも気づかれずに、長い時間を過ごしてきたのかもしれないでしょ。そういう存在が、もし怒ってたら」

アランは少し考えてから答えた。

「その可能性は排除できません。ただ、これまでの反応を見る限り、攻撃的な意図は確認されていません。むしろ、観察と、伝達を試みる行動のほうが目立っています」

「でも、もし今後、変わるかもしれないじゃない」

「はい。だからこそ、慎重に、段階的に進める必要があります。もし危険な兆候が見られた場合は、即座に撤退することを前提にしています」

リーシャは少し安心したように頷いた。

「ならいいけど。あたし、正直、あんたのその慎重さに、結構助けられてるのよね」

「僕もあなたの直感に、何度も助けられています」

「へえ、素直に認めるじゃない」

「事実を述べているだけです」

「またそれ」

軽く笑いながら、リーシャは足取りを速めた。木々の間から差し込む朝の光が、少しずつ薄れていく。森の奥へ進むほどに、空気は湿り気を帯び、鳥のさえずりも次第に静かになっていった。

塔が視界に現れたのは、それから小一時間ほど歩いた後だった。昨日と変わらない姿で、蔦に覆われた石壁が、朝の薄闇の中に聳え立っている。

「またあの雰囲気ね」

「はい。塔全体の情報の希薄さは、今日も変わっていません」

塔の入口に立ち、二人は改めて互いの顔を見た。何を言葉にするでもなく、それでも確かな合意が、その視線の中に交わされていた。

「行きましょう」

「はい」

朽ちた入口をくぐり、二人は再び暗がりへと足を踏み入れる。石段を上り、朽ちた書物の散乱する広間を抜け、内部構造の異常な広がりを示す通路を進んでいく。何度目かの道のりは、以前よりも幾分、慣れたものになっていた。だが、慣れることと、油断することは違う。アランは視界に浮かぶ淡い情報の断片を、一つ一つ丁寧に確認しながら歩を進めた。

円形の部屋へと通じる通路に差し掛かったところで、リーシャが小さく息を吐いた。

「なんか、今日は少し、空気が違う気がするんだけど」

「同感です。塔全体の反応が、以前よりもさらに――」

言葉を止めたのは、アランの視界に、これまでにない種類の反応が浮かび上がったからだった。淡い、しかし確かな輝き。それは、まだ二人が部屋に到達する前から、既に何かが「待っている」ことを示すような、そんな種類の情報だった。

「アラン? どうしたの」

「――部屋に入る前から、反応があります。これは初めてです」

リーシャの表情が緊張した。短剣の柄に手をかけながら、彼女は通路の先を見据える。

「良い意味での初めて? それとも」

「わかりません。ただ、これまでよりも早い段階で、あちら側が僕らの接近を認識している、ということは確かです」

二人は慎重に、しかし足を止めることなく、通路の先へと進んでいった。円形の部屋の入口が見えてくると、そこには昨日と同じ、劣化しない本が置かれた石の机と、壁に揺らめく陰影の姿があった。

だが、その輪郭は、昨日、二人が部屋を去る直前に見た状態よりも、明らかに人型に近い形を保っていた。まるで、一晩の間、収束が後退することなく、そのままの状態を維持していたかのように。

「……消えてない」

リーシャが呟くように言った。アランは視界の情報を確認し、静かに頷いた。

「はい。前回の観察通り、収束は一方通行のまま維持されています。むしろ――」

「むしろ?」

「輪郭の安定度が、昨日よりも高まっているように見えます。まるで、僕らが訪れることを前提として、その状態を保っていたかのようです」

陰影は、二人が部屋に足を踏み入れたことに、僅かに輪郭を震わせて応じた。それは、これまでの反応の中でも、最も早い反応だった。

「おはよう」

リーシャが、自然な調子で声をかけた。まるで、旧知の誰かに挨拶するような、そんな響きだった。

陰影の輪郭が、その言葉に応えるように、また小さく震える。攻撃の意図は感じられない。ただ、そこには確かに、二人の来訪を「認識している」という、静かな存在感があった。

アランは羊皮紙を広げ、木炭を握った。今日という日に確認できる全ての変化を、一つずつ記録していく作業が、また始まる。杖を持つ痩せた人物の輪郭、名前らしき光の断片、そして触れることを拒む一瞬の反応――それらの記録が積み重なるたびに、この塔が抱える謎の輪郭も、少しずつ、しかし確実に、形を成していくはずだった。

まだ答えには遠い。だが、確実に、二人はその核心へと近づき続けている。円形の部屋に満ちる静かな緊張感の中、アランとリーシャは、今日もまた、揺らめく陰影と向き合い始めていた。

「今日は、どこまで進めるかしらね」

リーシャの問いに、アランは視界の記録を確認しながら答えた。

「わかりません。ですが、進むだけの価値がある未知が、ここにはあります」

「相変わらずね、あんたのその言い方」

苦笑しながらも、リーシャの目には確かな覚悟が浮かんでいた。二人は石机の前に立ち、劣化しない本へと、再び視線を落とす。まだ何も終わっていない。この《朽ちた図書塔》が抱える謎の全貌が明らかになるまで、二人の歩みが止まることはないだろう。

窓のない部屋に、静かな朝の時間が流れていく。壁の陰影は、今日もまた、静かにそこに在り続けていた。

◇

円形の部屋に満ちる沈黙は、しかし以前とは質が違っていた。壁の陰影――もはや「陰影」という言葉では収まりきらない、杖を持つ痩せた人物の輪郭を保ったそれは、二人が石机に近づくたびに、僅かに輪郭を震わせて応じる。まるで、こちらの一挙一動を、確かに認識しているかのようだった。

