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日陰は夕方まで逃げる

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/9/7 📝 14,229文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

暑い。 それだけで、いつもの道が少し変わる。 日陰を拾い、遠回りし、冷たい飲み物に助けられ、雨に追われ、冷房に逃げる。PARA:DICEを歩くひよりとルカの一日は、いつの間にか「次の影」を探すだけの妙な遊びになっていた。 朝からずっと、暑さに道を選ばされていた一日。 夕方、影が十分すぎるほど長くなったとき、ひよりはようやく別の道を選ぶ。 夏の一日を、身体と足元から描いた PARA:DICE SIDE STORY。

本文

「暑っ」

門を抜けた天羽ひよりは、二歩で止まった。

正確には、止まったというより、左へずれた。門の柱が落としている細い影が、靴一足ぶんだけ舗装を暗くしていた。そこへ片足を入れてから、もう片方も寄せる。

「入園処理は完了しています」

背後でMONが言った。

「うん。いま生存処理してる」

「その手続きはありません」

「知ってる」

午前の終わりに近い光は、門前の床を平らに照らしていた。照らしているだけなのに、ひよりには床のほうが何か積極的にやっているように見えた。靴底からじわじわ熱が上がってくる。髪を耳へかけた指に、もう首筋の汗がついた。

中央へ行こうと思っていた。

門の向こうでは、入ったばかりの人たちがそれぞれ最初の方向を決めていた。案内を見る人、スマートフォンを開く人、最初から歩き出す人。ひよりの前では二人組が「まず中央でいい?」と相談して、そのまま日向へ出ていった。三歩目で片方が帽子のつばを下げた。

ひよりはまだ動かなかった。

影の中だけ、靴の甲へ当たる光が弱い。たったそれだけの違いなのに、出る理由が薄くなる。背後から次の来園者が通る気配がしたので、ようやく端へ寄った。そこでも柱の影からは出なかった。

「邪魔にはなってない」

MONは何も言っていない。

「確認」

自分で言って、ひよりはボトルも持っていない手を額へ当てた。指先がもう熱い。

何をするかは決めていない。中央へ行けば何かある。何かなくても食べ物はある。食べ物がなければ人がいる。だいたいそれでいい。

その程度の予定だったのに、中央へ向かう最短の線は、門から三十秒もしないうちに捨てた。

最初の曲がり角では、同じ方向へ向かう家族を一度追い越したのに、次の木陰でまた抜かれた。さらにその先でひよりが建物側へ大回りしたせいで、今度は遠くへ行ったはずの家族が正面から見える。

「負けてる」

別に競争していない。

けれど最短距離の人間がどんどん先へ行くのを見ると、日陰を選ぶたびに自分の進行度だけ削られているような気になる。ひよりは一度まっすぐな道へ戻ろうとした。戻った瞬間、照り返しが膝から上へ来た。

「はい無理」

三秒でまた壁際へ戻った。

右手の建物沿いに影があったからだ。

「こっち」

誰に言うでもなく曲がった。

三十秒後、また曲がった。

今度は木の影だった。

その次は、看板の裏側にできた頼りない細長い影だった。さすがに身体は入らない。ひよりは看板を見上げ、影を見下ろし、諦めて日向を横切った。

「役に立たない看板だな」

看板は案内をしていた。

八分から十二分。

ENTRYからCENTRALまで、普通に歩けばそれくらいだとひよりは知っている。今日は普通に歩いていない。まっすぐ行けば近い場所で、建物の縁をなぞり、木の下へ膨らみ、また戻る。距離にすれば大したことはない数メートルが、日向を踏むたびにひどく損をした感じを出してくる。

途中の売店で冷たい飲み物を一本買った。

冷蔵棚から出されたボトルは、受け取る前から白く曇っていた。財布をしまうあいだだけ脇へ挟むと、服の上から冷たさが伝わってくる。ひよりはそのまま持っていたくなったが、落としそうなので諦めた。

売店の前にも小さな影があった。そこには三人ほど集まっていて、誰も売店を見るでもなく飲み物だけ飲んでいる。商品棚より影のほうが人気だった。ひよりも端へ入る。

「これ、店の付加価値ほぼ影では」

近くにいたスタッフが聞こえたらしく、笑うだけ笑って仕事へ戻った。ひよりも別に答えを求めていなかった。

受け取った瞬間だけ、手のひらが勝った。

「つめた」

ボトルの表面に細かい水滴が浮き、そのうち二つが指の間へ滑り込んだ。ひよりはそれをわざと首筋へ当てた。

「うわ、最高」

最高は三秒だった。

四秒目にはぬるくなり始めた気がした。

蓋を開けて一口飲み、また歩く。日陰では歩幅が普通に戻る。日向へ出ると、無意識に次の影までの距離を測っている。あの木まで。次は建物の角。角の先は分からない。影が続いていれば勝ち。途切れていたら負け。

