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一月の遺失物室

小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品

📅 公開日: 2026/9/7 📝 10,481文字 🤖 AI創作支援作品 ✅ 全年齢

あらすじ

なくした手袋は、三分で見つかった。 用事はもう終わった。 それでもひよりは、遺失物窓口の奥にある 08 の箱が気になって帰らない。 携帯扇風機。団扇。波打った園内マップ。鍵。名前の書かれた帽子。そして、どこにでもありそうな黒いボールペン。 ひよりは持ち主の物語を想像する。 スタッフは、そのたびに答える。 「分かりません」 分からないものを、分かったことにはしない。 残っている物と記録だけを見ながら過ごす、 一月のPARA:DICE SIDE STORY。

本文

手袋は三分で見つかった。

片方だけだった。

朝、ポケットへ入れたつもりの手袋が、片方だけなかった。ひよりは歩きながら鞄を二回見て、コートの左右のポケットも触り、最後に片手だけ素手のままLOST & FOUNDへ来た。

カウンターの前で待っているあいだも、素手の指だけを何度か握っている。手袋のあるほうは何もしなくても平気なのに、ないほうだけがやけに働かされている感じがした。

だから返ってきた黒い片方を見た瞬間、感動より先に「早っ」が出た。

天羽ひよりがLOST & FOUNDのカウンターへ来た理由も、片方だけだった。

「これです」

スタッフが確認を終え、黒い手袋をカウンターの上へ置く。

「早っ」

ひよりは言った。

もう片方の手には、最初から同じ手袋をはめている。受け取ったほうもすぐにはめると、左右が揃った。

「ありがとうございます」

「はい。お受け取りの確認は完了しています」

「完了した」

「完了しています」

ひよりは両手を開いた。

指先まで布が戻っている。

外を歩いてきたあいだ、空いていた片手だけが冷えていた。いまは両方とも同じ厚みになっている。指を曲げ、拳を作り、もう一度開く。

左右が揃うと、さっきまで気になっていたことが急にどうでもよくなる。手袋の縫い目が指の付け根へ同じように当たり、両手をポケットへ入れたときの厚みも同じになる。

ただ、戻ったばかりの側は布そのものがまだ冷たい。ひよりは左右の手の甲を軽く合わせ、温度の違いを確かめる。片方だけ外を歩いてきた手、片方だけカウンターの向こうから戻った手。同じ手袋なのに、数分だけ感触が違う。

ひよりは一度、両手をポケットへ入れた。

「完全」

スタッフは確認票を片づけながら言う。

「お受け取りは完了です」

「そっちの完全ね」

「はい」

「よし」

用事は終わった。

三分だった。

来た時間より、手袋をなくしたことに気づいてから探していた時間のほうが長い。

ひよりはカウンターから離れようとした。

そこで、スタッフ側に置かれた段ボール箱が目に入った。

大きくも小さくもない、普通の箱だった。

新品ではない。折り目が少し柔らかく、側面には前に貼られていた何かの跡が薄く残っている。いま貼られている札だけが白く、黒い数字が目立つ。

カウンター越しなので、ひよりから見えるのは箱の上半分と、スタッフが取り出す物だけだ。中を覗き込もうとすれば身を乗り出す必要がある。

ひよりはそこまではしなかった。

数字だけを見る。

側面に仮の札が貼られている。

`08`

それだけ。

ひよりは一歩戻った。

「それ何?」

スタッフは手元の作業を止めず、箱を見る。

「八月分の確認中の遺失物です」

「八月?」

「はい」

「まだあるんだ」

「現在確認作業中です」

それ以上の説明はなかった。

箱の奥がどうなっているかは見えない。ひよりがいるのは客側のカウンター前で、箱はスタッフ側にある。

「これ、ここから見てていい?」

スタッフがひよりの位置と通路を確認した。

「カウンター前の利用を妨げない範囲で、こちらから見える作業であれば」

「触らない」

「お願いします」

「入らない」

「お願いします」

ちょうど別の客がカウンターへ近づいてきたので、ひよりは一度横へ退いた。自分の用事は終わっている。必要な人の前を塞ぐ理由はない。

スタッフは別の問い合わせへ対応し、ひよりは少し離れた位置で待つ。

待っているあいだ、ひよりは両手をポケットへ入れたり出したりした。戻ってきたばかりの手袋は、右と左でまだ温まり方が少し違う。さっきまで素手だった側は、布の内側まで冷えていた。