「今日は、昨日よりも反応が早いわね」

リーシャが短剣を鞘に納めたまま、そっと陰影に歩み寄った。アランは石机の脇に立ち、羊皮紙を広げながら、その様子を注意深く記録していく。

「はい。輪郭の反応速度が、明確に短縮されています。刺激に対する応答が、学習されているような挙動です」

「学習、ねえ。まるで生き物みたいな言い方」

「生き物である必要はありません。反応の蓄積、という現象自体は、無機物にも起こりえます」

「あんたの理屈だと、なんでも説明つけられそうね」

リーシャは苦笑しながら、陰影の正面に立った。距離は昨日よりも僅かに近い。だが、今日はまだ手を伸ばそうとはしない。前回の拒絶反応を踏まえての、慎重な間合いだった。

「おはよう。今日も来たわよ」

その一言に、陰影の輪郭がまた震える。だが、それだけではなかった。震えに続いて、輪郭の内側――顔にあたる部分に、昨日よりも濃い陰影の濃淡が浮かび上がった。

「アラン、また顔のところ、何か変わってる」

「見えています。濃淡の変化が、以前よりも明確です。これは――」

アランは視界に浮かぶ光の情報に意識を集中させた。以前は意味を成さない断片でしかなかった羅列が、今日は僅かに違う様相を見せている。単発の点ではなく、幾つかの点が連なり、一つの流れを形成し始めていた。

「これは、まとまりを持ち始めています。以前、名前らしきものとして観測した情報の塊が、より複雑な構造に変化しています」

「複雑って、どういうこと?」

「単語一つ分だった情報が、複数の単語、あるいは短い文のような単位に発展している可能性があります」

リーシャの目が僅かに見開かれた。

「それって、あの人、あたしたちに何か『言おう』としてる、ってこと?」

「その可能性が、これまでで最も高いと判断します」

石机の上、劣化しない本のページに視線を移すと、そこにもまた変化があった。以前、微かな滲みとして現れていた数個の記号が、今はさらに数を増やし、行の一部を形成するように並んでいる。魔導文字の連なりの中に、明らかに他とは異なる、淡く発光する文字列が浮かんでいた。

「リーシャさん、本のページを見てください」

灯りを近づけたリーシャが、そのページを覗き込む。眉を寄せ、じっと文字を見つめた。

「これ……なんか、前より増えてる」

「はい。陰影の輪郭の収束と、本の記号の出現は、明らかに連動しています。同じ源から発生している情報である可能性が高いです」

「じゃあ、この文字が全部読めたら、あの人が何を言いたいのか、わかるってこと?」

「理論上はそうなります。ただし、現状の記号は断片的すぎて、文としての解析には至っていません」

リーシャはしばらくページを見つめていたが、やがて視線を上げ、陰影のほうへと向き直った。

「ねえ、あんた。今、何か言おうとしてるんでしょ」

その言葉に応えるように、陰影の輪郭が大きく波打った。攻撃的なものではない。むしろ、何かを堪えるような、あるいは絞り出そうとするような、そんな揺れ方だった。

アランの視界に、これまでで最も密度の高い光の羅列が流れ込んでくる。断片同士が繋がり、一つの塊として形を成そうとしている。だが、それでも完全な言語としては認識できない。

「――もう少しです。まとまりかけていますが、まだ解析には届きません」

「あんたでも読めないの、これ」

「読めません。ただ、構造としては、これまでで最も『完成』に近い状態にあります」

リーシャは陰影に向かって、もう一歩踏み出した。石机を回り込み、輪郭の真正面――昨日、彼女が触れようとして拒絶された、あの場所に立つ。

「リーシャさん、また触れるつもりですか」

「ううん。今日は違うこと試すわ」

リーシャは深く息を吸い込むと、静かに、しかしはっきりとした声で言った。

「あんたの名前、教えてくれる? さっきの光、名前っぽいものだったんでしょ。あたしたちには読めないけど、あんたなら、伝え方、わかるんじゃない?」

沈黙が落ちた。陰影の輪郭は、動きを止めたまま、しばらくそこに佇んでいた。アランは息を潜め、視界の情報が途切れることなく続くのを、ただ見守り続けた。

そして、それは起きた。

陰影の輪郭の内側、顔にあたる部分から、これまで一度も発せられたことのない、低い音が響いた。声、と呼ぶにはあまりにも不明瞭で、風が石の隙間を抜けるような、あるいは古い扉が軋むような、そんな音だった。だが、それは確かに「音」であり、単なる環境音ではなかった。

「今の……」

リーシャが息を呑んだ。

「音声です。これまでの震えとは明確に異なる、能動的な発信だと考えられます」

「言葉、なの?」

「言語として解析はできません。ただ、意図を持った音である可能性は高いです」

音は一度きりで途絶えた。だが、その余韻を追うように、陰影の輪郭がさらに輝きを増し、これまでで最も鮮明な人型――杖を持つ、痩せた、老年に近い印象すら受ける人物の姿を保ち続けている。

石机の本のページが、その瞬間、微かに光を放った。アランは反射的にそちらへ視線を移す。

「リーシャさん、本のページが」

「え?」

灯りに照らされたページの上、これまで断片的だった記号の連なりが、僅かに、しかし確実に、意味を成す文字列の輪郭を帯び始めていた。まだ読めない。だが、明らかに、以前よりも「近づいている」感覚があった。