前を歩く人が急に止まったので、ひよりも一歩だけずれた。止まった人は地図を見ているだけだったが、その一歩でひよりの右肩だけ日向へ出る。じりっと熱が戻り、地図が閉じられるより先に身体がもう半歩壁側へ寄った。

後ろから来た二人組は、そんな細かいことをせず真ん中を抜けていく。一人は日傘、もう一人は帽子だけ。追い越されたひよりはボトルを持ち替え、二人の背中が次の木陰で少し遅くなるのを見た。

「結局そこ使うんじゃん」

聞こえない距離なので好きに言った。

何に。

「暑さに」

口に出してみたら、思ったよりそのままだった。

中央が見えてからも、ひよりは一度で辿り着かなかった。広場手前の横断だけ日陰がなく、そこを渡る前に足を止める。向こう側の影には空きがある。手前の影にも誰かいる。信号も規則もないのに、全員が同じタイミングで少しだけためらっている。

先に子どもが走った。続いて大人が歩く。ひよりも出た。

舗装の真ん中で、冷えたボトルを持っている手だけが妙に頼もしい。首筋へ当てたいが、歩きながらやると前が見えにくい。ひよりは我慢して、向こう側へ着いた瞬間にまた頬へ当てた。

「こういうのでいいんだよ」

何が、と聞かれたら困る。だが身体は納得していた。

CENTRALの人の多い場所へ入るころには、ボトルの中身は三分の二になっていた。

そして、日陰にルカがいた。

人がいるところを選ぶ天城ルカらしく、広場の端、完全に一人にはならない位置だ。けれど人混みの真ん中でもない。建物から伸びた影の端に立って、通り過ぎる人を眺めていた。

「またいる」

ひよりが言うと、ルカが顔を向けた。

「そっちも」

「なんでそこ」

「日陰」

「私も」

会話が終わった。

ルカの手にも飲み物があった。ひよりのより少し減っている。髪の生え際に細い汗が残っていて、日陰にいる理由をこれ以上聞く必要はなかった。

「仕事?」

「今日は違う」

「じゃあ何してるの」

「立ってる」

「強い」

「ひよりも今そうじゃない?」

「私は中央まで来た」

「それは移動しただけ」

「成果」

「甘いなあ」

ルカは笑いながら、影の外へ一歩だけ出た。すぐ戻った。

「確認?」

「確認」

「暑い?」

「暑い」

それでまた会話が終わった。

ひよりはルカの隣まで入り、影の奥へ半歩だけ詰めた。

「そこ、私のぶんじゃない?」

「日陰に所有権できた?」

「先着順」

「じゃあ私のだよ」

「じゃあ半分」

二人で建物の影へ収まった。

広場の中央は明るい。人は普通に歩いている。普通に歩いている人の中にも、帽子を深くかぶった人、日傘を少し傾けた人、子どもの手を引いて日向だけ妙に速く抜ける人がいる。列の最後尾では、ひとつ前の人が半歩動いたのに、その後ろの人が動かなかった。列の進行より影の境界を優先している。

「みんな同じじゃん」

「同じではないと思う」

ルカが言った。

「ほら、あの人」

広場の向こうで、一人だけ真ん中をまっすぐ歩いている人がいた。

「強い」

「たぶん目的地が近い」

「そういう現実的なこと言わないで」

その人は三十秒後、日陰へ入った瞬間に歩く速度を落とした。

「同じだった」

「同じだったね」

ひよりは笑って、ボトルを頬へ当てた。

広場の端では、別の列がじわじわ影の形に曲がっていた。最後尾表示そのものは動いていないのに、人だけが壁際へ寄るので、列がきれいな直線にならない。スタッフが通路幅を見て声をかけると、みんな一度は戻る。それでも次の人がまた少しだけ影へ寄る。