カウンターでは別の客へ必要な説明が返されている。ひよりは聞こうとせず、壁側の案内を眺める。自分の手続きが終わったあともここにいるのは自分の都合なので、次の人の用事へ割り込まない。

やがて客が去り、作業が再開する。

「ここなら邪魔じゃない?」

「はい。そこから見える範囲でお願いします」

「了解」

客側とスタッフ側の境目は、ひよりが面白がっても変わらない。

「もう手袋の用事ない」

「手続きは完了しています」

「知ってる」

ひよりは帰らなかった。

スタッフが箱から最初に取り出したのは、小型の携帯扇風機だった。

白い本体に、折りたたみ式の持ち手がついている。特別な装飾はない。

羽根を覆う網目に少し埃が入り、持ち手の角に細い擦れがある。スタッフは電源を入れて遊ぶことはせず、必要な外観と記録だけを確認する。

ひよりは回っていない羽根を見る。

「使えたのかな」

「動作状態について、この作業では確認していません」

「そこも分からない」

「いま確認している項目ではありません」

「分からないにも種類あるんだ」

スタッフは答えず、タグへ視線を戻した。

「これは八月っぽい」

ひよりが言った。

スタッフはタグを確認する。

「八月の拾得物です」

「ほら」

「はい」

「絶対、暑くて使ってて、どっかで置いて、そのまま忘れたんだよ」

スタッフの手が止まらない。

「使用状況は分かりません」

「じゃあ、電池切れて、もういいやって」

「記録にはありません」

「持ち主が新しいの買って」

「確認できる情報はここまでです」

「強い」

スタッフは扇風機を所定の確認位置へ移した。

移す前に、スタッフは本体を一度だけ持ち直した。網目の正面をこちらへ向けるでもなく、傷を見せるでもない。タグと本体が離れない位置へ置き、別の紙の端を揃える。

ひよりは、そこまで見てから首を伸ばした。

「写真とか撮るの?」

「必要な記録は業務側で扱います」

「私が撮るのは?」

「お客様側から、ほかの記録情報が写る撮影はお控えください」

ひよりは出しかけたスマートフォンをそのままポケットへ戻した。

「早めに聞いてよかった」

「ありがとうございます」

「今のは褒められた?」

「ご協力へのお礼です」

「細い」

スタッフはもう次のタグへ移っている。

ちょうど通路の向こうで案内音が一度鳴り、別の客がカウンターの前を通り過ぎる。ひよりは反射的にそちらを見て、また扇風機のあった位置へ戻す。もうそこには本体がなく、タグを確認するスタッフの手だけが次へ進んでいる。