「これ、もしかして……あんたが呼びかけたから、反応が進んだんじゃない?」

「可能性はあります。音声への反応と、本の記号の変化が、ほぼ同時に発生しています。単なる偶然とは考えにくいタイミングです」

その時だった。アランの視界の隅、これまで常に『72』のまま揺れ動いていた探索率の表示が、僅かに震えた。数字がぼやけ、一瞬、判読が難しくなる。

「――アラン? 顔色変わってるけど」

「探索率の表示が、変化しています」

アランは意識を集中させ、震える数字を読み取ろうとした。ぼやけた表示が、やがて焦点を結ぶように、鮮明な輪郭を取り戻していく。

『探索率:73』

「……73?」

思わず声が漏れた。これまで長年、七十二パーセントのまま停滞していたはずの数字が、目の前で、確かに一つ、進んでいた。

「動いた……本当に、動いたの?」

リーシャの声が僅かに震えている。アランは何度も視界の表示を確認したが、数字は確かに『73』のまま、以前のように不安定に揺れることなく、静かにそこに定着していた。

「はい。探索率が一パーセント、進行しました。これは――」

言葉を選びながら、アランは思考を整理しようとした。だが、頭の中で幾つもの仮説が同時に浮かび上がり、すぐには一つの結論に収束しない。

「これって、あたしたちが、あの人に呼びかけたから? 名前を聞こうとしたから、進んだの?」

「因果関係は断定できません。ただ、今日の行動――音声での呼びかけと、それに対する陰影の応答、そして本のページの変化――これら全てが、探索率の進行と時間的に一致しています」

リーシャは陰影に向き直り、まだ興奮の冷めやらぬ様子で、しかしどこか慎重な声で続けた。

「じゃあ、あたしたちがここに来て、あんたと話そうとすること自体が、この塔を『解明する』ことに繋がってるの?」

陰影は答えなかった。だが、その輪郭は、これまでのどの瞬間よりも安定し、静かにそこに在り続けていた。まるで、二人の言葉を、確かに受け止めているかのように。

「アラン、これ、すごいことよね」

「はい。これまでの三つの仮説――残留思念、管理者、あるいはスキルへの反応――のいずれにおいても、これほど明確な変化は予測していませんでした」

「じゃあ、今のあんたの見解は?」

アランは羊皮紙に急いで記録を書き加えながら、慎重に言葉を選んだ。

「一つ言えることがあります。この塔の探索率は、僕らが『解析』するだけでは進みませんでした。灰鐘の地下礼拝堂とは違い、この塔は罠を暴くことでも、モンスターを倒すことでも、進行しなかった」

「じゃあ、何で進んだの、今回」

「対話です。あるいは、対話を試みる姿勢そのものが、この塔――いえ、おそらくはあの陰影が求めていたものだったのかもしれません」

リーシャはしばらく黙り込み、それから陰影に向かって、静かに一礼した。

「ありがとう。今日はここまでにするわ。でも、また来る。ちゃんと、あんたのこと、もっと知りたいから」

その言葉に応えるように、陰影の輪郭が、僅かに、しかし確かに揺れた。まるで頷くような、そんな仕草だった。

「アラン、今日はこれで撤退よね」

「はい。無理に進めるべきではありません。探索率が動いたという事実だけでも、十分すぎる成果です」

「十分すぎる、か。あんたにしては控えめな評価ね」

「未知数の要素が多すぎます。今日の変化が、必ずしも再現可能とは限りません。慎重な判断が必要です」

「わかってる。でも、なんか――今日は、ちょっと嬉しいわね」

リーシャの声には、これまでの緊張とは違う、柔らかな響きがあった。アランは羊皮紙を丁寧に折りたたみながら、その言葉に小さく頷いた。

「同感です。データとしての意味だけでなく――」

「だけでなく?」

「あの存在が、僕らの行動に応じて、確かに変化した。それは、単なる観測対象ではなく、何らかの意思疎通が成立し始めている証拠だと思います」

「あんたがそう言うと、なんか説得力あるわね」

二人は石机の本に一礼するように視線を落とし、それから静かに部屋を後にした。通路を戻る間、リーシャは何度も振り返り、円形の部屋の方向を見つめていた。

「ねえ、アラン。あの人、本当は何を言いたかったのかしらね」

「わかりません。ですが、今日の変化を踏まえれば、いずれ言葉として伝わる日が来るかもしれません」

「そうね。焦らず、少しずつ、ってことね」

塔を出ると、朝から昼へと差し掛かった太陽が、木々の隙間から柔らかな光を投げかけていた。二人はしばらく無言で歩き、やがてリーシャが小さく息を吐いた。

「探索率、73パーセント。……なんか、灰鐘のときとは全然違う達成感ね」

「あちらは、力による解明でした。今回は――」

「対話による解明、ってことね」

「そう言えるかもしれません」

リーシャは空を見上げながら、少し笑った。

「あんたのスキル、外れどころか、こういう場所でこそ本領発揮なのかもね。戦えなくても、見て、記録して、話しかける。それが、この塔には必要だったんだわ」

「評価していただけるのは、光栄です」

「またそれ。もうちょっと素直に喜びなさいよ」

「喜んでいます。ただ、表現方法が乏しいだけです」

リーシャは呆れたように笑いながらも、足取りは軽かった。森を抜ける道を歩きながら、彼女はふと振り返り、遠く霞む塔の輪郭を見つめた。

「また明日も来るのよね」

「はい。今日の反応が一時的なものか、継続的なものかを確認する必要があります」

「じゃあ、明日も、あの人に会いに行きましょう」

その言葉に、アランは静かに頷いた。視界の隅には、まだ『探索率:73』の表示が、静かに、しかし確かにそこに残り続けていた。

まだ全貌は見えない。杖を持つ人物の正体も、彼が――あるいは彼女が――何を伝えたいのかも、まだ判然としない。だが、確実に、七十二パーセントで止まっていた歳月の壁に、初めて小さな亀裂が入った。