「生き物だ」

「列が?」

「日陰に寄る列」

「ただ暑いだけだよ」

「それで動いてるなら生き物っぽい」

ひよりは列の横を通りながら、自分も壁際から離れなかった。

「人のこと言えないね」

「私は列じゃない」

「そこ?」

別の場所では、日傘を差した人がわざわざ日向のベンチへ座っていた。隣の影のベンチは満席だ。目的が座ることなら、それで正しい。

「全員同じじゃないね」

ルカが言う。

「でもだいたい暑い」

「そこはそう」

少し先に、木の影があった。

形のいい影だった。幹から枝のぶんだけ広がっていて、二人が立つには十分。問題は、いまいる場所からそこまでのあいだに、かなり明るい舗装があることだった。

ひよりが見た。

ルカも見た。

「次、そこ」

「行くの?」

「まだあるかな」

「影が?」

「着いたとき」

ルカが一度だけ空を見た。太陽の位置を真面目に計算した顔ではない。ただ影の向きを見て、次に木を見た。

「ちょっとずれるんじゃない」

「じゃあ急ぐ?」

「急ぐほど?」

「暑いし」

理由が正しいので、二人は日向へ出た。

最初の三歩は普通だった。

四歩目から、ひよりが少し速くなった。

「速い速い」

「なくなる」

「なくならないって」

「ずれる」

「それはずれる」

木の下へ着いたとき、影の端は予想より二十センチほど動いていた。

「逃げた」

「二十センチ」

「逃げたじゃん」

「追いついてるじゃん」

二人とも息を切らす距離ではない。なのに日向から影へ入った瞬間だけ、妙に達成感があった。

それから、次の影を見つけた。

今度は屋根の張り出し。

その次は植栽の横。

植栽の影は見た目より狭かった。枝の形が細かく割れていて、二人が並ぶと片方の肩が日向へ出る。ひよりが先に内側へ入り、ルカが無言で見る。

「何」

「共同日陰」

「覚えてたんだ」

「はい」

ひよりは十五センチずれた。ルカも入る。

次の屋根までは近い。だが途中に、明らかに熱そうな濃い色の舗装がある。二人はそこだけ歩幅を伸ばした。

「床が色で攻撃力変えてない?」

「気のせいじゃないと思う」

「仕様?」

「素材じゃない?」

「現実的な回答禁止」

「さっきから何を求めてるの」

答えないまま次の影へ逃げ込んだ。

次は細くて二人入れない。

影の幅を見て、ひよりが先に止まった。

「無理」

「一人なら入れるよ」

「二人で来たのに一人だけ助かるの、感じ悪くない?」

「日陰に倫理を求めないで」

「でも交代制なら」

「入りたいんだ」

「ちょっと」

ひよりが入る。肩の半分だけ日向へ出た。

「入れてないじゃん」

「概念としては入ってる」

「概念じゃ涼しくならないよ」

「うるさいな」

交代するほどの価値もなかったので、二人ともすぐ出た。

少し先には、屋根の影が幅広く伸びている。ただしそこまで行くには、乾いた明るい通路を横切る必要がある。ひよりは距離を測るみたいに目を細めた。

「五秒」

「何が」

「あそこまで」

「普通に歩けばもっとかかる」

「じゃあ七秒」

「数字が雑」

「行けば分かる」

二人で出た。

七秒では着かなかった。

途中で写真を撮っている人たちがいて、ひよりはその後ろを回る。回ったぶんだけ日向が増えた。

「障害物!」

「人を障害物って言わない」

「日陰的には障害」

「日陰的って何」

「いま作った」

屋根へ入ったとき、ひよりはもう笑っていた。

「私が見つけた」

「先着順って言ったのひよりだよ」

「言ったけど今は共同事業」

「いつ事業になったの」

「じゃあ共同日陰」

「言葉が弱い」

ふざけているうちに、二人は本来なら選ばなかった方向へ少しずつ流れていた。

誰もルートを決めていない。

近くの影へ入る。その影から次に見える影を探す。そこへ行く。歩きやすいほう、近いほうではなく、いま身体が楽なほうへ寄っていく。

「次そこ」

ルカが指した。

「それ木」

「影なら何でもいいんじゃないの」

その木の影へ行く途中、二人は別の影を見つけた。屋根の柱が落とした、細い一本線だ。

「途中セーブ」

ひよりがそこへ片足だけ置く。

「身体入ってないけど」

「足が入ってる」

「足だけ回復?」

「足大事」

ルカも隣へ足を置いた。二人並ぶと、完全に意味のない立ち方になった。通り過ぎた人が一度だけこちらを見る。

「見られた」

「そりゃ見る」

「何してると思われたかな」

「分からないと思う」

「正解」

二人は一秒だけその細い影を守り、それから木のほうへ走った。

「建物限定じゃなかった?」

「建物限定じゃなかった?」

「そんなルールない」

「ルール自体ないでしょ」

「じゃあ木あり」

「何の許可」

「私」

「弱い」

SLOW側へ向かう人の流れが少しずつ静かになっても、暑さは静かにならなかった。

中央から十数分。普通に歩けばそのくらいの距離を、二人はまた普通ではなく歩いた。影を拾うたびに少し遠回りになる。ある建物の壁沿いは涼しいが、先が切れている。別の木陰は広いが、人が多い。少し待てば空く。待つ理由はないのに待ってしまう。