ひよりはスマートフォンへ触れず、両手をコートの前へ戻した。見える作業は、その場で見る。

ひよりの物語は、三連続でカウンターに落ちた。

落ちるたびに、スタッフの手だけが先へ進む。

ひよりは最初、答えが返るたびに「じゃあ」と次を足した。二つ目からはスタッフがどこまで答えるか試すようになり、三つ目には自分でも半分笑っている。

「ここ、想像力に厳しい」

「確認できない内容は確認できないためです」

「厳しいんじゃなくて普通だった」

「はい」

「はいって言うんだ」

その間に、扇風機はもう箱の外へ移っていた。

次は団扇だった。

柄の入ったものではなく、使い込まれた普通の団扇だ。

ひよりは待ってましたという顔をした。

「これは絶対ケンカしたあと忘れたやつ」

「分かりません」

「早い」

「遺失物ですので」

「じゃあデート」

「分かりません」

「友達三人で来て、一人だけこれ持ってて」

「分かりません」

「途中から返事の準備してたでしょ」

「確認できる情報が増えていませんので」

ひよりは両手の手袋をカウンターの縁へ乗せた。

「じゃあ何なら分かるの」

「拾得日時、拾得場所、物品の特徴など、記録されている範囲です」

「持ち主のドラマは?」

「記録にはありません」

「ですよね」

団扇も次へ移る。

ひよりは、スタッフが物を持つたびに指の位置が違うのを見る。扇風機は持ち手。団扇は柄。濡れ跡のある紙は端を潰さないよう両手。

団扇を置いた指が離れ、次の紙へ移る。持つ場所は変わる。タグを見る向きも変わる。ひよりが聞くたび、スタッフはその物の記録へ目を戻す。

「これ、拾った人のことは?」

「記録されている範囲を超えてはお答えできません」

「拾った人にもドラマあるのに」

「確認できません」

「全方向閉じてる」

「必要な情報は記録に基づいて扱います」

ひよりは手袋をした指でカウンターを二回だけ軽く叩いた。

スタッフの作業は、ひよりの想像より速かった。

物を出す。

タグを見る。

記録と照合する。

必要な確認をする。

次の位置へ動かす。

ひよりが話しているあいだも、手は止まらない。

次に出たのは、少し波打った園内マップだった。

紙の端がまっすぐではない。水分を含んで乾いたようにも見える。

「雨だ」

ひよりが言った。

「確認できません」

「まだ何も聞いてない」

「状態から原因を特定することはできません」

「先回りした」

「先ほどの会話から、状態の理由についての推測と判断しました」

「そこは推測するんだ」

「質問内容の推定です。物品の履歴の推定ではありません」

「細かい」

ひよりはマップを見る。

「雨じゃなかったら、飲み物こぼしたとか」

「可能性の列挙はできますが、どれかは確認できません」

「じゃあ百個くらい言える」

「確認には影響しません」

「じゃあ百個言ったら一個くらい当たるかも」

「当たっていても確認できません」

「最強だ」

ひよりは紙の波打った端を見る。

スタッフは波打ちを伸ばそうとはしなかった。紙を平らに押し潰さず、端がほかの物へ引っかからないよう位置だけを変える。ひよりからは表面の一部しか見えない。どこで拾われたかの記録は、スタッフ側の紙にある。