森の道を歩きながら、アランは羊皮紙の記録を思い返した。名前らしき情報の断片、音声としての反応、そして進行した数字。これらすべてが、これまでのどの仮説とも異なる、新しい可能性の扉を開きつつあった。

(残留思念であれ、管理者であれ、あるいは僕のスキルへの反応であれ――どの仮説が正しいにせよ、あの存在は、確かに「応えよう」としている)

その確信だけを胸に、アランは隣を歩くリーシャの横顔を、一瞬だけ見やった。彼女もまた、何かを考え込むような表情で、前を見据えている。

「ねえ、アラン」

「何ですか」

「あたし、思うんだけど。あの人の名前がわかったら――ちゃんと、名前で呼んであげたいわね」

「同感です。それは、対話の完成に向けた、重要な一歩になるはずです」

「相変わらず理屈っぽいけど、まあ、いいわ。今はそれで」

二人は笑い合うでもなく、しかし確かな連帯感を胸に、街へと続く道を歩き続けた。塔に残された謎は、まだ解けていない。だが、その歩みは、確実に、核心へと近づいていた。

木々の向こうに、街の輪郭がぼんやりと見え始めていた。今日という一日が刻んだ小さな進展を胸に、二人はそれぞれの思考を抱えながら、静かに帰路を進んでいった。

◇

朝の宿は、いつもより静かだった。食堂の隅の席に着いたリーシャは、スープを一口飲んでから、椀の中の具材をスプーンでかき混ぜながら口を開いた。

「ねえ、アラン。昨日のあれ、あたし、夢に見たわ」

「あの音声反応のことですか」

「うん。あの、風が石の隙間を抜けるみたいな、あの音。なんか、耳の奥に残ってる感じがして」

「音そのものの残響というより、記憶としての印象が強かったのだと思います」

「はいはい、そういう説明ね」

リーシャはスプーンを置き、少し身を乗り出した。

「あたし、今日は絶対、あの人の名前、聞き出したいのよね」

「昨日も同じことを試みました。結果として、探索率は進行しましたが、名前そのものは判読できませんでした」

「でも、あの本のページ、少しずつ増えてるんでしょ? だったら、今日行ったら、もっと読めるようになってるかもしれないじゃない」

「その可能性は十分にあります」

パンをちぎりながら、リーシャは少し表情を緩めた。

「あんた、今日はいつもより早く起きてたわね。あたしより先に食堂に来てたし」

「記録の整理に時間がかかりました。昨日のデータを、もう一度見直していました」

「何か新しく気づいたことあった?」

「ひとつ。本のページに現れる記号の出現順序が、陰影の輪郭の変化と完全に同期しています。つまり、あの本自体が、陰影の『記憶』か『思考』を、外部に書き出すための媒体である可能性が高い」

「媒体……つまり、あの本が、あの人の頭の中を映す鏡みたいなもの、ってこと?」

「近い比喩だと思います」

リーシャは頬に手を当て、少し考え込むような顔をした。

「じゃあ、あの本を全部読めたら、あの人のこと、ぜんぶわかっちゃうかもしれないってことよね」

「理論上はそうなります」

「なんか、それ、覗き見してるみたいで、ちょっと悪いことしてる気分になるわね」

「本人が拒絶していない以上、覗き見とは言えないと思います。むしろ、彼が――あるいは彼女が――伝えることを望んでいる、という前提で進めています」

「あんたがそう言うなら、そうなんでしょうね」

朝食を終えた二人は、荷物を整え、宿を出た。街の朝はまだ静かで、露店の準備をする商人たちが欠伸をしながら台を並べている。西の門をくぐり、森へと続く道を歩き始めると、リーシャの足取りは以前よりも軽く感じられた。

「なんか、今日は緊張しないのよね」

「昨日までの緊張が、期待に変わっている、ということかもしれません」

「あんた、そういう分析、いつもすぐするわね」

「気になったことは、記録に残す性分です」

「知ってる」

森の道を進むうちに、リーシャは何度か口を開きかけては、また閉じるという動作を繰り返した。アランはそれに気づいていたが、急かすことはしなかった。彼女が言葉を選んでいるのだろうと判断したからだ。

「ねえ、アラン」

ようやく、リーシャが口を開いた。

「もし、あの人の名前がわかったら――そのあと、どうするつもりなの? 名前がわかった後の話、あんた、考えてる?」

「考えています。ですが、確定した方針はありません。可能性としては、名前を知ることで、彼の目的――あるいは、彼がこの塔に留まり続ける理由――が明らかになるはずです。その理由に応じて、対応を変える必要があります」

「理由によって、どう変わるの?」

「例えば、彼が単に『気づかれることを望んでいた』だけであれば、対話を続けること自体が、彼にとっての救いになるかもしれません。しかし、もし彼が――何らかの未完の目的を持っていて、それを完遂することを望んでいるなら、僕らはその目的を助ける立場になる可能性があります」

リーシャは足を止めずに、しばらく黙って歩いた。

「あたし、なんとなく、後者のほうが近い気がするのよね」

「根拠はありますか」

「根拠って言えるほどのものじゃないけど……あの人、ただ寂しいだけじゃなくて、なんか、伝えたいことがあって、それを伝えられないまま、ずっと留まってる、って感じがするの」

「その直感は、記録に残す価値があります」

「またそれ」

リーシャは苦笑しながら、それでも満足げに前を見据えた。

塔が視界に現れたのは、それからさほど時間が経たないうちだった。蔦に覆われた石壁、崩れかけた上部――変わらない外観のはずなのに、今日はどこか、以前よりも塔全体の気配が「柔らかく」感じられた。

