第7話 奥様の小さなお茶会
小説投稿サイト「あいぺん」に投稿された作品
あらすじ
貴族フェルン家に仕える住み込みメイド、セラ・ミルト。飛び抜けて器用ではないけれど面倒見が良く、頼まれごとには何でも即答してしまう性分。主人一家に振り回され、時にはドジも重ねながら、新人指導や屋敷の困りごとを人と人の繋がりでほどいていく。小妖精の噂も囁かれるこの屋敷で、セラは今日も手一杯の一日を駆け回る、心温まる日常物語。
本文
朗読会から二日後の朝、セラは応接間の窓辺で花瓶の水を替えていた。
秋の陽が薄いカーテン越しに差し込み、埃がゆっくり漂っている。ミレイユの朗読が終わった安堵は、まだ身体のどこかに残っていたが、洗濯場の仕事も、エルシーの指導も、いつも通り待っている。特別なことは何もない、はずの朝だった。
「セラ、ちょっといい?」
廊下からリディア夫人の声がした。振り返ると、夫人は珍しく朝から上機嫌な顔でこちらへ歩いてきていた。
「はい、奥様」
「実はね、思いついたの。近いうちに、気軽なお茶会をしようかなって」
「お茶会ですか」
「そう。領地の奥方たちを何人か呼んで、庭を見ながらお茶を飲むくらいの、本当に気軽なものよ」
セラは水差しを花台に置いた。それくらいなら、と思う間もなく、リディア夫人の言葉は次を追いかけてきた。
「日にちは、来週の木曜日にしましょうか。それでね、せっかくだから、ミレイユにも出迎えをさせようかしら。お客様との会話の練習にもなるでしょうし」
「よろしいと思います」
「それに、お菓子も、焼き菓子だけじゃつまらないから、果物を使ったタルトも用意して。あ、そうだ、庭に出す卓布も、新しいのに替えましょうか。この間見た秋色のが、素敵だったのよね」
セラは頷きながら、頭の中で指を折り始めていた。焼き菓子、タルト、卓布、庭の設え、ミレイユの練習――
「それから、客間の飾り付けもね。秋らしく、少し華やかに」
リディア夫人の声は止まらない。話しているうちに、自分の思いつきが自分を追い越していくような、いつもの調子だった。
セラは、それを黙って聞きながら、心の中で天秤を動かしていた。
通常の家事。エルシーへの指導。繕い物。そこへ、菓子作り、飾り付け、卓布の準備、庭の設え。木曜日まで、あと六日。
以前のセラなら、ここで「かしこまりました」とだけ答えて、後は一人で何とかしようとしていただろう。そうして、気づいた時には手が回らなくなり、誰かに助けられて初めて事の大きさに気づく。そんな繰り返しだった。
だが今、セラは自分の中で、その天秤がどちらに傾いているかを、はっきりと感じ取っていた。
「奥様」
セラは口を開いた。
「とても素敵な計画だと思います。ですが」
リディア夫人が、話の途中で目を上げた。
「これだけのご準備を、あたし一人でとなると、木曜日までには、少し難しいかもしれません」
言ってしまってから、セラは自分でもその言葉の重みに驚いていた。まだ、洗濯物の山も、繕い物も、目の前に迫っているわけではない。限界には、まだ遠い。
けれど、遠いところで、もう分かっていた。このまま黙って引き受ければ、必ずどこかで足りなくなる。
リディア夫人は、少し意外そうな顔をした。
「あら。そう?」
「はい。もしよろしければ、ノーラとエルシーにも手伝ってもらいたいのですが」
「ああ、それはもちろん構わないわ。というか、そうしてちょうだい。あたし、あなた一人にやらせるつもりなんてなかったのよ」
リディア夫人は、あっさりと言った。
「むしろ、みんなで準備するほうが、楽しそうじゃない?」
その言葉に、セラは肩の力が少し抜けるのを感じた。
洗濯場に戻ると、ノーラが盥の前で繕い物の糸を選んでいた。
「ノーラ、ちょっといいですか」
「ん? どうした」
「奥様が来週、お茶会を開くことになったんです。それで、菓子作りと飾り付けと、卓布の準備がいるんですけど」
セラは一息に話した。
「一人では、たぶん間に合わないので。手伝ってもらえませんか」
ノーラは、糸を選ぶ手を止めて、セラの顔をまじまじと見た。
「……あんた、今、自分から言った?」
「はい」
「限界来る前に?」
「はい。まだ、来てないと思います」
ノーラは口の端を上げて、それから小さく吹き出した。
「へえ。そうかい」
その笑いには、からかいと、それだけではない何かが混ざっていた。
「いいよ。あたし、菓子は得意だし。何を作ればいいって?」
「果物のタルトと、焼き菓子を何種類か。奥様のご希望なので、詳しくは後で確認します」