「場所は?」

スタッフが記録を確認し、答えられる範囲だけを読む。

「園内での拾得です。詳細はこの確認作業では案内していません」

「もっと細かいの、書いてある?」

「記録内容そのものをすべてお見せすることはできません」

「箱の中より、紙のほうが見えないもの多いね」

「お客様へ提示する情報と、業務上扱う記録は同一ではありません」

ひよりは少し考えてから、また自分の位置へ踵を戻した。

「じゃ、ここから見えるぶんだけ」

「お願いします」

波打った紙は、波打ったまま確認される。原因だけが増えない。

雨。飲み物。濡れた手。鞄の中。床。

ひよりは五つまで指を折りかけて、三つ目でやめた。手袋の指では細かく折りにくい。

「これ以上言っても増えるだけか」

スタッフは波打った紙をタグの横へ置く。原因の欄が新しく生えることはない。

「見た目って役に立たないね」

「特徴の確認には使います」

「そういう意味だとちゃんと役に立つのか」

「はい」

「つまんないなあ」

口ではそう言いながら、ひよりは帰らない。

次は鍵だった。

その前に、別の客がカウンターへ来た。

ひよりはすぐ横へ退く。スタッフは作業中の物を一度安全な位置へ置き、客の問い合わせを受ける。

ひよりには内容が聞こえない程度に距離を取り、手袋をした両手をポケットへ入れて待つ。

用事が終わると、客は礼を言って去る。スタッフはさっきの位置へ戻り、`08`の箱へ手を伸ばした。

「再開」

ひよりが言う。

「作業を再開します」

次は鍵だった。

一本だけ。

大きなキーホルダーも、分かりやすい札もない。

金属の部分は光っているが、鍵穴の向こう側は当然ここにはない。

ひよりは鍵を見ているうちに、使える物ほど持ち主が分からないと急に意味が薄くなるのが面白くなってきた。

「これだけ見ても、何にも開かないね」

「ここでは対応する錠は確認できません」

「そういう意味じゃないけど合ってる」

「はい」

「合ってるんだ」

スタッフは鍵を持ち替え、タグを確認した。

「これは車」

「分かりません」

「家」

「分かりません」

「秘密基地」

「分かりません」

「宝箱」

「分かりません」

「スタッフルーム」

「記録にない用途をこちらで設定しません」

「最後だけちょっと怒られた」

「怒っていません」

「じゃあ注意?」

「事実の確認です」

「それ便利だなあ」

「何がですか」

「怒ってるように聞こえても、事実の確認って言える」

「怒っていません」

「二回目」

ひよりは笑い、鍵へ視線を戻した。

金属の一本は、秘密基地にも宝箱にもならないまま、ただ記録された遺失物としてそこにある。

「それも強い」

スタッフは鍵の形状とタグを確認する。

鍵は机へ置くと小さく鳴った。金属の頭が一度だけ回り、歯のある側が横を向く。ひよりはその形を見ようとして顔を近づける。何か文字が刻まれているわけでもない。大きな飾りもない。

スタッフは鍵を客側へ差し出さない。確認位置の中で向きだけを変える。

ひよりはカウンター越しに少し身を乗り出しかけて、すぐ戻った。

「触らない」

「ありがとうございます」

「えらい」

「はい」

「そこ褒めて」

スタッフは次の物を取った。

帽子だった。

内側の一部に、名前が書かれているらしい。

スタッフは名前の面を客側へ向けない。

ひよりはそこへ視線をやってから、すぐスタッフを見る。

「名前あるんだ」

「はい」

「じゃあ誰のか分かるじゃん」

「記名はあります」

「連絡できる?」

「名前のみでは、こちらから連絡先を確定できません」

「でも名前はある」

「はい」

「その人のものじゃないの?」

「記名があることは確認できます」

「でも、それだけじゃ足りない」

「はい」

ひよりは帽子の外側を見る。形は普通で、色も珍しくない。内側の見えないところにだけ、誰かへ近づけそうな情報がある。

「名前があるのに、まだ匿名みたい」

スタッフはその言い方を肯定もしない。

「受け取りには必要な確認があります」

ひよりはそこで、また一つ想像を足しかけた。

「所有者を確定するには、受け取り時の確認が必要です」

「じゃあ、なんで取りに来てないの」

「分かりません」

「気づいてない?」

「分かりません」

「もう別の帽子買った?」

「分かりません」

ひよりの口が止まった。

ひよりはカウンターの縁から指を離した。

扇風機のときは網目を見た。団扇では柄を見た。鍵では形を見た。帽子だけは、内側に何か書かれていると分かっているのに、その面がこちらへ来ない。

「そこ、見えなくていい」

スタッフは答えを足さず、同じ向きのまま扱う。

ひよりは、読めないように向けられた内側をもう一度見た。

「名前って強そうなのに」

スタッフは作業を続ける。

「受け取りの確認に必要な情報は、記名だけとは限りません」

「そっか」

今度は本当に、それで止まった。

今までなら次を足していた。

帽子をなくした人が、どうした。

何を思った。

家へ帰ってから気づいた。

翌日探した。

諦めた。

どれも言おうと思えば言える。

どれも、このカウンターでは分からない。

スタッフは帽子を作業位置から移した。

移すときも、内側の文字はひよりへ向かなかった。スタッフの親指が縁を支え、もう片方の手がタグを添える。名前がある物だから特別にゆっくりするわけでもない。けれど、客側から読める向きへ偶然ひっくり返ることもなかった。