「アラン、なんか、塔の雰囲気、違わない?」

「同感です。視界の反応も、以前より僅かに強くなっています」

「良いことよね?」

「今のところ、脅威を示す反応はありません」

二人は朽ちた入口をくぐり、石段を上っていった。以前よりも慣れた足取りで、朽ちた書物の散乱する広間を抜け、内部構造の異常な広がりを示す通路を進んでいく。円形の部屋へと通じる通路に差し掛かったところで、アランの視界に、これまでで最も強い反応が浮かび上がった。

「――もう、ここまで届いています」

「え?」

「陰影の反応が、通路の入口からでも、はっきりと感じられます。前回よりもさらに強い」

リーシャは短く息を吸い込み、それから通路の先へと歩を進めた。円形の部屋に足を踏み入れた瞬間、二人の視線は、迷わず壁の一点へと吸い寄せられた。

そこには、もはや「陰影」という言葉では表現しきれない、明確な人物の姿があった。杖を持つ、痩せた、老年に近い印象を受ける人物――その輪郭は、これまでのどの瞬間よりも鮮明で、まるで壁に描かれた肖像画が、そのまま息を吹き込まれたかのようだった。

「……こんなに、はっきりしてる」

リーシャが呟いた。陰影――もはや「彼」と呼ぶべきその存在は、二人が部屋に入ってきたことに、ゆっくりと、しかし確かに反応した。輪郭全体が僅かに震え、まるで歩み寄るように、輪郭の位置が壁のさらに手前へと浮き出てくる。

「アラン、記録できてる?」

「はい。今、視界の情報量が、これまでの最大値を更新しています」

石机の上、劣化しない本のページに視線を移すと、そこには昨日よりもさらに多くの、発光する記号の連なりが並んでいた。もはや断片ではない。行として、まとまりを持った文字列が、ページの半分近くを埋め尽くしている。

「アラン、これ、読める?」

「試みます」

アランは本のページに視線を集中させた。視界の中で、記号の連なりが、これまでとは違う速度で処理されていく。断片的だった意味の欠片が、一つ、また一つと、繋がっていく感覚があった。

「――読めます。一部ですが」

「何て書いてあるの?」

アランは声を絞り出すように、視界に浮かぶ文字を、そのまま読み上げた。

「『我が名は……知識は死なず、伝える者を、待つ』」

「名前……名前のところ、読める?」

「まだ、名前の部分だけ、判読できません。ですが、この文章は、明確に意図を持った、遺言、あるいは――メッセージだと考えられます」

その時、陰影の輪郭が、大きく揺れた。これまでのどの反応よりも強く、まるで、自らの言葉が読まれたことに応えるように。輪郭の内側――顔にあたる部分の陰影が、初めて、完全に晴れた。

そこにあったのは、老いた男性の顔だった。深く刻まれた皺、落ち窪んだ眼窩、しかしその目には、確かな意志の光が浮かんでいた。

「――見えた」

リーシャが息を呑んだ。アランも、その顔の輪郭を、視界に流れ込む情報として、一つ一つ記録していく。

そして、その顔が、口を開いた。

風の軋みに似た、これまでの音とは違う、明確な発声だった。

「……よう、やく」

「今、喋った!」

リーシャが声を上げた。アランは全神経を集中させ、続く言葉を聞き取ろうとした。

「よう、やく……読める、者が……来た」

「読める者……それって、あたしたちのこと?」

問いかけに、陰影――老いた魔導士の姿をしたそれは、僅かに頷くような動きを見せた。

「わたし……フェリック……この塔で……知識を、封じた者」

「フェリック……あんたの名前、フェリックなのね」

その名前が発せられた瞬間、アランの視界に、これまでとは比較にならない量の情報が一気に流れ込んできた。視界の隅に浮かぶ『探索率』の表示が、大きく震え始める。

『73』から――『74』、『75』、そしてさらに数字が続いて上がっていく。

「アラン、数字が!」

「見えています。急速に進行しています」

だが、アランはその数字の変化よりも、目の前で語り始めた老魔導士――フェリックの言葉に、意識の全てを注いでいた。

「わたしは……この塔で、知識を、記録に、封じる術を、研究していた……人の意識、思考、経験……それらを、後世に、正確に、伝えるための、術だ」

「記録に封じる術……」

アランは、その言葉に、何か強い既視感を覚えた。

「わたしは……死の間際、自らを、実験の、最後の対象とした……この本に、我が意識の、断片を、刻んだ……そして、待った……この術を、正しく、読み解ける者が、来ることを」

「正しく読み解ける者……」

「わたしの、術は……単なる、記録では、ない……読む者の、意識と、共鳴し、初めて、完成する……。長い、時が、過ぎた……幾人もの、者が、この塔を、訪れたが……誰も、わたしの、言葉を、読み取れなかった……ただ、恐れ、あるいは、無視して、去っていった」

その言葉に、アランの脳裏に、ギルドで見た古い報告書の一文が浮かび上がった。『声を聞いた』『誰かに見られている気がした』『本には触れるな』――途中で途切れた、あの記録。

「――過去の探索者たちも、あなたの声を聞いていた。でも、読み取ることができなかった、ということですか」

「そう……だ……彼らには、わたしの、意識の欠片を、受け止める、器が、なかった……ただ、恐怖と、混乱だけを、抱えて、去っていった……それが、わたしの……唯一の、後悔だ」