「これ、目的地どこ」

ルカが聞いた。

「知らない」

「私も」

「じゃあいいか」

「いいんだ」

「暑くなければもっといい」

それだけは二人とも同意した。

SLOW側の落ち着いた空気は、音を減らしてはくれたが気温までは引き受けなかった。

中央の広場より声は遠い。道幅も少しゆるく感じる。だからといって身体が勝手に涼しくなるわけではなく、ひよりはむしろ自分の息の暑さを意識した。

影の濃い場所で一度立ち止まる。足首のあたりだけ風が通った。上半身には来ない。

「風、身長選んでる」

「地面近く流れてるだけじゃない?」

「私の顔まで来て」

「風に言って」

ひよりはしゃがんだ。

「来た」

「それはひよりが行った」

「結果よければいい」

立ち上がると、また暑かった。鳥の声がしても、葉が揺れても、首筋は普通に暑い。ひよりはボトルをまた飲んだ。残りが少なくなって、持ったときの重さが急に頼りない。

近くの木陰に入ると、先客の親子が端へ少し詰めてくれた。

「ありがとうございます」

母親らしい人が笑って、「みんな考えること同じですね」と言った。

その横で子どもは日向へ片足を出し、すぐ引っ込めていた。

「熱い?」

「床が強い」

子どもが言った。

ひよりは深くうなずいた。

「分かる。床が強い」

ルカが横から、「今日の敵、床だったんだ」と言う。

「空だと思ってたけど、攻撃してくるの床だから」

「分析が雑」

「でも合ってる」

「だいたい」

笑って、次の影へ移った。

そのころには、誰も始めたと言っていないものが、なんとなく続いていた。

ひよりが先に影を見つけることもあれば、ルカが何も言わず進行方向を変えることもある。広い影を見つけたときだけ二人とも少し得意げになる。細い影を見誤ると相手のせいにする。

「そこ絶対入れるって言ったじゃん」

「一人なら」

「二人で歩いてるんだけど」

「今初めて条件出た」

「設計が雑」

「設計してない」

広い木陰の中央にベンチがあったが、先客がいる。二人は座ることより影へ入ることを優先して、ベンチの横に立った。先客は冷たいデザートを食べている。

ひよりの視線がそちらへ吸われた。

「食べたい」

「ゲームは?」

「食欲が優先」

「ゲームじゃないけどね」

結局その場では買わなかった。次の影が見えたからだ。

次の影を予想する。

日向を短くする。

着いたとき少しずれていたら文句を言う。

広ければ勝ちっぽい。

狭ければ負けっぽい。

ただし何点なのかは誰も知らない。

「今の何点?」

「点ない」

「じゃあ勝った?」

「勝敗もない」

「厳しいゲームだね」

「ゲームですらない」

それでも二人は、少し先の影を見て同時に歩き出した。

「今のは?」

「何」

「同時だった」

「だから?」

「連携」

「暑い人が同じ影見ただけ」

「夢がない」

「ゲームじゃないって言ってる人が夢を要求しないで」

次の影は、人が多くて入れなかった。二人はその横を通り過ぎ、さらに先へ行く。

少し先で、子どもが日向を一直線に走り、その後ろの大人が影から影へ斜めに歩いた。到着地点は同じなのに線が違う。さらに後ろの人は日傘を差したまま最短を選び、別の人は飲み物を首へ当てながら木の下で止まる。

「全員やり方違う」

「何の?」

「ここを通るやり方」

「普通そうじゃない?」

「今日だけ道が増えて見える」

ルカは答えず、次の広い影へ先に入った。ひよりは一拍遅れて追う。

そこでひよりが振り返ると、さっき空かなかった場所へ別の二人組がすぐ収まっていた。

「取られた」

「使わなかったでしょ」

「でも見つけた」

「所有権ないよ」

「午前の私たちの議論が戻ってきた」

「進歩がない」

「暑いからね」

その瞬間、ひよりは足元を見た。

さっきまでくっきりしていた木の葉の形が、ぼやけている。

「ん?」

一歩前に出る。

影の端がない。

「ルカ」

「なに」

「なくなった」

「何が」

「境目」

二人ともそこで初めて空を見た。

雲が来ていた。

青の上を大きく覆うほどではない。けれど光を丸くするには十分で、舗装の白さが少し落ちている。影と日向の差が、さっきまでほど露骨ではない。

「ゲーム終了?」

「ゲームじゃないって言ったじゃん」

「じゃあ何が終了したの」

「分かんない」

最初の雨粒が、ひよりの腕に落ちた。

「あ」

二滴目がボトルに当たった。

三滴目から数えるのをやめた。

弱い雨だった。

最初は、日向と日陰の差を消しただけだった。次に、舗装の色をまだらにした。乾いていた場所へ丸い点が増え、点同士がつながる。人の動きもそれに合わせて細かく変わる。

屋根まで走る人の横で、傘を開くのに手間取る人がいる。日傘をそのまま雨傘にする人。タオルを頭へ乗せる人。濡れたくない荷物だけ服の中へ抱える人。

ひよりは最初の数歩を歩いていた。

「これくらいなら」

と言った直後、額へまとまった一滴が落ちた。

「やっぱ屋根」

「判断早い」

「条件が変わった」

「一滴で?」

「顔は重要」

二人で屋根へ寄った。

悲鳴が出るほどでも、走って逃げるほどでもない。だからみんな最初の数秒だけ迷う。傘を出す人。屋根へ寄る人。そのまま歩く人。ベビーカーの屋根を確かめる人。紙袋だけ胸へ抱える人。