ひよりは一度、口を開いた。

何と書いてあるの、と聞けばいいだけだった。

聞く前に、スタッフの手の向きが答えの半分になっていた。

「それ、私は読まないほうがいいやつ?」

「こちらからお見せする情報ではありません」

「了解」

ひよりは身体を少し引いた。

さっき鍵の形を見ようとして身を乗り出したときより、今度は戻るのが早かった。両手はコートの前で重なり、黒い手袋どうしが擦れた。

スタッフは説明を増やさない。帽子は次の位置へ移る。

ひよりは、帽子が見えなくなってからも数秒だけ同じ場所を見ていた。

スタッフは次の物へ手を伸ばす。

ひよりは「そっか」とだけ言った。

横の通路を、手袋を外した人が歩いていく。カウンターへ来る人ではない。誰かの会話が一度近づき、また遠ざかる。ここだけ静かになったわけではなく、ひよりの口数だけが止まっている。

スタッフは帽子のあった場所を空け、次のタグへ手を伸ばす。

そのあいだも、スタッフの仕事は続く。

箱から次に出たのはサングラスだった。

ひよりは少し間を置いてから言う。

「これは?」

スタッフがタグを見る。

「八月の拾得物です」

「いや、そうじゃなくて」

「確認したい項目をお願いします」

「持ち主は」

スタッフが口を開く。

「まだ何も言ってない」

「はい」

「たぶん『分かりません』って言おうとした」

「所有者の行動についてであれば、分かりません」

「ほら」

「質問前です」

「私が勝った」

「勝敗は設定されていません」

「MONみたいなこと言う」

ひよりは笑った。

空気が少し戻った。

ひよりはサングラスを見て、今度は持ち主の話ではなく物そのものへ質問を変えた。

「これ、傷ある?」

スタッフは見える範囲を確認する。

「表面に使用痕があります」

「それは言えるんだ」

「確認できますので」

「じゃあ色は?」

「黒です」

「急に会話が成立する」

「物品の特徴については記録対象です」

ひよりは少し笑った。

スタッフがサングラスを置く。レンズ面を下へ擦らない位置で止まり、タグがその横へ来る。ひよりが聞いた黒という色と、表面の使用痕はそのまま残る。誰が掛けていたかだけは増えない。