リーシャが、思わず声を震わせた。

「じゃあ、あんたは、ずっと、誰かに気づいてもらうのを、待ってたのね……」

「気づいて……もらう、というより……わたしの、術を……完成させて、くれる者を、待っていた」

フェリックの視線が、ゆっくりと、アランへと向けられた。

「そなた……その目……それは……わたしの、術に、極めて、近い」

「僕の《解析記録》のことですか」

「そう……その力は……記録された、情報を、読み解く、力……わたしが、生涯をかけて、追い求めた、術の……いわば、対極にある、完成形だ」

その言葉に、アランは自身のスキルの起源について、これまで考えたこともなかった仮説が、頭の中で急速に組み立てられていくのを感じた。

「僕のスキルが……あなたの研究と、何らかの繋がりがある、ということですか」

「繋がり、とまでは、言えぬ……だが……そなたのような、力を持つ者が、いつか、現れると……わたしは、信じて……待ち続けた……この本に、意識を、刻んでから……幾百年……その間、幾人もの、探索者が、この場所に、辿り着いた……だが、誰も、この術の、意味を、理解することは……できなかった」

「あなたが、探索率の進行を、止め続けていた理由は――」

「わたしが、意図的に、止めていた、わけではない……この術は……正しく、読み解かれない限り、完成しない……ただ、それだけの、こと……そなたたちが、対話を、重ね、この本の、記述を、少しずつ、読み解いてくれた……それが、探索率という、形で、示された、というだけの、話だ」

視界の隅で、探索率の数字が、なおも上昇を続けていた。『82』、『87』、『91』――もはや、これまでのように一パーセントずつ進むのではなく、堰を切ったように、急速に数字が動いている。

「アラン、これ、止まらないんじゃない?」

「はい。今、フェリックの言葉を理解したことそのものが、探索率の進行に直結しているようです」

フェリックは、静かに、しかし確かな安堵を含んだ表情で、二人を見つめていた。

「そなたたちは……わたしの、術を……ようやく、読み解いてくれた……この……長い、孤独の、果てに」

「フェリックさん……あなたは、これから、どうなるんですか」

リーシャの問いに、フェリックは僅かに目を細めた。

「わたしの、意識は……この本と共に、あるべき、場所へ……還るだろう……それが、わたしの……本来の、望みだった……。誰かに、気づいてほしい……そう、思っていたのは……確かだ……だが、それ、以上に……わたしは……この術が、正しく、伝わり、この世に、意味を、持つことを……願っていた」

アランは、視界に浮かぶ数字が、ついに『99』へと達したことを確認した。

「探索率が、99パーセントに達しました」

その言葉に、フェリックの輪郭が、これまでで最も強い光を放った。

「……最後に……一つ、伝えたい、ことがある」

「何ですか」

フェリックの視線が、真っ直ぐにアランへと向けられた。

「そなたの、力は……まだ、その、可能性の、ほんの、一部しか、示していない……この術の、本質を……いつか、そなた自身の、目で、見出してほしい……それが……わたしの、最後の、望みだ」

その言葉を最後に、フェリックの輪郭が、ゆっくりと、光の粒子のように解けていった。杖を持つ痩せた老人の姿が、まるで長い眠りにつくように、静かに、その形を失っていく。

「フェリックさん――!」

リーシャが思わず手を伸ばしたが、その手は、既に何もない空間を掴むだけだった。石机の上の本が、最後にひときわ強く光を放ち、そして――静かに、光を失った。

部屋に、静寂が戻った。

視界の中心に、これまでのどの表示よりも大きく、鮮明な数字が浮かび上がっている。

『探索率:99』

「……終わった、の?」

リーシャの声は、掠れていた。アランは、その場にしばらく立ち尽くしたまま、視界に残る数字を見つめ続けた。

「99パーセント……100には、届いていません」

「え? まだ、足りないの?」

「はい。何かが、まだ――」

その時、アランの視界に、これまで感じたことのない種類の反応が、部屋の奥、これまで存在しなかったはずの空間から、静かに滲み出し始めていることを、彼は捉えていた。

「アラン、どうしたの? また、固まってる」

「――何かが、まだ残っています。フェリックさんの言葉が、示唆していたもの――『術の本質』が、まだ、この先にあるようです」

リーシャは、短剣の柄に手をかけながら、部屋の奥へと視線を向けた。

「じゃあ、まだ、終わりじゃないってことね」

「はい。この塔が抱えていた謎の、本当の核心は――まだ、僕らの前に、その姿を見せていないのかもしれません」

石机の本は、光を失ったまま、静かにそこに残っていた。しかし、その存在感は、以前とは明らかに違う、新たな重みを帯びているように、アランには感じられた。

窓のない円形の部屋に、静かな緊張感が、再び満ちていく。フェリックという名前と、彼の遺した言葉――それらを胸に、二人は部屋の奥、まだ見えぬ何かへと、視線を向け続けた。

◇

部屋の奥、これまで石壁としか認識していなかった場所に、確かに何かが滲み出していた。輪郭はまだ定まらない。だが、その気配は、フェリックのものとも、これまで遭遇したどの守護者のものとも違う、まったく異質な質感を帯びていた。

「アラン、どこ見てるの」

「奥の壁――いえ、壁だったはずの場所です」

リーシャが視線をそちらに向けると、石机の向こう、円形の部屋の最も奥まった位置に、微かな輝きが漂っているのが見えた。目を凝らさなければ気づかないほど淡い光だったが、確かにそこにある。