ひよりとルカは近い屋根の下へ移った。

屋根の下はすぐに人が増えた。

端にいた人が半歩ずつ奥へ詰める。濡れた傘の先を外へ向ける人と、足元へ置く人で床の濡れ方が違う。通路を塞がないようスタッフが声をかけると、全体が少しだけ形を変えた。

ひよりは背中を壁につけるほど奥へ入らず、通る人の幅を残して立った。ルカも同じくらいの位置にいる。

二人の間へ、あとから来た親子が入った。さっき木陰で会った親子だった。子どもがひよりを見て言う。

「床、弱くなった」

「ほんとだ」

「でも雨、強い」

「入れ替わったね」

母親が笑う。ルカが「今日ずっと何かと戦ってるね」と言った。

「向こうから来る」

「被害者みたいに言う」

屋根の外へ半歩だけ出した靴の先に、雨粒が増えていく。ひよりは片足を引っ込めた。朝なら日向か日陰かで決めていた境界を、今度は濡れるか濡れないかで見ている。

「今日ずっと線の内側にいる」

「何の線」

「影とか屋根とか」

「それ今気づいたの?」

「いま言葉になった」

「じゃあ忘れていいよ」

「そうする」

二人の横で、傘を畳んだ人が水滴をきれいに落としてから入ってくる。その後ろの人は畳みきれず、肩だけ少し濡らした。誰も同じ入り方をしない。

ひよりは屋根の外を見て、さっきまで探していた木陰が雨に薄く溶けているのを見つけた。形はあるはずなのに、もう見分ける意味がない。

「いま何点?」

ルカが急に聞いた。

「点ないって」

「覚えてた」

「そこだけは」

さっきまで別々の影を選んでいた人たちが、今度は同じ細長い乾いた場所へ集まる。濡れた傘が足元へ並び、髪の先から水が落ち、誰かの肩についた小さな水滴が照明を拾った。

スタッフは床の濡れ方を見て、滑りやすい場所へ案内を出している。別のスタッフが水滴を拭く。雨が降ったからといって、園内全部が雨の話になるわけではない。飲み物は売られ、案内は続き、遠くでは普通の音がしている。

「ちょっと濡れた」

ひよりは袖をつまんだ。

「ちょっと?」

ルカが見る。

肩から肘まで、色が濃くなっていた。

「予定より」

「予定してたんだ」

「濡れない予定だった」

「雑な予定」

「午前からずっと雑だよ」

「知ってる」

雨脚が少しだけ強くなり、すぐに戻った。

二人の前で、小学生くらいの子が屋根の外へ手を出している。その横の大人が「濡れるよ」と言いながら、自分も手を出した。

ひよりも一瞬やろうとして、やめた。

「もう濡れてるし、やれば?」

ルカが言った。

「濡れてるから増やさない」

「合理的」

「今日は合理的に生きる」

五分後、その宣言は忘れた。

雨は長く続かなかった。

雲の切れ目から光が戻ると、建物の下にも木の下にも、また影ができた。

ルカが顎で前を示した。

「ほら。日陰」

ひよりは見た。

確かにある。

十分広い。近い。さっきまでなら、たぶん何も言わずに向かっていた。

でも今は、空気そのものが水を含んでいる。袖が肌へ張りつく。首筋の髪も湿っている。日差しを避けても、身体の内側に残った熱と外側の湿気がくっついて離れない。

「今日の日陰、もう役に立たない」

ひよりは試しに影の中へ入ってみた。

光は弱くなる。目は楽だ。腕に直接当たる熱も少し減る。けれど期待していたほど身体が軽くならない。濡れた服がまとわりつき、湿った空気が皮膚のすぐ外側へ残っている。

「ほら」

ルカも入る。

「多少は違うよ」

「多少じゃダメ」

「午前中は多少で喜んでたじゃん」

「午前中の日陰は将来性があった」

「何の」

「涼しさ」

「午後は?」

「湿気に買収された」

ルカが笑って、先に影を出た。ひよりも続く。

「解雇?」

「解雇」

「午前中あんなに世話になったのに」

「業績悪化」

「ひどい会社」

二人は日陰を横切った。

代わりに、ひよりが「涼しいところ」と言った。

「さっきまで涼しいところ探してたよ」

「もっと強いやつ」

「屋内?」

「文明」

普通の屋内休憩スペースへ入る。

同じ考えの人は少なくなかった。入口近くには濡れた傘をまとめる人がいて、空いた席を探す視線が何度も往復している。ひよりとルカは奥へ行かず、ちょうど空いた二人分の場所へ滑り込んだ。