サングラスの次に、小さな布袋が出た。

「これは袋」

「布製の袋です」

「見れば分かるやつ二連続になる?」

スタッフは外観を確認する。ひよりは一秒待ってから、持ち主の話を作りかけた口を閉じた。

「……やめとく」

「はい」

「今の『はい』は何」

「質問がなかったため、作業を続けます」

「つよい」

布袋が移る。

その次に、黒いボールペンが出た。

出た瞬間、ひよりは少し拍子抜けした。

「急に事務用品」

「ボールペンです」

「そうだけど」

「黒色です」

「見れば分かる」

「確認できる特徴です」

「今日は見れば分かることが一番強いな」

スタッフは返事をせず、ペンとタグを並べる。

本当に普通のボールペンだった。

スタッフの指に挟まれていても、特別な存在感はない。机の上に十本あれば見分けるのに困りそうな形だった。

ノック部分に指をかければ芯が出る。書けば黒い線が出る。たぶん、それ以上の説明はいらない種類の物だ。

ひよりは、扇風機のときみたいに即座に話を作れなかった。

「……地味」

「黒色のボールペンです」

「そこは完全に一致」

スタッフはタグを裏返した。

透明な軸でもない。派手なロゴもない。傷が目立つわけでも、名前が書かれているわけでもない。

黒い樹脂の軸。

黒いノック部分。

どこにでもありそうな一本。

ひよりは少し首を傾けた。

「これ、八月っぽくないね」

スタッフはタグを確認した。

「八月十三日の拾得です」

スタッフの指はタグからペンへ戻る。黒い軸は同じ角度で机にある。ひよりは日付を聞く前と同じ場所を見ているのに、もう一度ノック部分から先端まで目で追った。

見た目は変わらない。

ひよりは、ペンの軸からタグへ視線を移し、また軸へ戻した。

「……そっか」

スタッフはペンを箱の端へ置いた。

ひよりはしばらく、その黒い一本を見ていた。

カウンターの端には、スタッフが業務で使っている別の筆記具もある。そちらは作業位置が決まっていて、遺失物の一本とは触れない距離に置かれている。

ひよりは二本を見比べた。

「普通のペンが二本あるだけに見える」

「こちらは業務用です」

スタッフが自分の側を指す。

「こちらが確認中の遺失物です」

もう片方を指す。

「説明されると急に別人」

「物品です」

「はい」

ひよりは笑いかけて、もう一度黒い軸へ目を戻した。

同じ机に置けば似た形が並ぶ。それでもスタッフは置く場所もタグも混ぜない。ひよりが見分けられるかどうかとは別のところで、一本は一本として扱われている。

机の上に置かれたら、書類の横へ自然に紛れそうな一本だった。

「これ、今スタッフさんのペンと混ざったら分かる?」

「作業物は識別情報とともに扱っています」

「ちゃんとしてる」

「はい」

「そこは自信あるんだ」

「確認手順ですので」

ひよりは少しだけ笑った。

普通すぎる見た目と、はっきりした日付が同じ物の上に乗っているのが、まだ変な感じだった。

スタッフは次の作業へ移った。

「次、何?」

ひよりが聞く。

さっきまでより声が少し遅い。

「確認中です」

「うん」

箱の中の物は減っていく。

ひよりは途中から、箱の中身より箱そのものを見る回数が増えた。

最初は物が重なって札の下まで隠れていた。いまは底が見える。スタッフが手を入れるたび、残りの物が軽く動く。

「あと何個?」

「現在この箱に見えている範囲では、残りは少数です」

「数は言わないんだ」

「作業中ですので、確定前の数を案内する必要がありません」

「そこまで慎重?」

「必要な範囲で確認しています」

ひよりは箱の角を目で追った。

一つ出るたび、スタッフの手元で確認され、今いる作業位置から別の位置へ移る。

どこへ最終的に行くのか、ひよりは聞かなかった。

「これ、誰か取りに来るかも?」

スタッフは記録を見た。

「今後の受け取りについて、現時点で確定している情報はありません」

「そっか」

次の物では一つだけ作った。

「これ、兄弟で取り合ってたとか」

「分かりません」

「うん」

さらに次は、何も作らなかった。

物を見て、スタッフの手を見る。

タグを見る。

何か思いついても、口へ出る前に「それは分からない」と自分の中で一度止まる。

口の中では一つ二つ続きが浮かぶ。ひよりはそのたび、手袋の親指を人差し指へ押しつける。言葉は出さない。

質問が少し減ったぶん、カウンターには紙を置く音や箱が擦れる音が戻った。

スタッフが箱の底を確認する。

一度だけ箱を手前へ寄せ、底の角に小さな物が残っていないか指先ではなく視線で追う。次に側面を少し持ち上げ、影になっていた部分を見る。ひよりから箱の中へ顔を入れることはできないが、空いた面積が増えたことだけは分かる。