「あそこ、前から何かあった?」

「いいえ。フェリックさんが消える直前まで、あの場所に反応はありませんでした。彼の消滅と入れ替わるように、新たに現れたものです」

「じゃあ、あれが『術の本質』ってやつ?」

「わかりません。ただ、確認する価値はあります」

二人はゆっくりと、その光の滲みに近づいていった。歩みを進めるごとに、輝きは徐々に輪郭を帯びていく。それは扉のようでもあり、ただの光の裂け目のようでもあった。

「アラン、これ、入って平気なやつ?」

「危険性を示す反応は、今のところありません。ですが、未知であることに変わりはありません」

「変わり身早いわね、あんたの慎重さ」

「フェリックさんの言葉を思い出してください。『力の本質はまだその一部しか示されていない』――彼は、これが安全な道であることを示唆していたように思います」

リーシャは短剣の柄に軽く触れながら、それでも小さく頷いた。

「まあ、あんたがそう言うなら」

光の裂け目に手を伸ばすと、アランの指先はその輝きに触れることなく、するりと中へと沈み込んだ。抵抗感はない。まるで、最初からそこに道が存在していたかのようだった。

「――繋がっています。奥に、もう一つの空間があるようです」

「じゃあ、行くしかないわね」

二人は光の裂け目をくぐった。視界が一瞬白く染まり、次の瞬間には、まったく異なる空間に立っていた。

そこは、円形の部屋よりもさらに小さな、しかし天井が異様に高い部屋だった。壁一面に、これまで見てきた魔導文字とは比較にならないほど密度の高い文字列が、幾重にも刻まれている。中央には、石机ではなく、一本の細い柱が立っており、その頂には、小さな結晶が淡く発光しながら浮かんでいた。

「これは……」

アランは視界の情報が、これまでとは比較にならない速度で流れ込んでくるのを感じた。文字とも記号とも判別しがたい情報の奔流。だが、不思議なことに、それは混乱を引き起こさなかった。むしろ、頭の中に、静かに、しかし確実に、意味が染み込んでいくような感覚があった。

「アラン? 大丈夫?」

「――はい。大丈夫です。ただ、これまでとは違う種類の情報が、直接、視界に流れ込んでいます」

「直接ってどういうこと」

「言葉として読み解く前に、理解そのものが、先に届いている、という感じです」

リーシャは柱の周りを警戒するように歩きながら、壁の文字列を見上げた。

「これ、フェリックが研究してたっていう、『記録に封じる術』のこと?」

「おそらく、その完成形、あるいは原型です」

結晶に近づくと、アランの視界に、これまでのどの表示とも異なる、静かな一文が浮かび上がった。数字でも記号でもない、初めて完全な言語として結晶した情報だった。

『これは、伝える者のために遺された、最後の欠片である』

「読めた。『これは、伝える者のために遺された、最後の欠片である』――そう、視界に浮かびました」

「伝える者……それって、あんたのこと?」

「わかりません。ですが、フェリックさんが言っていた『そなたのような力を持つ者』という言葉と、符合します」

結晶の光が、アランの視線に応じるように、僅かに強まった。次の瞬間、視界の情報が、これまでにない密度で押し寄せてくる。

それは、記憶のようでもあり、知識のようでもあった。フェリックという一人の魔導士が、生涯をかけて追い求めた「記録に封じる術」の研究過程――失敗の連続、幾度もの挫折、そして死の間際、自らを実験台にすることを選んだ決意。それら全てが、断片的な映像と感覚として、アランの意識の中に流れ込んでくる。

その記憶の奔流の中には、塔の設計そのものに関する断片も混ざっていた。フェリックは、意識を封じるための研究の過程で、この塔の内部空間そのものに手を加えていたのだ。外から見える窓の数と、内部で辿り着ける空間の広さが一致しなかったのは、彼が己の術によって、部屋そのものを物理の外側に折り畳んでいたからだった。――外観よりも内部が広いという、あの空間的異常の理由が、ようやく腑に落ちた。

「アラン……!」

リーシャの声が、遠くから聞こえるようだった。アランは目を閉じることもできず、ただその奔流を受け止め続けた。

やがて、情報の波が緩やかに引いていく。視界に、静かな文字列が残った。

『解析記録――それは、記録を封じる術の対極にして、その最終形態。読む者が、書かれざる意志を掬い上げる力』

アランはゆっくりと瞬きをした。頭の中に残る余韻は重かったが、混乱はなかった。むしろ、これまで漠然としていた自分のスキルの輪郭が、初めて明確な形を持ったような感覚があった。

「……見えました」

「何が? アラン、顔色悪いわよ」

「僕の《解析記録》というスキルが、なぜ存在するのか。その理由の一端が、今、示されました」

リーシャは心配そうに眉を寄せながら、それでも急かすことなく、アランの言葉を待った。

「このスキルは、単なる罠やモンスターの生態を覗き見るためだけのものではありません。フェリックさんが追い求めた『記録に封じる術』――意識や思考を後世に伝えるための術――それを『読み解く』ために存在する力なんです」

「読み解く、って、つまり……」

「対になる力です。彼が『封じる』側だとすれば、僕は『開く』側。彼のような術が、この世界のどこかに、まだ他にも存在するのだとすれば――僕のスキルは、それを見つけ、読み解くために生まれたものなのかもしれません」

リーシャはしばらく沈黙し、それから小さく息を吐いた。

「なんか、とんでもない話になってきたわね」

「はい。ですが、まだ全てが解明されたわけではありません。これは、あくまで一端です」

結晶の光が、ゆっくりと弱まっていく。柱全体が、役目を終えたかのように、静かに輝きを収めていった。アランの視界の隅、常に映っていた『探索率:99』の表示が、僅かに震え始める。

「アラン、数字が」

『99』から――『100』。

ついに、その数字が現れた。これまでのどの瞬間よりも、静かで、しかし確かな重みを持って。

「……達成しました。探索率、百パーセントです」

「本当に……終わったのね」

リーシャの声には、安堵と、僅かな寂しさが混じっていた。柱の結晶は完全に光を失い、部屋全体が、静かな眠りにつくように、光を落としていく。

「アラン、あんた、今のことでスキルの正体がわかった、ってことよね。それって、あんたにとって、どういう意味があるの?」

アランは少し考えてから、答えた。

「これまで、僕のスキルは『外れスキル』と評価されてきました。戦闘に使えない、価値の低いものだと。ですが、今回の一件で、その評価が根本的に間違っていたことが証明されました」