冷房の風は一定だった。誰かに合わせる気配はない。濡れている人にも、乾いている人にも、平等に冷たい。

ひよりは最初、両腕を机へ置いた。次に片腕を引いた。さらに一分後、濡れた袖をつまんで肌から離した。

「さっきまでこれ欲しかったのに」

「冷房?」

「冷たい空気」

「欲しい量は言ってなかったね」

「そこまで注文必要?」

「世界はだいたい雑に出してくる」

「今日だけルカのほうが大きいこと言う」

「冷房の話だけど」

扉の向こうの空気が冷たかった。

「正しい」

ひよりは言った。

「冷房は正しい」

「急に思想出た」

「これは思想じゃなくて体感」

最初の一分は本当に正しかった。

汗の残る首が冷える。腕が楽になる。呼吸まで涼しい気がする。椅子へ座ると足の裏がようやく舗装から離れた。

ひよりは空になりかけたボトルを机へ置いた。

「生き返った」

「生存処理終わった?」

「それMONに言われた?」

「朝聞いた」

「聞いてたの?」

「近くにいたから」

ひよりは笑って、残りを飲んだ。

五分後。

「寒い」

ルカが顔を上げた。

「早くない?」

「袖が冷たい」

濡れた布が冷房の風を拾って、腕に貼りついている。さっきまで熱を逃がしてくれなかった髪も、今度は首を冷やしすぎる。

「外暑い」

「うん」

「ここ寒い」

「うん」

「どうすればいいの」

「知らない」

「PARA:DICE、身体に対する正解がない」

「外と中の問題じゃない?」

「じゃあ世界にない」

話が大きくなったので、二人は外へ出た。

外気が当たった瞬間、ひよりは「うわ、あったか」と言った。

三十秒後には「やっぱ暑い」と言った。

ルカが笑う。

「忙しいね」

「身体が」

ひよりは両腕を一度ぶるっと振った。濡れた袖から冷房の冷たさを追い出したいのか、外の熱を入れたいのか、自分でも分からない。

「朝からずっと調整失敗してる気がする」

「朝は暑いだけだった」

「シンプルでよかったね」

「戻りたい?」

ひよりは少し考えた。

「それは嫌」

「じゃあ今でいいじゃん」

「今も暑い」

「面倒」

「身体に言って」

さっき自分が風に言われたのと同じことを返してから、二人とも気づいて笑った。

雨上がりの園路は、朝と同じ場所でも少し違って見えた。ところどころ色の濃い舗装。靴底が水を踏む小さな音。植栽の葉から遅れて落ちる滴。空気は重いのに、光だけは戻っている。

日陰も戻っている。

ひよりは見ていなかった。

二人で歩いて、飲み物を買い直し、少し食べた。

買った直後のボトルは手のひらへ冷たかったが、朝みたいに首へ当てるほどではない。ひよりは一口飲んで、濡れたラベルを親指でずらし、今度は普通に鞄の脇へ持った。ルカのほうは先に半分近く飲んでいる。

今度の飲み物は、最初ほど感動しなかった。手のひらに冷たさが来ても、身体のほうが朝ほど切羽詰まっていない。代わりに食べ物の匂いへ反応した。

ひよりは通りすがりの軽食を見て一度止まり、その先の別の匂いでまた止まった。

「どっち」

ルカが聞く。

「まだ決めてない」

「影は即決だったのに」

「身体の要求にも種類がある」

「じゃあ今は?」

「両方」

「一番困るやつ」

結局、近いほうを買った。理由は匂いでも値段でもなく、列がちょうど影の中にあったからだった。

受け取ってから二人で気づいた。

「まだ日陰選んでるじゃん」

「これは列がそうだっただけ」

「無意識?」

「違う。偶然」

ひよりは言い切って食べた。ひよりは空腹に気づいた瞬間だけ急に機嫌が悪くなり、食べ始めた瞬間だけ急に回復した。

「今日、何しに来たの」

ルカが聞く。

「知らない」

「朝から?」

「中央行こうとは思ってた」

「行ったね」

「そのあとSLOW来た」

「来たね」

「じゃあ成功」

「判定が甘い」

「遊びに来てるから」

それ以上は決めなかった。

午後が傾くころ、ルカが足を止めた。

分岐の先を見て、「じゃ、私こっち」と言う。

「帰るの?」

「うん」

「早」

「もう十分いる」

「それはそう」

朝から一緒だったわけでもない。それでも、さっきまで隣にいた人がいなくなると、道の幅だけ少し広くなる。

「じゃあまた」

「また」

ひよりは一度だけ、ルカの手元を見た。朝から持っていたボトルはもう別のものに替わっている。ルカの靴にも細かな水跡が残っていた。

「そういえば今日、結局何してたの」

「ひよりと日陰」

「それだけ?」

「途中で雨宿りして、食べて、寒がってた」

「私の記録じゃん」

「私もいたよ」

「じゃあ共同記録」

「言葉が弱い」

午前と同じ返しが来たので、ひよりは笑った。

「はい解散」

「勝手」

「ルールないから」

「便利だね、それ」

ルカは片方へ行った。

ひよりは反対へ歩いた。

ひよりは振り返らなかった。

夕方の光は、午前と違って横から来ていた。

午前中に狭かった場所ほど、大きな影を持つようになっている。壁際へ押しつけられていた人の列は、いまは影から少し外れても平気そうに広がっていた。逆に、日向を避けていたはずの子どもが長い影を踏みながら走っている。