「最初、もっとぎゅって入ってたよね」

「はい」

「重かった?」

「重量は案内項目として確認していません」

「持った感じで」

「作業者の感覚を記録情報として案内しません」

「そこも乗ってこない」

スタッフは箱を元の位置へ戻す。

「でも軽く動いた」

「中身が減っています」

「そこは見たままでいいんだ」

「はい」

`08`の札がついた面が、最初よりよく見えるようになっている。

中身が減ったぶん、箱は軽そうだった。

最初は物の縁しか見えなかったのに、今は底の茶色い面が広く見える。スタッフが箱を少し動かすと、さっきより簡単に位置が変わった。

「ほんとに減った」

「確認作業が進んでいます」

「最初より箱っぽい」

「箱です」

「知ってる」

ひよりは笑う。

物がなくなると、`08`の札だけが妙に大きく見えた。

「手続き、終わってますよ」

スタッフが言った。

「知ってる」

ひよりは両手を持ち上げた。

「ほら」

戻ってきた手袋を見せる。

「受け取り済みです」

「それも知ってる」

「はい」

ひよりは手袋の指先を握ったり開いたりした。

箱には、あと一本だけ残っていた。

ひよりはそれが何か、取り出される前に分かった。

「最後、あれだ」

「はい」

「普通のやつ」

スタッフは箱へ手を入れる。

さっき日付を聞いたときと同じ黒い軸が、もう一度手元へ出てくる。

見た目は何も増えていない。

ひよりの側だけが、八月十三日という記録を知っている。

さっきの黒いボールペンだった。

スタッフがそれを取り上げ、タグをもう一度確認する。

ひよりは最初に見たときと同じように、ノック部分、軸、先端の順に目で追う。スタッフの業務用筆記具は少し離れた位置にある。二本が触れることはない。

「まだ普通」

「外観上、新しい特徴は確認していません」

「うん。増えないよね」

黒い軸は、どこから見ても普通だった。

ひよりは今度は「八月っぽくない」と言わなかった。

ペンが作業位置から移る。

箱が空になる。

スタッフは底を確認し、側面の`08`札へ手をかけた。

仮止めされていた札が剥がれる。

粘着面が小さく音を立てる。スタッフは剥がした札を手元へ置き、箱の中をもう一度見る。何も残っていないことを確認してから、側面を押す。

四角かった箱が平たくなる。

ひよりが見ていた数十分ぶんの物は、もうそこにはない。

ひよりは平たくなった段ボールを見る。

スタッフが左右の折り目を重ねると、箱だった厚みがさらに薄くなる。さっきまで物の角が引っかかっていた内側はもう見えない。剥がした札は作業側へ置かれ、箱とは別になる。

確認中の箱から、確認中を示す札が外れた。

箱は折りたたまれ、さっきまでの位置から片づけられる。

スタッフは空いた作業面を一度整える。札の欠片も、取り残されたタグもないことを確認する。

箱があった場所へ手のひらを滑らせるのではなく、目で一周してから必要な紙だけを元の位置へ戻す。ペン立ては動かさない。別件の書類も触らない。作業面にできた空白を、別の物で埋めることもしない。

ひよりはその空白へ両手を置きそうになって、客側の縁で止めた。

ひよりは、物がたくさん入っていたときより広く見えるカウンターの向こうを眺めた。

「最初からこの広さだったんだよね」

「作業前後でカウンター自体の広さは変わっていません」

「はいはい」

また事実だけ返ってくる。

その感じが、もう少しだけ面白かった。

カウンターの向こう側に、何もない場所ができた。

ひよりはそこを見た。

「なくなった」

「この箱の確認作業は終了しました」

「うん」

「お客様のお受け取り手続きも完了しています」

「二回目」

「はい」

ひよりは笑った。

今度こそカウンターから離れる。

二歩進んで、ひよりは一度だけ振り返った。

スタッフはもう次の通常作業へ移っている。`08`の札も箱も、ひよりの手袋も、そこにはない。

「じゃあね」

誰にともなく言いかけて、スタッフへ向ける。

「ありがとうございました」

「はい。お気をつけて」

今度は本当に用事の終わった客として離れる。

外へ向かう通路で、両手を一度ポケットへ入れた。

すぐに片方を出して、襟元を少し上げる。

冷たい空気が首へ入る。

ひよりは顎を引き、襟の端を手袋越しにつまむ。布が指へ引っかかり、素手より少しやりにくい。片方だけ外して直そうとして、やめた。せっかく揃った手袋をまた片方だけ脱ぐ理由がない。

カウンター前では暖かさに慣れていた身体が、通路へ出ただけで肩を少しすくめる。ひよりは襟を直し、今度は両手を同時にポケットへ入れた。

左右どちらも同じ手袋がある。

指先が布の内側でゆっくり温まっていく。

来たときに空いていた片方の冷たさは、もう思い出さないと分からないくらいになっていた。

「さむ」

両手は手袋の中にある。

今度は片方だけ冷たくならなかった。

ひよりはそのまま歩いていった。

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