「証明、っていうか、あんたはずっと信じてたじゃない、自分の力を」

「はい。ただ、信じることと、その根拠を知ることは、別の意味を持ちます。今、僕は、自分のスキルが、単なる利便性の道具ではなく、何かもっと大きな役割を担う可能性があることを知りました」

「もっと大きな役割、って?」

「わかりません。ですが、この世界には、フェリックさんのような存在が、他にもまだいるかもしれない。誰にも読み解かれることなく、ただ待ち続けている記録が、どこかに眠っているかもしれない」

リーシャは、その言葉を噛みしめるように、しばらく黙り込んだ。

「じゃあ、あんたの探索率百パーセントへのこだわりって、そういう存在を見つけるため、ってことにも繋がるのね」

「結果的には、そうなるのかもしれません。ですが、今はまだ、目の前の迷宮を解明することが、僕にとっての第一歩です」

小さな部屋は、既にその役目を終えたかのように、静けさに包まれていた。二人は柱の残光が完全に消えるのを見届けてから、来た道を戻り始めた。光の裂け目をくぐると、視界は再び、円形の部屋の見慣れた景色へと戻っていく。

石机の上、劣化しない本は、静かにそこに置かれたままだった。だが、そのページは、もはや何の記号も浮かべず、ただの古い紙として、静かに横たわっている。

「この本、もう何も起きないのかしらね」

「おそらく。フェリックさんの意識は、既にこの本から離れました。今は、ただの記録――役目を終えた器です」

リーシャは本にそっと手を触れ、それから小さく微笑んだ。

「ありがとう、フェリック。あんたのおかげで、この塔のこと、少しだけわかった気がする」

答える声はなかった。だが、部屋全体に満ちていた張り詰めた空気は、既に和らぎ、代わりに静かな安らぎのようなものが、そこに漂っていた。

窓のない円形の部屋を後にし、二人は塔の内部を戻り始めた。朽ちた書物の散乱する広間を抜け、石段を下り、やがて塔の外へと続く朽ちた入口が見えてくる。

外に出ると、既に日は傾き、森の木々の間から橙色の光が差し込んでいた。塔全体を見上げると、蔦に覆われた石壁は変わらぬ姿を保っていたが、その佇まいは、以前よりも幾分、穏やかに感じられた。

「終わったのね、本当に」

「はい。この《朽ちた図書塔》の探索は、これで完了です」

リーシャは大きく伸びをしながら、深く息を吸い込んだ。

「なんか、灰鐘のときとは全然違う達成感ね。あっちは、力でねじ伏せた感じだったけど、今回は……」

「対話と、理解を積み重ねた結果です」

「そうね。あんたのそのスキル、やっぱりただの外れじゃなかったわ」

「あなたの直感も、大きな役割を果たしました。名前を尋ねる、という発想は、僕の思考だけでは辿り着けなかったものです」

リーシャは照れくさそうに視線を逸らし、それから小さく笑った。

「まあ、あたしたちの連携、悪くなかった、ってことでいいわね」

「同意します」

森の道を歩きながら、リーシャがふと足を止めた。

「ねえ、アラン。フェリックが最後に言ってたこと、覚えてる? 『力の本質はまだその一部しか示されていない』って」

「覚えています」

「あれって、今日、あの奥の部屋で見たことで、答えが出た、ってことなのかしら」

アランは少し考えてから、首を横に振った。

「いえ、おそらく、これは始まりに過ぎません。僕のスキルの根源に触れる情報を得ましたが、それが何を意味するのか、これからどう活かすべきなのか――その答えは、まだ何も出ていません」

「じゃあ、これからも、こういうこと、続くってことね」

「はい。ですが、それは、僕にとって望むところです」

リーシャは呆れたように、それでも満足げに笑った。

「相変わらずね、あんたって。まあ、いいわ。あたしも、付き合ってあげる」

夕暮れの森を抜け、街の灯りが見え始める頃には、二人の足取りには確かな充足感が滲んでいた。ギルドへの報告、そしてまた新たな迷宮への旅立ち――その全てが、まだ先に待っている。だが、今はただ、この《朽ちた図書塔》が刻んだ長い眠りから目覚め、静かにその役目を終えたことを、二人は胸に刻んでいた。

「アラン」

「何ですか」

「次の迷宮、もう決めてるの?」

「候補はいくつか。ですが、今日はまだ、この達成感に浸っていたい気分です」

「あんたがそんなこと言うの、珍しいわね」

「事実です」

「はいはい」

街の門が見えてくる。篝火の灯りに照らされたその輪郭を見つめながら、二人は静かに、しかし確かな足取りで、帰路を歩き続けた。まだ見ぬ未知への扉は、既に次の場所で、静かに二人を待っているはずだった。

◇

街の灯りが近づくにつれ、リーシャの足取りは軽くなっていった。夕暮れから夜へと移り変わる空の下、石畳を踏む二人の影が長く伸びている。

「ねえ、アラン。今日中にギルドまで行く? それとも明日にする?」

「今日のうちに報告しておきたいです。記憶が新しいうちに、正確な記録を残すべきだと考えます」

「あんた、疲れてないの? あたしはもう、色々ありすぎて、頭がパンクしそうなんだけど」

「疲労はあります。ただ、報告の優先度のほうが高いと判断しています」

(長い話のため、ここまでを掲載しています)

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作者について

TOM

TOM

AIを駆使した小説作家

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