ひよりは一度だけ、午前中にルカと取り合ったような細い影を思い出した。いまなら同じ場所へ十人入れそうだった。

「遅い」

影へ言った。

もちろん返事はない。

ボトルを持つ手も、朝ほど濡れていない。表面の水滴が減る前に飲んでしまう必要もない。歩幅は普通に戻っていた。

そのせいで、影が多い。

建物の影は園路を大きく覆い、木の影は長く伸びて次の木の影とつながりそうになっている。午前中なら二人で取り合った幅が、いまは余っている。

ひよりはその中を歩いた。

少し進んでから、日向へ出た。

また影へ入った。

でもどちらも選んだ感じがしない。

影が多すぎる。

「雑になったな」

何が、とは言わなかった。

出口へ戻るなら、もっと分かりやすい道がある。

その手前で、ひよりは別の道を見つけた。

知っている道だった。

近道ではない。大きな施設もない。歩けば余計に時間がかかる。案内として見れば、わざわざ選ぶ理由が弱い。

ただ、夕方の眺めがいい。

案内はそれ以上の理由を押しつけてこない。ここを通れば何分得をするとも、何か特別な体験があるとも書いていない。道はきちんと整備され、手すりもあり、途中に休める場所もある。それでも目的地へ急ぐ人なら選ばない。

ひよりの足は、もう一日ぶん使われている。だから本当なら近いほうがいい。

まっすぐ帰れば、門までの時間は短い。

「うーん」

ひよりは地図を開かなかった。

近道側には、建物の影が太く伸びていた。案内も出口方向をまっすぐ示している。

ひよりは一度そちらへつま先を向けた。

そのまま一歩出れば早い。

けれど足は止まり、空のボトルが鞄の中で軽く鳴った。反対側の道へ顔だけ向ける。入口は少し明るく、影は細い。

「こっち」

理由を探す前に、足だけ先に遠回り側へ出た。

鞄の中で空のボトルが軽く鳴る。

午前中みたいに影を探したわけではない。

道の入口はむしろ少し明るかった。

歩き始めると、脚に一日ぶんの重さがある。空になったボトルは鞄の中で軽い。髪は乾ききらず、首の近くに少しだけ冷たいところが残っている。腹はさっき食べたぶんだけ静かだ。

道は遠回りだった。

そのことが歩き始めて数分でよく分かった。

「長」

でも戻らなかった。

横へ開ける場所が増え、夕方の光が園内の屋根や木の上へ薄く乗っている。遠くを移動する人が見える。立ち止まって写真を撮る人。座って飲み物を飲む人。近道ではないのに同じ道を歩いている人が何人かいる。

ひよりはその一人を追い越し、別の一人に追い越された。

景色のいい場所で、ほんの少しだけ歩く速度を落とした。

そこには三人分ほど空いた手すり際があった。ひよりは一番端へ立つ。隣では誰かが写真を撮り終え、画面を確認している。別の人は写真を撮らず、手すりへ腕を置いている。

遠くの屋根は、昼に見たときより低く見えた。光の向きが変わって、輪郭の片側だけが明るい。園内を走るものも歩く人も、ここからは小さい。

ひよりはスマートフォンを出しかけた。

出して、カメラを開いて、やめた。

「なんか違う」

写真が悪いわけではない。撮るほどでもないと言うほどでもない。ただ、いまは片手を空けておきたかった。

空いた手で髪の湿ったところを触る。まだ少し冷たい。朝から何度も首へ当てたボトルは、もう鞄の中で空だ。

数秒だけ立ってから、ひよりはまた歩き出した。

「いいじゃん」

それだけ言った。

少し先に、夕方の光を正面から受ける場所があった。日陰へ寄れば避けられる。ひよりは寄らなかった。眩しくて目を細め、片手を額へ上げる。

午前なら、その手を上げる前に影へ入っていた。

今は、眩しいぶんだけ遠くがよく光っている。数歩歩けばまた影になるので、そのまま進む。

「暑」

声には出した。

でも足は変えない。

眩しい場所を抜けると、手すり沿いにまた長い影が来た。ひよりはそこへ寄らず、道の真ん中に残る。前から来た二人が影側へ寄ったので、自然にすれ違う幅ができた。

数十歩先では、小さな子どもが手すりの隙間から景色を見ようとして大人に持ち上げられている。別の人は近道へ戻れる接続を見つけて、迷わずそちらへ曲がった。

ひよりは曲がらない。

脚は余計に使われる。靴の中は一日ぶん蒸れていて、坂でもないのに膝が少し重い。額へ上げた手を下ろし、今度は鞄の肩紐を持ち直した。

感想としては短い。

脚は疲れている。もう一度冷房へ入りたいほど暑くはない。けれど涼しいと言い切るほどでもない。雨のあとの匂いが残っている場所と、もう乾いている場所がある。

日が傾くほど、人の影も長くなる。

前を歩く人の影がひよりの靴へ届き、次の瞬間には横へずれた。

午前中なら、影の形を見て何か言ったかもしれない。

いまはそのまま踏んだ。

遠回りの道は、ちゃんと遠回りだった。

途中で一度、近道へ戻れそうな接続が見えた。ひよりはそこも通り過ぎた。少し先でベンチが空いていたので座る。座った瞬間、脚が自分の重さを思い出したみたいにだるくなった。