「分かった。卓布は?」
「それは、あたしが庭師のバルトさんに相談して、生地を見繕おうかと」
「じゃあ、飾り付けは」
ノーラが言いかけたところで、洗濯場の入口からエルシーが顔を出した。
「先輩、何のお話ですか?」
セラは、エルシーにも同じことを説明した。話を聞き終えると、エルシーは少し考えるように首を傾げてから、こくりと頷いた。
「あたし、飾り付け、やってみたいです。前に、いつかお手伝いさせてくださいって言いましたよね」
セラは、その言葉に、あの日のやり取りを思い出した。客間の小さな騒動の後、エルシーが「今度また何かあったら手伝わせてほしい」と言ってくれたことを。
「お願いします」
「はい!」
エルシーの返事は、いつもより少しだけ張りがあった。
その日の夕方、三人は洗濯場の隅で顔をつき合わせ、役割を確認し合った。
ノーラが菓子作り。エルシーが飾り付けと、テーブル周りの支度。セラが全体の進行管理と、リディア夫人との細かい相談、それに庭師との調整。
紙に書き出すと、それほど多くはないように見えた。三人でやれば、六日もあれば十分だ。
「あとは天気だな」
ノーラがぽつりと言った。
「庭でお茶をするんだろ。雨降ったら、どうすんの」
「そのときは、客間に切り替えられるように、準備しておきましょう」
セラは、その場でそう答えた。以前なら、天候の心配まで頭が回らず、当日になって慌てていたかもしれない。だが今は、三人で話しているからこそ、そういう抜け漏れにも気づける。
「じゃ、明日から始めるか」
ノーラが言い、エルシーも頷いた。
準備は、思いのほか滑らかに進んだ。
ノーラは朝早くから厨房に立ち、タルトの生地を仕込み、焼き菓子の配合を何度か試した。セラが味見をすると、日ごとに完成度が上がっていくのが分かった。
エルシーは庭から集めた秋の草花を、客間の一角に少しずつ活け始めた。不慣れな手つきだったが、マルタに簡単な指導を仰いだらしく、三日目にはずいぶん形になっていた。
セラは庭師のバルトのところへ行き、卓布に合う色合いを相談した。バルトは、庭の紅葉の色を見ながら、「この赤茶色なら、悪目立ちしないでしょう」と、淡々と助言してくれた。
準備の合間、セラは自分の中で何かが変わっていくのを感じていた。
これまでなら、菓子の味見も、花の活け方も、卓布の色も、全部自分の目で確かめて、自分の手で直さなければ気が済まなかった。だが今回は、ノーラの菓子を信じ、エルシーの飾り付けを信じ、必要なところだけ助言をする。それだけで、物事は回っていく。
木曜日の三日前、廊下でミレイユに会った。
「セラ、お茶会の準備、大変?」
「今回は、そうでもないんです」
セラは素直に答えた。
「ノーラとエルシーが、手伝ってくれているので」
ミレイユは、少し意外そうな顔をしてから、ゆっくりと微笑んだ。
「よかった。この間みたいに、無理してないなら」
その言葉に、セラは胸の奥が温かくなるのを感じた。朗読会の練習の時、ミレイユに気遣われたことを、まだ覚えていた。今度は、心配をかけずに済んでいる。
「お嬢様は、当日、お客様のお出迎えをなさるんですよね」
「うん。ちょっと緊張するけど」
「大丈夫です。お嬢様なら、きっと」
ミレイユは、はにかむように笑った。
木曜日の朝は、薄雲が広がっていた。
セラは早くに起きて、客間と庭の両方を確認した。エルシーの飾り付けは前日のうちに仕上がっており、秋草と赤い実の組み合わせが、庭にも客間にも、それぞれ違った表情で映えていた。
ノーラの焼いたタルトと焼き菓子は、厨房の卓に並べられ、甘い匂いが漂っている。卓布は、バルトが助言してくれた赤茶色のものに替えられ、庭の紅葉とよく調和していた。
昼近くになって、風が出てきた。
セラが庭を見に行くと、卓の上に広げていた布の端が、はためき始めていた。
「エルシー」
セラが呼ぶと、エルシーはすでに動いていた。
「押さえの石、持ってきます」
言うが早いか、エルシーは庭の隅へ駆けていった。セラが指示するより先に、必要なことを察して動いている。
厨房では、ノーラが焼き菓子の追加の仕上げをしながら、窓の外を気にしていた。
「本降りにはならなそうだけど、念のため、客間に移せるようにしとくか」
「お願いします」
セラが答えると、ノーラはすでにテーブルクロスの予備を用意し始めていた。
事前に三人で「もし雨が降ったら」と話し合っていたことが、今、そのまま活きていた。セラが逐一指示を出さなくても、それぞれが自分の持ち場で、次にすべきことを分かっている。