「座らなきゃよかった」

立ち上がるのが面倒になる。

でも数分だけ座った。近くで誰かが写真を撮り、別の人が「こっち何もないね」と言い、その連れが「景色あるじゃん」と返している。ひよりは口を挟まない。

空のボトルを鞄の中で押しつぶしかけて、やめた。ゴミ箱は少し先にある。立つ理由ができたので立った。

「よし」

何がよしなのかは、自分でも分からなかった。

ENTRYへ戻るころには、足の疲れが一段増えていた。

「失敗したかも」

誰にも聞かれていないのに言った。

遠回りしたぶん、門へ近づく最後の数分が思ったより長い。いったん終わりが見えると、脚は急に正直になる。ひよりは歩幅を少し狭くした。

目の前を、まだ元気な子どもが走っていく。追いかける大人のほうが遅い。朝に見たのとは別の親子なのに、一日じゅう何度も似た光景を見た気がした。

出口方向の案内は分かりやすい。もう迷う必要はない。ひよりは案内どおりに進みつつ、売店を見つけるたびに飲み物を見る。

「ここで買うのもなあ」

門は近い。

「でも喉乾いた」

少し迷って、結局買わない。代わりに鞄の中の空ボトルを確かめて、ほんの少しだけ後悔した。

「朝の私、もっと大きいの買え」

時間を越えた指示は誰にも届かなかった。

でも近道を選ばなかったことではなく、途中でもう一本飲み物を買わなかったことについてだった。

門の近くは、朝とは人の向きが違う。

同じ床、同じ柱、同じゲートなのに、午前中とは歩く向きが反転している。朝は内側へ急いでいた人が多かった。今は外側へ向かう人のほうが目につく。そこへ、これから入る人が逆方向から差し込んでくる。

ひよりは流れの端へ寄った。午前中ならその位置に影があるか見ただろう。いまは単に、人とぶつからない場所を選んだ。

入口近くの照明も、昼の明るさを補うものではなくなっている。MATSURIの演出は目立つために騒がず、夕方から夜へ渡すぶんだけ少しずつ色を持ち始めていた。ひよりは立ち止まって見上げるほどではない。ただ朝に通った場所と同じではないことだけ、目の端で分かる。

近くのスタッフが、帰る家族へ忘れ物がないか声をかけている。別の来園者は入園前に鞄を開き、何かを探している。待ち合わせらしい人はゲートを見ず、ずっと外側を見ている。

「一日いても門って門なんだな」

ひよりは小さく言った。

MONへ向けた言葉ではなかった。

出ていく人が増えている。これから入る人もいる。昼の名残を抱えた人と、まだ服も髪もきれいな人が、同じ場所ですれ違う。

外へ向かう家族の一人は、空になった透明ボトルを二本まとめて持っている。反対から来た人は冷たいボトルを買ったばかりで、表面の水滴を指で拭っている。ひよりはその水滴を見て、朝の自分の手の冷たさを一瞬だけ思い出した。

今の鞄には空の一本がある。取り出して首へ当てる価値はもうない。

子どもを抱えた人。紙袋を増やした人。空のボトルを持った人。これから何か始まりそうな顔をした人。

MONは同じ場所にいる。

朝と同じ位置、同じ門の一部として、通る人へ必要なぶんだけ言葉を返している。ひよりの前では、再入場について確認した人が短い説明を聞き、別の人は何も聞かずに出ていった。

ひよりはそこで立ち止まらず、自分の順番まで歩く。

「退園されますか」

「帰る」

「承知しました」

ひよりは数歩進んでから、振り向いた。

「今日、暑かった」

「気象情報への感想として受け取ります」

「うん、それでいい」

ひよりはそれ以上つけ足さなかった。MONもつけ足さない。後ろから次の人が近づいてくる気配がして、ひよりは門の前を空けた。

門を出た。

外側の歩道も、夕方の光で二つに分かれていた。

左側には、建物から伸びた広い影がある。

右側には、まだ薄い日が残っている。

午前中なら迷わなかった。

左へ寄れば少し楽だということは、見れば分かる。身体もたぶん分かっている。

ひよりは足元を見なかった。

影は左にあった。ひよりは右へ出た。

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