風は結局、それ以上強くならなかった。空は薄曇りのまま、客を迎える時間になった。
午後、領地の奥方たちが、次々と到着した。
リディア夫人は玄関で客を迎え、ミレイユもその隣で、少し硬い笑顔ながら、丁寧に挨拶をしていた。
セラは庭と客間を行き来しながら、お茶とお菓子を運んだ。ノーラのタルトは、来客の一人から「とても美味しいわ」と褒められ、厨房に戻ったノーラにその言葉を伝えると、ノーラは照れ隠しのように鼻を鳴らした。
エルシーの飾り付けにも、目を留める客が何人かいた。
「この生け方、素敵ね。どなたが?」
「あたしの後輩が」
セラがそう答えると、エルシーは少し離れたところでその会話を耳にして、頬を赤くしていた。
お茶会は、二時間ほど、穏やかに進んだ。
途中、庭の隅でカップが一つ倒れかけたが、近くにいたエルシーがすぐに支え、何事もなかったように片づけた。厨房から追加の紅茶を運ぶタイミングも、ノーラが自分の判断で早めに用意してくれていたおかげで、途切れることがなかった。
セラは、その一つ一つを見ながら、自分が全部を背負っていた時とは違う流れを感じていた。
指示を出さなくても、回る。
見ていなくても、進む。
それは、寂しさに似た感覚ではなく、むしろ何か確かなものに支えられている実感だった。
客たちが帰り始めたのは、日が傾きかけた頃だった。
リディア夫人は、最後の客を見送ってから、セラのところへやってきた。
「セラ、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「本当に、今日は素敵だったわ。準備も、当日の対応も、全部、無理がなかったでしょう」
リディア夫人は、セラの肩に軽く手を置いた。
「あなたが、ちゃんとノーラとエルシーに声をかけてくれたからね」
セラは、その言葉に、何と返せばいいか分からず、ただ小さく頭を下げた。
リディア夫人が客間へ戻っていくのを見送ってから、セラは片づけに戻った。
ノーラが空いた皿を重ねながら、セラの方を見た。
「今日は、疲れた?」
「疲れましたけど……いつもと、違う疲れです」
「どう違うの」
セラは、少し考えてから答えた。
「一人で抱えてた時の疲れじゃなくて、ちゃんと動いた後の疲れ、というか」
ノーラは、その言葉に小さく笑った。
「あんたが最初に『手伝ってもらえませんか』って言ったから、こうなったんだよ」
「そうですね」
「それ、忘れんなよ」
ノーラはそう言って、皿を持って厨房へ向かった。
エルシーが、庭から最後の卓布を畳んで戻ってきた。
「先輩、今日、褒められて嬉しかったです」
「よかったですね」
「先輩が、ちゃんと役割分けてくれたから、あたしも、自分の仕事に集中できました」
セラは、その言葉を、静かに受け止めた。
夜、セラは自分の部屋で、編みかけのリボンを取り出した。
ミレイユのために編んでいるもので、朗読会の準備の間、ほとんど手をつけられずにいた。今夜は、少しだけ針を進める余裕があった。
窓の外は、既に暗くなっている。昼間の風は止み、静かな夜だった。
セラは、今日一日のことを思い返していた。
リディア夫人の思いつきが膨らんでいく中で、以前なら、黙って全部を引き受けていただろう。だが今回は、限界に達する前に「一人では無理かもしれません」と言えた。
その一言から、ノーラとエルシーが動き、天候が崩れかけても混乱にはならず、お茶会は無事に終わった。
「早めに声をかけたら、回った」
セラは、その事実を、自分の言葉でそう呼んでみた。
それは、まだ小さな手応えに過ぎない。頼まれごとに即答してしまう癖も、気づけば一人で抱え込もうとする性分も、今日一日で消えてなくなったわけではない。明日、また別の頼みごとが重なれば、同じように焦り、同じように一人で背負おうとするかもしれない。
けれど、今日という日には、確かな違いがあった。
セラは針を持つ手を止め、窓の外の暗がりを見た。
廊下の向こうから、マルタの足音が近づいてくるのが聞こえた。だが今夜は、部屋の前で止まることもなく、静かに通り過ぎていった。
その足音の余韻を聞きながら、セラは編みかけのリボンに、また一針を通した。
明日も、いつも通りの朝が来る。頼まれごとは、また重なるだろう。だが少なくとも今、セラの手の中には、「声をかければ、回る」という、確かな実感があった。
作品統計
📚 本を探すなら「よみどき」(あいぺんが運営する本の発見サイト)
130万冊を超えるコミック・小説・書籍の順位と値段を毎日みて、いま読むものを決められます。